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 遥花は頬を赤色に染めて伏し目がちに歩く。隣に立つユキトを直視できずにいる。彼との会話も簡単な返事しかできていない。
 退屈だと思われてないかな。
 ユキトの言葉はあまり頭に入ってこず、そんな不安が何度もよぎる。
 ボクシング部の練習を終え学校から駅までの帰り道。遥花はユキトと二人きりで歩いていた。一緒に帰るのは帰り際にたまたま校舎で会った時だけで月に一度あるかどうか。それも今日で最後になるのかもしれない。大切な時間が過ぎていくと感じる遥花の中で色々な思いが交錯する。そのあまりユキトが話かけているのに気付かなくなっていた。
「遥花ちゃんっ」
 ユキトが顔を近づけて言った。
「えっああっなに?」
  遥花は動揺しながら返事した。
「いや、だからさ、三年間あっという間だったってさ」
「そうだね」
 と返事してから、遥花はまた相づちしかうてなかったことに気付いて心の中でもうっと溜め息をついた。
「遥花ちゃんは思い残したことある?」
 遥花はすぐには返事をしなかった。今度こそもう少し喋ろうと思って記憶を探った。
「二度もインターハイで優勝できたんだからないかな」
「そんなことないよ」
 遥花はユキトを見て両手を降った。形式的に謙遜したものの本当はどうなんだろうと振り返った。ユキトの言う通り、インターハイで二度優勝できたから大会では満足いく結果を残せた。しかも二度目は三年生最後の夏の大会。有終の美を飾れて言うことない終わり方だった。でも、一つだけ果たせていないことがあると気付いた。それは高校生の間でなくてもかまわない。いつかちょうどよいタイミングがくるにちがいない。そう思って行動に起こすのを躊躇い続けていた。
「僕はね、まだまだやりきれてないんだ」
 遥花はユキトを見た。
「あと一歩手が届かなかったからね」
「準優勝なんだから全然すごいよ」
「ありがとう遥花ちゃん。でも、誰よりも強くなりたいって思いがあるからね。だからプロになってさ、今度こそ一番になりたいんだ」
 ユキトは握り拳を作ってそう言うと、夜空を見上げた。それからまた遥花を見た。
「そういえば遥花ちゃんもプロになるんだっけ?」
「うん」
 とだけ言った。自分のことで多く喋る気にはなれなかった。自分がプロになるのは、父親がボクシングジムの経営をしていてそのために出来た借金を返済するため。ユキトのようにボクシングへの熱い思いからではなかった。本心でいえばもうボクシングは充分だった。高校でボクシング部に入ったのもクラスメートの明日奈にどうしても一緒にとお願いされたからだった。
「そういや遥花ちゃんのお父さん、ジムの会長なんだもんな。親孝行だよなぁ」
「そんなことないよ」
 遥花は下を向いて微笑んだ。自分のためじゃない、父のために選んだプロの道だから、褒めてもらえることがとても嬉しかった。
 電車の走る音が聞こえた。前を向くと、30メートルほど先にガードレールが見える。駅はその左側にある。ユキトと一緒でいられるのもあと少しだ。遥花にはどうしても聞いておきたいことがあった。
「橘君はジムもう決まったの?」
 遥花の心臓がドクンドクン動く。
「いやまだだよ。どうしようか悩んでてさ」
 ユキトは息をつきながら言った。
 うちのジムはどう。
 沸き起こる言葉が出ないよう遥花は必死になって抑えた。うちみたいな弱小ジムじゃ満足してもらえるはずない。
 携帯電話が鳴る音がした。ユキトがズボンから携帯電話を出した。ユキトは敬語を使って丁寧に応答する。
「あっそうですか。分かりました。よろしくお願いします」
 ユキトは電話を終わらすと、畏まった表情からにっこりと微笑んだ表情に変えて遥花にみせた。
「今決まったよ、所属することになったジム」
 ユキトとは対照的に遥花の表情が堅くなる。
「そうなんだ。どこなの?」
 遥花は堅くなった顔に懸命に笑みを浮かばせた。
