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※この小説は漫画「ときめき10カウント」の二次創作作品になります。過度に暴力的な表現が含まれますので閲覧の際はご注意ください。


 高野~あたし、あなたのことが好き~

 リング上からの告白。由香理との試合に勝って興奮してたからって、なんであんな大胆なことしちゃったんだろう。試合を終えて校舎に入り、賑やかな場所から静かな場所に移って気持ちも冷静になっていっていた。十分前の自分に馬鹿ヤロ~って叫んでやりたくなる。
 控え室になっている教室まで高野の後をついて行っているけれど、恥ずかしくてその背中を見られなかった。目が地面へと向いてしまう。
 控え室の教室に入っても高野の方を見られなくて、みちるは背中を向けるようにして立ち止まった。頬が熱くなっていて顔が赤くなっているのが鏡を見なくても分かる。あぁ…どうしちゃったんだろうあたし…。バカだ、ホントにバカだよ、リングの上でみんながいる前で告白するなんて。
「みちる」
 高野に名前を呼ばれて、みちるは「はいっ」と言って振り返った。他人行儀な返事をしちゃった。高野を意識しているって気付かれたらどうしよう。みちるの顔はますます赤くなって、すぐにまた視線を斜め下に反らした。
「さっきの告白だけどさ」
 告白の件は意識しないようにしたいのに、高野の方から振ってきた。そういえば、返事をもらってないんだった。どうしよう断られちゃったら。それって十分あると思う。高野だってボクシングをしているけれどあたしみたいながさつな女よりもおしとやかな娘の方が可愛いと思うだろうし。
 いろんな思いが駆け巡りさらに動揺をしていると、
「返事なんだけどさ」
 と高野が言い、みちるは勇気を振り絞って前を見た。どんな返事でもちゃんと受け止めなきゃ。高野の顔を見ると、頬が少し赤くなっていて、高野も冷静でいられないんだってことが分かって、みちるも少し安心した。
「みちるに好きって言ってもらえて嬉しかった」
 その言葉を聞いて、みちるも嬉しくなった。そして、その先の言葉が待ち遠しかった。
「でも、俺たちまだ出会って一か月も経ってないし、それに俺はボクシングに集中して向き合いたい気持ちがすごくあるんだ」
「えっ…」
「だから、俺がボクシングで結果を残すまで、日本チャンピオンになるまで返事は待ってくれないか」
 受け入れられたわけでも断られたわけでもない。返事の先送り。高野の言い分はとても分かるけど、最高の結果を待ち望んでいただけに、やっぱりショックだった。
「うん、分かった。そうだよね、あたしたちまだ出会ったばかりだし、高野にはチャンピオンになるっていう夢があるんだもんね。待ってるよあたし、高野がチャンピオンになるまで」
 みちるは自分に言い聞かせるように言った。
「悪い、みちる」
「そんなことないよ。謝るなんて高野らしくないったら」
 相手をフォローできるくらいまでには落胆した心も取り戻せるようになっていた。みちるはいつものように憎まれ口を叩き、少しでも高野の心をほぐしてあげたかった。
「ありがとうみちる」
 高野に感謝されて、みちるはまたしても胸がときめいた。
 待つんだ、高野がチャンピオンになるまで。
 高鳴る胸を押さえようとしながら、みちるは心の中で自分に向けて言った。
「グローブ外そうか」
 高野が言って、みちるは「うん」と首を縦に頷いた。二人とも椅子に座り、高野がみちるのボクシンググローブの紐を外そうとしていると、
「ねぇ、高野」
 とみちるが言った。その後がなかなか喉から出なかった。
「どうした?」
 と高野が聞いていて、みちるは勢いに任せて言った。
「あたしもボクシングのチャンピオンを目指すしてるって前に言ったよね。だから、告白の返事はあたしも日本チャンピオンになるまで待ってくれる」
 告白の返事の条件を自分で上げてしまった。馬鹿だと思うけど、でも高野に先をいかれて高野だけ輝いてるのってイヤだったからどうしても高野の前で宣言したかった。
「あぁ、二人でチャンピオンを目指そうな」
 高野もようやく柔らかな表情になってくれた。
「うん、お互いチャンピオンになろうね」
 みちるは両拳でガッツポーズを作った。
「おいっまだグローブ外し終えてねぇって」
 高野が笑いながら言って、みちるは片目を瞑り舌を出した。
 高野からボクシンググローブを外してもらい、みちるは
