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「汚らしいのよ」
 エリカが不快そうに顔をしかめて言ったが、遥花は反応すらみせずにダメージに苦しむ表情をブザマに晒し続けるだけだった。
 エリカがめり込ませていた右拳を引き抜き半身を翻すと、支えを失った遥花の身体が前のめりに崩れ落ちていく。
 顔から沈み落ちお尻がつき上がる。頬がキャンバスに埋まり歪んだ口からはなおも唾液が垂れ流れ続けていた。
 レフェリーがダウンを宣告し、エリカにニュートラルコーナーに行くよう左腕で促した。
 エリカはレフェリーの後ろで半身となり、顔だけを遥花に向けていた。
「ブザマな姿ね」
 侮蔑した目で言い、一度目を閉じた。再び開けるともう遥花に興味を失ったかのように目を向けることはなく冷めた顔でニュートラルコーナーに退いた。
 ダウン宣告がされたことで、静まり返っていた観客席から歓声が再び沸き上がった。歓喜と悲鳴の声が入り雑じり、地鳴りのように鳴り響いていく。キャンバスに顔を埋め両腕がだらりと下に伸びたまま動けないでいる遥花のダウンした姿は、チャンピオンの交代劇が現実のものになると抱かせるに充分であった。
「遥花!立て!立つんだ!」
 遥花のセコンドについている祥三が大声で何度も鼓舞した。
 しかし、遥花はその声に全く反応しない。
 声は聞こえていた。でも、もう身体が動いてくれない。
 悔しいけれどもう無理だから・・・。ごめんねお父さん。でも、この試合の金で残りの借金を全部返せるからいいよね。もう闘わなくても、二度と・・・。
 カウントが4まで数えられた。遥花はうつ伏せで倒れたまま動けないでいる。
 これでおしまいだ。あたしのボクシングの日々は・・・。負けて・・・。
 遥花が唇を閉じた。左右の拳を握る。熱が身体に宿っていくのを感じた。
 まだあたしは・・・。
 遥花が両腕を上げて立とうと足掻く。
 場内の歓声が一段と増した。遥花コールが起こり始める。
 レフェリーのカウントが止まった。カウント9で遥花は辛うじて立ち上がれた。ファイティングポーズを取りながらも苦しみに顔を歪める遥花にレフェリーが状態を確かめるため話しかける。
 その問いかけに遥花は頷きながらも意識は別のところに向けられていた。その先はニュートラルコーナーで両肘をロープに預け悠然と立っているエリカ。
 エリカにだけは負けたくない。遥花の中で消えずに残っているライバルへの闘志。原始的な本能が遥花の身体を突き動かす。
 レフェリーの試合再開の合図と同時に遥花が前へ出た。頭を激しく振りながら距離を詰めていく。だが、ウィービングのスピードは衰えていて、もはや得意技といえるような代物ではなくなっていた。
「まだ殴られたいのかしら」
 エリカが呆れ気味に言うと、胸元で両拳をバスッと打ち鳴らしてコーナーを出た。軽やかにステップして、円を描くようにリングを廻る。勝ち気な仕草をみせたものの、満身創痍の相手にさえもあくまでクレバーなボクシングに徹している。
 勝てる要素は見当たらない。それでも遥花は気持ちで向かっていく。誰の目にも遥花の直進は無謀に映った。だが、エリカからは一向にパンチが飛んでこない。そのまま懐に飛び込めた遥花に、祥三が大声で叫んだ。
「パンチを打つな遥花!」
 祥三が警戒を促すも、遥花は本能のままに右のフックを放っていく。意識が朦朧としていた遥花に祥三の声は届いていなかった。そして、エリカの左フックも見えていなかった。エリカのパンチが先に遥花の顔面にぶちこまれた。またしても決められたエリカのカウンターパンチに遥花の身体が吹き飛ばされた。よろめきながら後退する遥花はコーナーポストに当たり、そのまま身体を預け辛うじてダウンを免れた。
 駆けて距離を詰めてきたエリカの右フックを顔面に浴び遥花は意識が薄れゆく。目がとろんとする遥花だが、背中から聞こえてきた声に反応する――――。
「そのまま打ち続けて!」
 遥花の意識を呼び覚ましたのは、皮肉にもエリカに指示を送るユキトの声だった。こんな状況で彼の声なんて聞きたくなかった。もうあの頃とは違うのだと遥花は痛感する。そして、ユキトの声に励まされた高校時代の日々にはもう戻れないのだと。
 エリカの右フックが顔面に打ち込まれ、再び遥花の意識が消えかけていく。さらに左、右とエリカのフックが遥花の顔面に打ち込まれた。
 青コーナーからの声を力に変えるエリカのパンチが止まらない。遥花がサンドバッグのように打たれていく。
 想いを寄せている人の目の前で滅多打ちにされるリング上の惨劇。パンチの連打で血飛沫を吹きながら踊らされる遥花の姿は見ていられないほどに痛々しく悲哀に満ちていた。
 遥花の頭を右に左に吹き飛ばすエリカがフィニッシュに転じる。低い姿勢から力強くしなやかに伸び上がっていく右拳。エリカのアッパーカットが遥花の顎を突き上げた。何かが砕けたかのような鈍い音が響き渡り、大量の血と共にマウスピースが高々と宙に舞い上がる。天上のライトが遥花の血飛沫で赤く染め上がる。エリカのアッパーカットの威力に熱狂していた観客が凍り付く中、遥花が両腕がだらりと下がりながら口から血へどを吐き散らす壮絶な姿で打ちのめされたように前に崩れ落ちていく。
 顔からキャンバスに倒れ、その反動で両足が浮いた。
 レフェリーがダウンを宣告し、観客席から再び歓声が沸き上がった。
 ロープ沿いで寝転がる遥花はキャンバスに頬が埋まりリングの外に顔を向ける。頬も瞼もパンパンに腫れ上がった悲惨な顔を晒すが、左の瞳が微かに開いているだけの遥花の側からはリングの外の光景は何も映らなかった。僅かな視界もぼんやりとしていて、ざわめきだけが耳鳴りのように聞こえる。意識が薄れゆく中で遥花は思いが拡散していく。
 もしもと思った。もしも橘君の夢を継げていたら、ボクシングを好きになれたかな・・・。前を向いて取り組めたかな・・・。運命を変えるチャンスはあったのに。部活を引退したあの日、帰り道で勇気を持って橘君をジムに誘えてたら・・・。