「西薗ボクシングジムだよ」
 その言葉を聞いて、遥花の目から力が消えていった。また伏し目がちに地面を見て、息をついた。
 橘君はエリカがいるジムにいくのか・・・。
小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
「どうしたのお父さん?」
 会長室に入った遥花は伏し目がちに、机に座っている父の祥三の顔を見て言った。練習を終えたばかりでまだ身体に疲労が残っている。祥三と目を合わせて話す気力はなかった。
「三つのジムから試合のオファーがきている」
 祥三のその言葉を聞いて、ようやく遥花は顔を上げた。
「誰なの?」
  大事な話だ。三度目の防衛戦。対戦相手次第でベルトを守るのに費やすエネルギーはだいぶ変わってくる。もちろん、弱い相手であるのにこしたことはない。
「ランキング2位の田宮良子、5位の西薗エリカ、7位の後藤ユリだ」
 遥花の表情が固まった。落ち着こうと目を瞑り息を出す。頭の中がすうっとしてきて、考えを巡らした。長く考えるまでもなかった。その面子の中で実績、実力ともに後藤ユリが一番劣る。遥花は目を開けた。
「後藤ユリにするんでしょ」
「そうしたいんだけどな・・・」
  祥三は肘をつき両手を組み合わせて煮え切らない言い方をする。
「今回は西薗エリカにする」
 遥花の目に力が入る。
「何でなの」
 遥花は声を荒げた。
「言いたかない話だが、ファイトマネーが他と五倍違う」
  遥花の顔から表情が消えた。再び伏し目がちに床を見る。
「悪いな、遥花。この試合受けてくれるな」
 遥花は祥三に顔を合わせないまま「分かった」と小さな声で返事してすぐに部屋を出た。
  練習室に戻る最中、色んな感情が遥花の心の中で沸き起こっていた。
 あの三人の中で一番対戦したくない相手が西薗エリカだった。
 エリカとは高校時代にインターハイで三度試合をしたことがある。勝敗は二勝一敗。決勝で何度となく拳を交え、高校時代のライバルといってよい存在だった。ただ、連勝して終えたことで遥花の中で彼女とのライバル関係は完結していた。エリカに一度だけ負けたのもまだ自分がボクシングを始めて間もなかったからだと思っている。だから、彼女の実力を気にしているわけではない。嫌なのは彼女の周りに対してだった。エリカは名門の家柄の娘だった。都内で有数の地主である彼女の祖父は趣味が興じてボクシングジムを経営していて、エリカはそのジムに所属している。西薗ジムは男子の世界チャンピオンを三人要している大手のジムだ。金があるから良い選手、トレーナーが集められている。ボクシング関係者の間ではそう揶揄されることが少なくない。でも、遥花が西薗ジムに良い感情を抱いていない理由は別にあった。大手のジムだったためにユキトが潰された。早すぎた世界戦を組まれたユキトはその試合で完敗しただけですまず、目に致命的なダメージを負ってしまい引退を余儀なくされた。もし話題作りのために七戦目で世界タイトルマッチに挑戦していなかったらまだユキトは現役でボクサーをしていたかもしれない。そう思うとどうしても西薗ジムを責めたくなってしまう。でも、それだけならまだ試合を避けたいと思うまでにはならなかった。
 一番の要因は、引退したユキトが今はエリカのトレーナーについていることだった。ユキトが対戦相手のセコンドにつくのだと思うだけで気持ちが重たくなる。
  遥花は唇を強く閉じた。目も閉じて左手を胸に当てる。暫くそうしてから目を開けると、ジャージの上を脱いでボクシンググローブを手にした。手にはめ終えてサンドバッグの前に立つ。もう一度汗を流さないと胸の中のもやもやした感情はとれそうになかった。
小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
 自動車のエンジン音が幾つも重なりけたたましい駅までの道を遥花は一人で歩く。誰かと歩く気にはなれないでいた。