「ねぇ、高野」
と言って、小指を曲げて差し出した。高野も「あぁ」と言い小指を差し出して、二人の小指が絡まった。
「二人の約束だな」
「うん、約束だよ」

「いよいよ初の日本タイトル挑戦になりますけど、意気込みを聞かせてもらえますか」
 取材に来たテレビ局のリポーターの男性がみちるにマイクを向ける。
「日本タイトルマッチだからっていつもと同じです。今回もKOで勝ってみせます」
 みちるは右拳を顔の位置まで上げてガッツポーズを作った。
「おぉっ、流石、竹嶋選手ですね。実はこの前に氷室選手の取材にも行ってきたんですけど、同じ質問をしたら勝ちますとしか言ってくれなくて。やっぱり、KO宣言が出ないと盛り上がらないですからねぇ」
 あの自信家の由香理が勝ちますだけ?みちるは少し拍子抜けした気持ちになった。日本王座決定戦だから立場は同じだけれど、戦績は自分が9戦9勝7KOで、由香里が8戦8勝4KO。ランキングも自分は一位で由香理が二位だから、戦績もランキングも自分の方が上だし、プロになる前にした決闘ともいうべき試合でも自分が勝っているのだから、さしもの由香理でも自信が持てないのかもしれない。みちるは試合に勝てそうな気持ちをさらに持って、リポーターの質問に答えた。
 テレビ局の取材が終わって、みちるはストレッチをしている高野に「ごめん、待った~」と声をかけた。
「いやっ、そんなことねぇけど」
 相変わらず高野はぶっきらぼうに答えるけど、気にしている風にはまったく見えなかった。
「じゃあ始めよっか」
「あぁ」
 みちると高野は向き合って、パンチを打ちあう。バンテージを巻いているだけの素手だからパンチは寸止めだ。身体に当たる直前で止めるマススパーでみちるはまず実戦の勘を磨いていく。スパーリングをするのはその後だ。スパーリングの相手をするのは、主に高野だけだから男子と同じ数のスパーリングをしていたらみちるの身体がもたない。そのためにマススパーの割合を増やして、実戦の勘を養っていた。
 プロボクサーになって三年。連戦連勝で無敗のまま日本王座に挑戦出来るところまで昇ることが出来た。高野とも毎日ジムで顔を合わせて、一緒に汗を流している。みちるは順調な日々を過ごせていると実感していた。でも、次の試合で負けたらすべて台無しになる。チャンピオンになるためにボクシングをしてきたのだし、それに相手は由香理だ。一度勝っているとはいえどうしてもライバル視してしまう。由香理がいたから、彼女に一度スパーリングで鼻をくじかれて同じ女の子で同じ歳でも自分よりも強い娘がいるんだってことを思わされたから、だからもっと強くなることが出来た。それに由香理も高野に思いを寄せていた。この三年間は高野に会いに来たところを目にしたことがないからもう諦めているのかもしれないけれど、由香理にだけは絶対に負けられないという思いがあった。
 それに日本チャンピオンになったらあの時の約束がついに果たされるんだ。高野は半年前に日本チャンピオンになった。あとはあたしが日本チャンピオンになればあの時の返事をもらえる。
 由香理とのタイトルマッチ、絶対に勝たなきゃ。
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(0)
 練習を終えてバンテージをほどいていると、高野が駆け寄ってきた。
「みちる、もう練習終わりか?」
「うん、そうだよ」
「なぁ、もう少し練習をした方が良いんじゃねぇか」
 みちるはむっとして、腕を組んだ。顔を背けて、
「いつもと同じ練習してるじゃない。あたし、別に練習怠ってないよ」
「そうだけどさ、今回はタイトルマッチだろ。いつもより練習した方が良いんじゃねぇかって」
「高野の言いたいことも分かるけど、あたしはこのトレーニングで勝ってきてるわけだし、それにオーバーワークになっちゃって体調崩すのも嫌だし、大丈夫だよ。タイトルマッチだからっていつもの自分を変える必要はないってあたしは思う」
 みちるは腕を組んだまま、ちらっと高野の顔を見た。真面目な顔をしていて、ただ単に小言を言いたいわけじゃないことは伝わってくる。でも、みちるも自分のやり方には手応えを感じていて、譲る気にはなれなかった。
「みちる~、ボクシング雑誌の人が取材に来てるぞ~」
 会長である父が遠くから声をかけてきて、みちるは返事をした。
「あっパパ今行くから~」
「ごめん、そういうことだから高野、心配してくれてありがとう」