「・・・ナイン、テン!!」
 テンカウントがコールされ、ゴングが打ち鳴らされた。
 タイトルマッチが終わったその時、遥花はエリカのパンチのダメージになおも身悶えし全身が痙攣しながら白目を向いて倒れていた。場内からは割れんばかりの歓声が起こっている。チャンピオンが失神KO負けした姿はあまりに強烈な絵図だった。
 観客の関心はすぐに新チャンピオンへと移っていく。
「勝者、西園!!」
 レフェリーの手でエリカの右腕が上がった。観客からの拍手喝采。そして、腰に巻かれるチャンピオンベルト。エリカが栄光の瞬間を味わう一方で、遥花は倒れたまま祥三からの声に反応出来ずになおも身体をぴくぴくと震わせていた。
 父の懸命な呼びかけが何度も続き、遥花が目の瞬きを始めた。朦朧とした意識に映るリング上の光景―――。悲壮めいた表情で顔を近付けて話かける父の顔。リングの中央では、チャンピオンベルトを巻き両腕を誇らしげに上げ勝利に酔いしれるエリカ。その姿を父に抱きかかえられながら見上げているあたし・・・。リングの上は目を背けたい辛い現実しかなかった。目に映る光景全てが、エリカにノックアウトされた現実を遥花に痛感させる。遥花はすぐに目を瞑ったが、顔は歪まり「うぅぅ・・・」と嗚咽して敗北の屈辱を噛み締めた。


日本女子フライ級タイトルマッチ

○西園エリカ(6ラウンド1分45秒KO勝ち)●宮坂遥花
※西園エリカが新王者。宮坂遥花は三度目の防衛に失敗

小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
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