 先ほど試合前の軽量を終えてきた。遥花もエリカも軽量を一度でパスして、後は身体を休めて明日の試合に備えるだけだ。
 余計なことは考えないで試合に集中しなきゃ。駅までの道の中で遥花は心の中で繰り返しそう呟いた。
 頭の片隅に残る軽量室での光景。ただエリカとユキトが共にしていただけ。たいした出来事じゃないんだから、気にしても仕方ない。明日の試合に負けるわけにはいかないんだから。
 信号が赤になり、遥花は立ち止まった。目の前で自動車が交わっては過ぎていく雑多な景色をぼんやりと見ていると、後ろから名前を呼ばれて思いきり肩を上げた。
 びくりと肩を上げたまま後ろを振り向くと、ユキトが立っていた。遥花は目を大きく開けた。
「橘君・・・どうしたの?」
「いや・・・軽量の時浮かない顔してたから気になってさ」
 ユキトはそう言うと、照れ臭そうに視線を外した。気まずくて遥花も斜め下に目を反らす。
「そうかな・・・」
  声が小さくなった。
「遥花ちゃん・・・」
 ユキトの声が神妙になる。
「なに・・・?」
 遥花は下を向いたままユキトの顔をちらりと見上げた。
「僕がいるともしかして闘いづらいと思っているんじゃないかって思って」
 遥花の心臓がドキッと弾んだ。
「そっそんなことないよ」
「ならいいけどさ。遥花ちゃん、優しいから」
 遥花は目を合わせられずにそんなことないと心の中で首を振る。声に出そうとして、先にユキトが続けた。
「仲間がいるとそりゃやりづらいよね」
 遥花は複雑な表情を浮かべた。仲間か・・・。ユキトの言葉を心の中で反芻した。無意識にボブカットの髪の毛先を指先で摘まみ擦る。
 信号が青になり、遥花は横断歩道を渡る。ユキトも横に一緒に歩く。横断歩道を渡りきりしばらくして、
「橘君・・・目は大丈夫なの?」
 遥花は遠慮がちに聞いた。
「ああ、これ」
 ユキトは左目を人指し指で指した。
「目は大丈夫だよ。ボクシングはもう無理だけど日常生活を送る分には問題ないから」
 ユキトは温和な口調で言う。
「そう・・・良かった・・・」
 目の話になっても嫌な顔をしないユキトの姿を見て、遥花はもう少し踏み込んでみようと決めた。
「橘君は西薗ジムにいて・・・辛くないの?」
「えっ・・・何で?」
 ユキトが目を見開く。
「世界戦を組まれたのが早すぎたから・・・あのジムにいたから橘君は・・・」
 息が苦しくて、それより先の言葉は出なかった。ユキトは前を向いて、
「あぁ・・・あの世界戦ね」
 と言った。ユキトが唇を閉じる。沈黙が出来て、遥花の緊張が一段と高まった。ユキトは前を見続けたまま、
「あれは僕が弱かった。それだけであって誰が悪いってわけじゃないんだ。目の前にチャンスがあれば掴みにいくものだと僕は思ってる。だからあの選択に悔いはないんだ」
 と言った。声も表情もさばさばとしていて、ユキトの中では気持ちの整理が出来ているのだと遥花は思った。自分もいつまでも気にしてちゃダメだ・・・。
 ユキトが遥花の顔を見る。
「気にしててくれたんだね。ありがとう」
 そう言って、ユキトは優しい笑顔をみせた。
 心臓がトクンと跳ねて遥花は目を反らした。頬に熱を感じる。遥花は下を向いて歩き続けた。
「それにさ、僕の夢は終わってないんだ」
「えっ・・・?」
 遥花は振り向いてユキトの顔を見た。
「人の思いは誰かに渡せる。選手だった時は思ったこともなかったけど、トレーナーになれて気付けたんだ」
 ユキトは朗らかな笑みを浮かべた。視線は遠くを見ているかのように少し上を向いている。
「夢を継いでくれる人がいてありがたいよ。トレーナーをやれて良かったと思ってる」
 そう言い終えて晴れ晴れとするユキトとは対照的に、遥花は表情を失なった。頭に白いもやがかかっていくような感覚に陥っていく。
「そう・・・」
 目を合わせることは出来ず、そう言うだけで精一杯だった。
 エリカが橘君の夢を継いだ。ユキトの言葉をそう受け止めてしまった。悪気があってじゃないのに、でも聞きたくなかったと思ってしまう。ユキトの言葉が頭から離れられず、思考がぐるぐるとループしていく。冷静でいられなくなった遥花は、駅に着いても心が揺らいだたままだった。