みちるはそう言って雑誌編集者の元へ向かった。
「おい、まだっ」
 と高野は声を大きめにして言ったものの、みちるが振り返ることはなかった。

 空はすっかり暗くなってしまったというのに、高野は外の道を走っていた。ロードワークでもしないと、胸の中に溜まっているもやもやが取れそうになかった。
 日本王座決定戦だっていうのにみちるから必ずチャンピオンになってみせるという気概が感じられない。みちるはいつも通りの練習をしていたら勝てるというけれど、タイトルマッチでそれだけじゃ駄目なんだと高野は思っていた。実力以上に問われるのがチャンピオンになりたいという思い。それは大一番だからこそ、その人の試合への思いがいつも以上に力を後押ししてくれる。現に高野は日本王座に挑戦した試合で、互角に打ち合い続け最後は絶対に勝つんだという思いでなんとか打ち勝つことが出来た。その思いは練習じゃないと築かれない。練習で苦しい思いをした分、試合で苦しい時でも頑張れる。タイトルマッチで相手が互角の力を持っていたらあとは気持ちなのだ。大きな試合ほど気持ちが大切になっていく。
でも、今のみちるには言っても無駄かもしれない。出来すぎと言っていいほどの結果を残してきているし、それにメディアがみちるを取り上げすぎている。女子高生のうちにプロデビューして、しかも元日本チャンピオンのボクサーの娘なのだ。メディアがほっとくわけがなくて、二世ボクサーとしてテレビで紹介されることがたびたびあった。そして、今回は日本王座決定戦ということで、ドキュメンタリー番組でこの試合が取り上げられることになっている。もちろん、みちるが主役の視点でだ。
 いくら走っても胸のもやもやが取れずにいると、前からサウナスーツを着た女性がこちらに走ってきていた。夏だっていうのにフードで頭が覆われて、長袖で両腕両足も肌が隠れている。もしかしたら、この人も減量中のボクサーなのかもしれないなと思いながら横ぎると、崩れ落ちる音が聞えた。
 振り返ると、サウナスーツの女性が横に倒れていた。高野は慌てて駆け寄り、背中を支えて上体を起こして声をかける。
 フードを外すと意外な顔を目にして、高野は目を大きく見開いた。
 倒れていたのは由香理だった。
「由香理じゃないか」
 由香理が虚ろな目をこちらに向け、彼女も意外な顔をした。
「琢磨…」
 由香理は小さな声で言って、顔を反らした。
「恥ずかしいところを見せたわね」
「何言ってるんだよ。それより、身体どこかおかしいんじゃないのか」
 高野はそう言ってから、由香理が体調を崩している理由に気付けた。痩せ細った頬、かさかさになった肌。由香理は相当無理な減量をしている。
「由香理、お前無茶な減量をしてるだろ」
「琢磨が私の心配をしてくれるなんてね」
 由香理が辛そうな顔に笑みを浮かべる。
「心配するに決まってるだろ。お前何キロの減量してんだよ」
「いくら琢磨でも言えないわ。大切な情報ですもの」
「そりゃそうだけど」
 高野は由香理の全身を見つめた。元々身長はある方だったけれど、プロになったこの三年間でさらに身長が伸びているようにみえた。少なくとも3センチ以上伸びている。167センチ以上あるかもしれない。だとしたら、バンタム級くらいが適正な階級で二階級下の階級で闘っていることになる。
「なんでフライ級で闘ってるんだよ。お前の身体だったらバンタム級だろ」
 由香理は目を瞑り黙っていた。それから、ふふっと顔に笑みを浮かべた。
「負けたままではいられないわ」
「みちるのことか」
「えぇっ…あんな悔しい思いをしたのは生まれて初めてだったわ。みちるに負けたままじゃ気持ちの整理がつかない。私は前に進めないの」
「それで、お前プロボクサーになったのか…」
 由香理は首を横に振る。
「それはまた別よ。みちるがプロボクサーになったと聞いて、初めはどうしようか迷ったわ。でも、みちるに勝ちたくて練習をしているうちに気付いたの。私もボクシングがとても好きになっていたことに」
 と由香理は言ってうっすらと口元を緩ませる。
「だから、みちるに勝つこと以上にボクシングのチャンピオンになることが私の大きな目標。でも、私の身体がフライ級でいられるのは今だけ。来年にはもう階級を上げざるを得ないわ。だからどうしてもこの試合だけは絶対に勝ちたいのよ」
「そうだったのか…」
 あとに続く言葉が見つからなかった。ボクシングジムの娘であの我儘お嬢様だった由香理がみちるとの試合にそこまでの思いを抱いていたなんて思ってもいなかった。
「私、おかしなことを言っているかしら?」
「いや、そうじゃなくて――――」
 琢磨は申し訳ない気持ちで頬を搔いた。由香理のことをずっと誤解していて自分が恥ずかしい。
「自惚れたことを言うけど、由香理は俺に振り向いてもらいたいからボクシングをしているんだと思ってた。まさか、そこまでボクシングに真摯に向き合っているとは思ってなかったから」
「そうね、恥ずかしいけれど、初めは琢磨の言う通りだったわ」
 由香理はふぅっと息を漏らす。
「今はボクシングで結果を残したい気持でいっぱいだから、琢磨のことを考えてる余裕なんてないわ。でも、いつかボクシングで結果を残せた時にはまた琢磨に気持ちを向けることになるかもしれないわね」
 なんだか、告白されたみたいな気持ちになって、琢磨は顔が熱くなるのを感じた。
「そうか…俺なんてそこまでして思う価値なんてねぇと思うけど…」
「琢磨がボクシングに向き合っている琢磨であるかぎり、私の気持ちは変わらないわ」
「そっか…でも俺は竹嶋会長を尊敬しているから、由香理のジムに戻ることはないと思う」
「それはもういいのよ。昔の話よ」
「悪い。俺の我儘でジムを出て」
「だからいいのよ。くだらない話をしちゃったわね」
 由香理が琢磨の胸を右手で押して、立ち上がった。
「大丈夫なのか」
「えぇ…もう大丈夫。あとは歩いていくから。それじゃあ琢磨」
 由香理が左腕を上げて、背を向けて行ってしまった。琢磨はまだ由香理の身体が心配で彼女の背中を見続けた。
 由香理があんなに真剣にボクシングに向き合っているなんて思いもしなかった。そして、結果を出すまで恋心を抑えようとしている。自分と似た思いでボクシングしていることに気付いて、琢磨は複雑な思いになった。由香理とのタイトルマッチでみちるが勝ったら、俺はみちるに告白の返事をすると約束をした。でも、俺はその時、みちるに想いを告げる気持ちでいられるだろうか。六年間変わらずにいたみちるへの想いが分からなくなってきていることに高野は気付いた。
 
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(2)
 場内はみちると由香理に対する歓声で溢れていた。名前を呼ぶ声が途切れることなく聞こえるけれど、その数は半々くらいかもしれない。二世ボクサーでメディアで取り上げられることはみちるの方が多いけれど、ビジュアルという点では由香理は女子ボクサーの中で相当綺麗な方だ。男からの声援では由香理の方が多かった。
 試合開始前、リング中央で由香理とにらみ合いながらみちるはあの時のことを思い出す。人前で初めて由香理と試合をした時のことを。お互いにプロでもないしアマチュアでの実績すらもないのに、みちるの学校の中で試合をしたために大勢の生徒の前でたくさんの声援を受けながら闘った。クラスメートのみんなに見られて恥ずかしかったけれど、その恥ずかしさは試合をしているうちに気持ち良さに少しずつ変わっていった。多くの人の前で闘うことってすごく心地よいんだ。肌で感じ取って、プロボクサーになりたいという思いが一段と強まった。由香理との試合がプロボクサーになる始まりだったかもしれない。そして、今度は由香理と日本タイトルマッチという大きな舞台で闘うことになった。大事な場面で必ず彼女が自分の前に立ちはだかる。大きな声援を受けながら由香理とにらみ合っていると、彼女はやっぱりあたしのライバルなんだとみちるは実感していた。
「今回の試合もあたしが勝たせてもらうからね」
 みちるは高揚した気持ちを抑えきれずに言った。由香理は顎を下げて目を瞑る。
「相変わらず品がないのね。せっかくの神聖な舞台が安っぽくなるわ」
 目を瞑ったままで話すその仕草にカチンときて、
「何言ってるのよ。勝つか負けるかがボクシングでしょ!」
 とみちるは怒りを込めて言った。
「喋れば喋るほどタイトルマッチの品位が落ちていくと私は言いたいのよ」
 由香理は首を横に振り、やだやだとでも言わんばかりの態度をみせる。
「品位とかボクシングに関係ないでしょ。こんなところでもお嬢様ぶらないでよ!」
 みちるがさらに大きな声を出すと、由香理は目を開けたもののまたすぐに閉じて口を閉じたままでいる。
「言い返せないってことは図星ってことだよね」
「そうじゃないわ。あなたにがっかりしただけよ」
 なによえらそうに!