小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
 場内に悲鳴のような歓声が上がる中、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。その音と同時に挑戦者の軽やかなステップがぴたりと止まる。目の前で両腕で顔のガードを堅め棒立ち状態のチャンピオンの姿に関心を示さずにさっと踵を返し、青コーナーに帰っていく。ざわめく場内の中でエリカは挑戦者とは思えないほどの冷静さをみせる。
 数秒遅れて遥花がガードをゆっくりと下ろし赤コーナーへ戻っていく。肩で息をして首が前に垂れ背中が丸まっているその様は、これまでの遥花の防衛戦からは考えられない姿だった。
 序盤から互角の闘いが繰り広げられた中で迎えた第5ラウンドに、一瞬の攻防が試合を揺るがせた。右のパンチを打とうとした遥花の顔面をエリカの左ストレートが鮮やかに打ち抜いたのだ。頬がひしゃげるほどのパンチの威力に遥花は膝が折れ、その後は防戦一方となった。完全に手が止まりゴングに救われた形でインターバルを迎えた遥花は、スツールに座りながら憔悴した表情で天を仰ぐ。
 右のパンチに合わせられたあのカウンターは、今までのエリカにはないテクニックだ。でも、偶然パンチがカウンターで当たったとは思えなかった。
 カウンターパンチはユキトが得意としていたパンチだった。遥花の中で忘れたい思いが蒸し返される。ユキトの夢をエリカが継いだ。それはユキトのボクシングもエリカが継いだということ。そんなの認めたくない・・・。
 閉じ込めていた感情が広がっていく。自分が自分でなくなっていくようで、遥花は心の中でイヤだと首を横に振った。
 勝たなきゃ・・・。エリカに勝てばこの苦悩からきっと解放される。

 第6ラウンドのゴングが鳴った。遥花はガードを上げて距離を取る。まだ下半身に力が入らない。悔しいけれど、打ち合うにはもう少し足のダメージの回復が必要だった。
 ガードを固める遥花にエリカのパンチが何度となく襲う。左と右の鋭いコンビネーションに遥花の身体が何度も揺れた。劣勢の状態が続くがクリーンヒットはまだ許していない。それでもガードの上からダメージは伝わってくる。体力を削られながら足の回復を図る苦しい状況。もう少し・・・。心が折れないよう遥花は自分に繰り返し言い聞かせる。
 劣勢な状態のまま、第6ラウンドの40秒が経過した頃、遥花がようやく反撃に出た。エリカの左ジャブを頭を横に振ってかわす。そこから上半身を左右に振らしていく。高速のウィービングで上半身を動かし続け、パンチの的を相手に絞らせない。インファイトを得意とする遥花が大事な場面で使うテクニック。この高速ウィービングは、体力の消耗が激しくて長くは続けられない。遥花はこのラウンドで倒す思いで技を繰り出している。
 ウィービングしながら徐々に距離を詰めていく。リーチにまさるエリカの左ジャブが遥花のパンチの間合いの外から放たれた。エリカのジャブが空を切る。エリカのジャブのスピードを遥花のウィービングが上をいく。勢いを維持しつつ一気に前に出た。
 近距離まで間合いを詰めた遥花がエリカの左腕が戻るより先に右フックを放つ。狙いはがら空きの左ボディ。ガードはもう間に合わないし、逃げられる距離でもない。右拳には充分な力が乗っている。深いダメージを与えられると確信する遥花。一方で、エリカが予期しない動きをみせる。彼女が選択したのはガードでも逃げでもなく反撃。右足を前に出し踏み込んで放たれたパンチは皮肉にも遥花と同じボディブローだった。遥花とエリカが渾身のパンチを振り合う。
 肉が押し潰されていく痛々しげな打撃音がリングに響き、それまで激しく攻防していた二人の動きが一転して止まった。