 そう喉から言葉が出かかったところで、
「二人ともいいかげんにしなさい」
 とレフェリーから注意を受けた。みちるは出かかった言葉を飲み込み、むかむかしたまま赤コーナーへと戻っていく。
「取り乱しちゃ駄目だろ」
 コーナーに戻ると、パパが珍しく厳しい口調で言った。
「うん、わかってる」
 とみちるは言ったものの、けど、と心の中で付け足した。
 由香理には気持ちでも負けたくなかったから。
 「なぁ、みちる」
 高野からも声をかけてられて、小言を言われるのかなと思いながら顔を向けた。高野の視線はみちるには向けられていなかった。その視線の先は青コーナーに立つ由香理――――。
 みちるの心の中がざわつく。
 何で由香理を…。
「由香理はだいぶ減量で弱ってそうだな」
「え…」
 高野の言葉でみちるも慌てて由香理の方を見た。遠くからではっきりとは見えない。でも、高野の言う通り、昨日の計量の時に由香理の頬が少しほっそりととしていたことはみちるも気になってはいた。さっき間近で見た時は顔の表情は普通の状態になっていたけれど、それは一日経って十分な食事を取ったあとだから気付きづらくなっている。
 よく見てるんだ高野は。一瞬、気持ちを乱した自分に恥ずかしさを覚え、高野のことが頼もしくみえた。よかった高野がセコンドにいてくれて。
「作戦だけどさ、前半は様子見て後半勝負にしないか。今の由香理なら後半のラウンドまで体力持たない可能性が高いぞ」
 高野の作戦の方が勝つ確率は高まるかもしれない。でも――――。
「ありがとう高野」
 とみちるは言った。
「でも、由香理の調子が悪くてもあたしはいつもと変わらない闘い方をするよ。自分の力を信じてたいから」
 自分のボクシングを日本タイトルマッチという大舞台でもしたかった。自分が築きあげてきたものだから。
「そうか…分かった、急に言っても無理があるよな」
 高野の声は柔らかくて、気にしているようにはみえなかった。
 パパからマウスピースを口にはめてもらい、みちるは一度胸元で両拳をばすっと合わした。
 闘志をみなぎらせながら、ゴングが鳴るのを待った。
 ゴングの音が鳴り響き試合が開始された。みちると由香理がコーナーから出る。
 由香理は右足を前に出し、右拳を上下にリズムを取りながら揺らす。がんがん攻めていきたいところだけれど、そうはいかない。由香理のボクシングはサウスポースタイル。右利きと違い左利きのボクサーと闘うことなんてほとんどないから距離感が難しい。そのために由香理と初めて拳を交えた時はいいように一方的に打たれて終わってしまった。二度目に学校内で試合をした時もやっぱり不慣れだったから苦戦させられた。最後は逆転勝ち出来たけど、試合を支配していたのは由香理の方だった。
 サウスポーに慣れなきゃ由香理には勝てない。由香理との二度の試合の体験を活かして、今回は高野にサウスポースタイルでスパーリングをしてもらった。高野は右利きだし、スパーと実戦はまた別物だけど、それでも準備は十分に出来たと思う。
 みちるは両腕を高く上げながら少しずつ距離を縮め、相手の出方を伺った。一方の由香理もフットワークを使ってみちるの周りを動くもののまだパンチは一発も出していない。様子見が続く。口火を切ったのは、由香理の方だった。右のジャブを放つ。そのジャブはみちるの顔面を捉えた。さらにもう一発右のジャブがみちるの顔面に当たり、乾いた音が響いた。静かだった場内から歓声が沸いた。
 由香理が一気に攻撃に出た。右のジャブの連打。軽やかに足を使いながらリズムよくジャブを放ちその外見同様に美しいボクシングで攻めていく由香理に対してみちるはガードを固めて凌ぐ。試合は早くも由香理が主導権を握ろうとしている。そう思われた矢先だった――――。
 ドボオォォッ!!
 肉が押し潰される嫌な音がリングに響き渡った。くの字に折れ曲がる上半身。反り返る唇からはみ出る白いマウスピース。表情は固まり、目は天井を向いていた。
 美しい姿は一瞬にして崩れ去っていた。みちるの左のボディブローに由香理は早くも悶絶した表情を晒す。
 みちるがお腹にめり込ませた左の拳をそっと抜くと、由香理は腰から崩れ落ちていく。そして、そのままキャンバスに尻もちをついた。
「ダウン!!氷室、第1R早々にダウンです!!」
 アナウンサーが興奮して実況し、観客席から大きな歓声が沸き起こる。
 尻もちをついて固まった表情でキャンバスに目を向ける由香理をみちるは勝ち誇った表情で見下ろしていた。
 これが今のあたしの力だよ由香理――――。
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(2)
 由香理はカウント8で立ち上がってきた。表情はまだ歪んだままでダメージが残っているのは明らかだった。
 試合が再開されると同時にみちるは一気に前に出た。由香理の右のジャブをかわしながら距離を縮める。
 悪いけどもうジャブは慣れたから通用しないよ。
 由香理のジャブをことごとくかわして至近距離まで距離を縮めると、みちるはもう一度左のボディブローを放った。ガードの上。でも、由香理の動きが一瞬止まったのをみちるは見逃さなかった。そのままフックの連打で攻め立てていく。由香理は防戦一方となりパンチがまったく出なくなった。あっという間にコーナーポストまで押しやり、逃げ場を断ち切った状態でパンチを容赦なく浴びせた。
 ほとんどがガードの上からとはいえ何発かは良いパンチが由香理に当たった。コーナーポストで一方的に攻める状況がえんえんと続き、背中からレフェリーに掴まれた。
 えっもしかしてレフェリーストップ?
 高揚感に満ちながらレフェリーの方を見ると、
「ゴングだ。1R終了だ竹嶋」
 と言われた。
 そんな簡単には終わらないか。
 みちるは気を取り直して、由香理に顔を向ける。由香理はコーナーポストに身体をもたせながらまだ両腕のガードを上げたまま苦しそうに息をしていた。
 なんだもうよろよろじゃん。
 由香理の弱り切った姿を見て、みちるは次のラウンドには倒せると自信を持ってコーナーから離れた。
「良い調子じゃないかみちる」
 笑顔で迎えてくれたパパに
「うん、早い回で倒せるかもしれない」
 と気持ちよく応えた。
「でも、油断は禁物だぞ。タイトルマッチなんだ、一瞬の隙が命取りになることだってあるんだから」
「分かってるってパパ」
 そう言ってみちるはマウスピースを口から出して高野の顔を見た。高野はまた由香理の方を見ていた。
「高野…」
 みちるの声に気付いて、高野がこちらに視線を向けた。
「わりい…」
 そう言って高野はみちるのマウスピースを手に取って、水で洗う。
 なんで由香理を見てるの高野…。
 つい不安が出た。でも、それは試合とは関係のない…。すぐに気持ちを切り替えようとして、高野から顔を反らした。
 マウスピースを渡してくれた高野の方を見ずにみちるは口にくわえる。
 試合に勝てばいいんだから。試合に勝てば不安なんて関係なくなる。
 第2R開始のゴングが鳴った。
 コーナーを勢いよく飛び出したみちるに由香理がジャブを放つ。右のジャブを三連発。
 みちるがガードで凌ぐと、右に周られてさらに左のジャブが一発、二発。まだパンチの威力は落ちていない。でも、パンチをこれだけ出すってことはダメージが残っていること。今のうちに攻めなきゃ。
 由香理のジャブはまったく当たらない。スリッピングで頭を動かしながらみちるはかわし続け、五発目のジャブを避けたところで一気に距離を縮めに出た。
 懐に潜り込めた。また左のボディブローだ。そう思っていたら身体が由香理にぶつかって、体勢を崩して二人とも倒れてしまった。
 おかしいな、ばっちりの間合いだと思ったのに。
 由香理に覆いかぶさるように倒れたみちるは首を傾げながら先に立ち上がった。一方の由香理は荒げた息を吐いたままなかなか立ち上がってこない。
 時間稼ぎしてるんだからダウン取ってよ。
 由香理に苛々しながらレフェリーの方を見るものの、早く立ち上がるように促すだけでダウンを取ることも注意をすることもなかった。
 ようやく由香理が気だるそうに立ち上がってくると、試合の再開と同時にみちるはダッシュして由香理に襲いかかった。
 ジャブのタイミングはもう分かっている。由香理に恐れるものはない。ここで一気に試合を決める。
 そのつもりだった。