 右のアッパーカットをボディに突き刺しているエリカと悶絶して白目を向いている遥花。明暗がはっきりと別れた攻防の結末に場内が静まり返る。エリカに声援を送っていた観客は力強い挑戦者の姿に魅了され、遥花に声援を送っていた観客は凄惨な王者の姿に言葉を失った。
 遥花のお腹に深々と食い込むエリカの強烈な一撃。身体がくの字に折れ曲がり両腕までもだらりと垂れ下がる遥花はもう自力では立っていられなくなっていた。首で支えられなくなった頭はエリカの肩の上で頬が埋まり、四股の力を失った両足はぐにゃりと曲がり踵がキャンバスから浮いている。
 ライバルの顔の間近で醜く歪んだ顔を晒す遥花だが、もはやこの屈辱的な状況を把握できているのかさえ危うかった。瞳は何も捉えておらず、細く尖った口からはマウスピースがはみ出され、唾液が垂れ落ちている。
「汚らしいのよっ」
 エリカが不快そうに顔をしかめて言ったが、遥花は反応すらみせずにダメージに苦しむ表情をブザマに晒し続けるだけだった。
 エリカがめり込ませていた右拳を引き抜き半身を翻すと、支えを失った遥花の身体が前のめりに崩れ落ちていく。顔から沈み落ちお尻がつき上がる。頬がキャンバスに埋まり歪んだ口からはなおも唾液が垂れ流れ続けていた。
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「汚らしいのよ」
 エリカが不快そうに顔をしかめて言ったが、遥花は反応すらみせずにダメージに苦しむ表情をブザマに晒し続けるだけだった。
 エリカがめり込ませていた右拳を引き抜き半身を翻すと、支えを失った遥花の身体が前のめりに崩れ落ちていく。
 顔から沈み落ちお尻がつき上がる。頬がキャンバスに埋まり歪んだ口からはなおも唾液が垂れ流れ続けていた。
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 遥花はドアをノックして、会長室の中に入った。この部屋に入るのはおろか、ジムに来ることさえ三週間ぶりだった。
 エリカとの試合が終わって以降、生活からボクシングを遠ざけていた。
 机に座り書類に目を通していた祥三が顔を上げこちらを見る。
「どうした、急に。気持ちの切り替えでも出来たのか」
 祥三は珍しく愛想笑いをみせた。他の人では気付けないほどぎこちなく微かな笑みだった。
「あたし、ボクシング辞めるから」
 祥三が真顔になり、左右の掌を組む。
「そうか・・・分かった」
 祥三はそう言っただけで口を閉じた。
「ねぇ・・・止めないの?」
「あぁ・・・遥花が望んでいるのなら止められないだろ」
「そぅ・・・」
 遥花は下を向く。
「遥花・・・」
 遥花は再び祥三の顔を見た。
「これまでありがとう」
 祥三は優しい目をしていた。
「それとな・・・すまなかった」
 祥三が左右の掌を組んだまま、頭を下げる。
「俺はお前を気持ちよくリングに上げられなかった。申し訳ないと思ってる」
「何のこと?」
「好きじゃなかったんだろ、ボクシング」
 遥花の表情が固まった。
「気付いてたんだ・・・」
「俺はボクシングが好きでもないお前をリングに上げちまった。何度ももういいという気持ちになった。でも、やっぱり言えなかった」
 祥三が目を瞑り口元に笑みを作る。
「見たかったんだ、遥花が世界チャンピオンになるのを」
「お父さん・・・ゴメンあたし誤解してた。お父さんはあたしにジムの借金を返すことを期待してたと思ってた」
「いや、どちらにしろ、ボクシングが好きじゃない遥花をリングに上げたことには変わりないからな」
 胸の辺りが温かい。心臓が鼓動を打つたびに気持ちよく感じられる。
 あたしはボクシングが好きじゃない。その思いは本心なんだろうか・・・。
 遥花は胸に手を当てる。
 あたしはボクシングを・・・。

 世界チャンピオンという言葉に反応して、遥花は足を止めた。電気屋の店頭にある大きなテレビからの音だった。アナウンサーがニュースを読み上げている。世界チャンピオンの前田明人さんが引退を表明したニュースだった。