 飛んでくる由香理の右のジャブ。
 そのタイミングは分かっている。
 そのはずだった。
 なのに――――。
 由香理の右のジャブがみちるの顔面を捉え後ろへ弾き飛ばした。
 みちるが目を大きく開けたまま表情が固まる。
 避けたと思ったはずのパンチを食らって状況の理解が出来なかった。
「たまたまだよ」
 自分に言い聞かせるようにみちるは言ってまたダッシュして距離を詰めに出た。 
 しかし――――。
 状況は一変した。由香理の右のジャブが次々とみちるの顔面を捉える。
 みちるの心が激しく動揺する。
 なんで、さっきは避けれてたのに…。
 思うようなボクシングが出来なくなったみちるだったが、それでも前に出続けた。さっきまで由香理は倒れる寸前だったんだ。今攻めなきゃ、今がチャンスなんだ。
 しかし、前に出るみちるを嘲笑うかのように由香理の右のジャブが正確に顔面を捉えた。
 由香理の右のジャブの二連発。すぐにまた二連発。今度は三連発。左のストレートまでがみちるの顔面を鮮やかに捉えた。
 息を吹き返した由香理のボクシングの前に、だんだんとみちるの足が出なくなる。勢いよくキャンバスを蹴る姿はなくなり、ついにはみちるの両足が止まってしまった。
 みちるは両肩を上げて顔をしかめながらハァハァと荒い息を吐いている。呼吸が乱れなくなった由香理とは正反対の姿になっていた。
 出なきゃ前に…。
 そう思い、つま先に重心を乗せたところで、また由香理の左のストレートがみちるの顔面に深々と突き刺さった。
「ぶふぅっ!!」
 みちるが血飛沫を撒き散らしながら、後ろに吹き飛ばされる。ドタドタと後退していくみちるはロープに身体が当たり、右腕を絡ませてなんとかダウンを免れた。
 その体勢のままみちるは虚ろな目で距離を詰めに来る由香理の姿を見つめていた。
 なんで…なんで由香理のジャブが避けられないの…。
 前に出るみちる。しかし、由香理の左ストレートを浴びてまたロープまで吹き飛ばされる。由香理が一気に距離を詰めて、がら空きとなったみちるの顔面めがけて三度めの左のストレートを放つ。
 カーン
 第2R終了のゴングが鳴り響いた。
 由香理の赤いボクシンググローブはみちるの顔の目の前で止まっていた。由香理はゆっくりと拳を引き、満足そうな笑みを浮かべる。表情が固まったままのみちるに対して一人先に青コーナーへと戻っていった。ややあってから、みちるがようやく赤コーナーへと戻り始めた。口元にうっすらと笑みを浮かべた由香理の顔がいつまでも頭に残る。
 なんで…なんでなの…。
 みちるは頭を下げたまま悔しい思いで何度も心の中で叫んでいた。
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(0)
「なんで…さっきまで由香理のジャブを避けれてたのに」
 第2R終了後のインターバル。コーナーポストに背中をもたらせてうなだれるように首が下がっているみちるは嘆くように言った。
「右にスイッチしてたよ由香理」
「えっ…?」
 みちるは高野の顔を見る。
「あいつサウスポーだろ。でも、2Rの途中で右の構えに変えてた。ちょっとだけだったけどな」
「それがなにか関係あるの?」
「左、右、左って構えが変えられてみちるの距離感を麻痺させられたんだよ。ただでさえサウスポーは距離感が掴みづらいんだ。すげぇやっかいなことしてきたな」
「そんな…そんな小細工してくるなんて…」
 とみちるは言うと、
「ぜんぜん小細工じゃねぇよ。立派な戦法だ由香理がしたことは」
 高野の怒鳴り声が響いた。
「なによ…由香理の肩持って…」
「何言ってんだよ、俺は相手のボクシングを認めなきゃ勝てないって言ってんだ。相手の肩を持つとかそういう話じゃねぇよ」
 みちるは下を見つめたまま高野の言葉に返事をしなかった。高野の言うことはもっとかもしれないけど、他にも言い方ってあるよ高野…。
「みちる、もっと慎重に攻めた方がいい。2Rはボクシングが雑になってた」
 それでもアドバイスを続けてくる高野にみちるも小さな声で、
「うん、分かった…」
 と頷いた。
 高野の言葉には不満があるけれどでも高野を信じなきゃ。友香理には負けたくない。絶対に負けられないから――――。
 第3R開始のゴングが鳴る。
 きゅっきゅっとキャンバスを蹴り上げ軽やかなステップを刻む音と共に乾いたパンチの音が次々と鳴り響いていく。左に右にスイッチしながら舞うようにステップして相手を翻弄し、放たれたパンチはことごとくヒットする。それは美しく、そして凄惨でもあった。
 ドボオォォッ!!