 ニュース番組でボクサーの引退が報道されることは珍しい。多くのボクサーが人知れず引退していく。日本チャンピオンクラスでもそうだろうし、女子ならなおのことそうだ。
 ニュースが代わり、遥花はその場から離れた。駅までの道を進み、赤信号の横断歩道で足を止めた。
「遥花ちゃん」
  聞き覚えのある声。昔、同じ体験をしたことがある。それは一年前のこと。遥花は後ろを振り向いた。
「橘君・・・」
「久しぶりだね。どこに行こうとしてるの?」
  一年ぶりに会うユキトは前と変わらぬ穏やかな表情をみせる。
「お茶の水。友達とこれから会うの」
「そうなんだ」
「橘君は?」
「後楽園ホールだよ。町田選手の試合だけは一度見ときたくてね」
「研究熱心だね」
「ボクシング以外に趣味がないだけだよ」
 そう言ってユキトは小さく笑った。
 信号が青になり、横断歩道を進む。渡りきった後も二人は並んで歩いた。ユキトの行き先が後楽園ホールなら駅まで同じ道だ。
 遥花はユキトの顔を見た。
「エリカの試合、残念だったね・・・」
「うん、後少しだったんだけど・・・」
 ユキトはこちらを見ずに言った。沈んだ思いが声から伝わってくる。
 三ヶ月前、エリカは世界タイトルマッチに挑戦した。五度も防衛しているチャンピオンに善戦をしたものの、八ラウンドに二度ダウンを奪われてKO負けに終わった。それから一ヶ月後、タイトルマッチで負ったダメージが原因でエリカが網膜剥離になったという情報を父から知らされた。つまりそれは―――。
「エリカの目の怪我は大丈夫なの?」
「手術には成功したんだ。日常生活を送る分には問題ないよ。でも、もうリングには上がれない・・・」
 そう言ってユキトは息をついた。
「そう・・・」
 遥花も息をつく。
「エリカはまだ闘いたがってる?」
「まあね。次闘ったら間違いなく勝てるって言ってるくらいだから」
「闘いたくても闘えないんだね・・・」
 遥花が呟いた。
 二人の間に沈黙が続く。湿った空気を変えたくて遥花は違う話をふった。
「今は誰を教えてるの?」
「いや、実は今はトレーナーをやってなくて」
「えっ・・・」
「西園ジムを辞めたんだ。けじめをつけなきゃと思ってね。エリカが引退することになったのはトレーナーだった僕の責任だから」
「辞めるまでしなくたって・・・」
「いや、これくらいしないと。自分の時の反省を活かせなかったから、もう一度トレーナーを一から勉強したい思いもあったんだ」
「橘君は変わらないね」
 遥花はユキトに笑みを向ける。ユキトの純粋な気持ちに触れるとほっとする。
「そう?」
 ユキトが照れ臭そうに返した。
「どんなに辛いことがあっても絶対にぶれないでいられる」
「そんなことないよ、人がいないところじゃ泣き言ばかり言ってるよ」
「橘君が?そうなの?」
「心の中じゃね」
 ユキトが口元を崩した。
「そんなのあたしはしょっちゅうだよ」
 遥花もくすっと笑った。
「じゃあ今は別のジムでトレーナー?」
「それがなかなか見つからなくて。トレーナー求職中だよ」
 ユキトは後頭部を撫でた。
 だったら、うちのジムにこない?
 ふとよぎる思い。ずっと言いたかった。臆病で言い出せず苦しい思いをしてきた。でも、それはたぶん昔の自分の声なのだと思う。
 遥花は改めてユキトに顔を向ける。
「あたし、またリングに上がることにしたの」
「えっホントっ、それは良かったよ」
 ユキトが嬉しそうに笑顔をみせた。
「今度の試合は復帰じゃなくて、デビュー戦みたいな気持ちでリングに立てると思うの」
 遥花の言葉にユキトがきょとんとした目をする。
 新しく闘う理由ができた。それは誰のためでもなく自分のため―――。だからもう自分の気持ちに迷わない。
「やっとボクシングを好きになれたから」
 そう言って遥花は笑みを浮かべた。

 おわり
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