「ぶえぇぇっ!!」
 由香理の右のボディブローにみちるの身体がくの字に折れ曲がる。お腹にめり込んでいる由香理の右拳よりも頭の位置が下がりまるで屈服したかのような姿を晒すみちるに観客の視線が集中した。厚ぼったく腫れあがった唇からぼたぼたとよだれが垂れ流れ、ぷっくらと膨れわずかに開くばかりの瞳の力は弱々しく今にも意識が飛びそうであった。第1Rあれほど優勢だったのが今や失神寸前にまでダメージを負ったみちるの変わりように観客たちは息を呑む。
 もうみちるは完全にグロッギ―…。KOを期待する空気が場内に広がっていく。しかし、由香理は拳をすっと抜くとさっと後ろに距離を取った。そこはみちるのリーチの外。由香理は相手のパンチが届かない安全な距離から棒立ちとなったみちるの無防備な顔面に右のジャブを打ち込んでいく。
 バシィッ!!バシィッ!!バシィッ!!
 みちるの膝が何度となくがくがくと揺れる。明らかにパンチの射程外である距離から由香理のパンチを受け続けるみちる。その様はまるで大人と子供が闘っているかのように映るほど一方的な光景だった。差がどんどん広がっていく二人。しかしパンチを一方的に浴び続けたままじゃいられない。いられるわけがない。
「あたしだって!!」
 みちるが反撃に出た。しかし、距離感を失ったみちるのパンチは由香理にまったく当たらない。空振りを続けるうちにパンチは大振りになっていきついにはパンチをかわされて体勢を崩してキャンバスに両膝をついた。これがデビュー戦の試合の新人ボクサーであるかのようなお粗末なボクシングをするようになったみちるに観客席からは失望の声が漏れる。
「最初だけだったな竹嶋は…」
「全然ダメじゃん」
 ブーイングや非難の言葉が飛び交う中、みちるが荒い息を吐きながら立ち上がると、攻防は由香理のターンへと移った。右のジャブを二発。さらにスイッチして右に周ってから左のジャブを二発。足の位置が絶妙なタイミングで変わっていく由香理のボクシングにみちるは反応出来ずにパンチを浴び続ける。
 大味なみちるの攻撃を見せられた後だけにことさら由香理のボクシングの美しさが際立った。場内からは拍手喝采が沸き起こり、由香理コール一色に染まっていった。
 観客を味方につけた由香理のパンチの連打が止まらない。円を描くように周りながら左右のパンチを次々と打ち込みみちるをリング中央から逃げられないように封じ込める。
 由香理コールが止まない中、由香理のパンチをサンドバッグのように浴び続けるみちるは心の中で叫んでいた。
 なんで、なんで由香理のパンチばっかり当たるの…おかしいよさっきまではあたしが押してたのに…。
 パンチのダメージからかそれとも悔しさからなのか、みちるの目には涙が浮かび端から零れ落ちそうになっている。その目が重く鈍い音が響くと同時に大きく見開いた。
 ドボオォッ!!
 由香理の左のボディブロー。強烈な一撃はアッパーカットの軌道で下からみちるのお腹を突き上げる。大きく見開いたみちるの目から涙が零れ落ち、先が細く尖った唇は金魚のようにぱくぱくと動いていた。パンチのダメージで固まっていたみちるの身体が痙攣を始める。由香理は距離を取ることを選ばずに追撃のアッパーカットでみちるの顎を上に吹き飛ばした。
 グワシャッ!!
 天に向かって伸び上がった由香理の左の拳。顎を跳ね上げられたみちるは血飛沫を噴きながら後ろに吹き飛ばされた。どたどたと下がっていくみちるの後退は赤コーナーのポストにぶつかって止まった。最上段のロープに両腕が絡まりなんとかダウンを免れている。しかし、背中がコーナーポストにもたれ顎が上がり天を見上げたまま動けずにグロッギ―な状態でいる。
「みちる!!」
 みちるのすぐ後ろ、エプロンから叫ぶように声が飛んだ。父とそして高野の声。目が虚ろだったみちるはゆっくりと顎を下げてファイティングポーズを取る。その目は虚ろなままで父と高野の声が聞えたのかは分からない。みちるは一直線に由香理の元へ向かっていった。
「行くなみちる!!」
 制止をかけたのは高野だった。
 しかし、みちるはかまわずに由香理に向かっていく。右のストレートを由香理の顔面めがけて放った。両足をキャンバスにつけて構えていた由香理も左のストレートで攻撃に出た。
 みちると由香理の拳が交錯し、そして――――。
 凄まじい打撃音がリング中央から轟いた。
 それは由香理の思い通りの一撃。そして、みちるにとっては痛恨の一撃――――。
 みちるの名を呼ぶ高野の叫び声が再び赤コーナーから響き渡った。
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(4)
「会心の勝利おめでとうございます」
 女性のインタビュアーからマイクを顔の前に出され由香理は目を瞑り頭を下げた。ゆっくりと顔を上げて「ありがとうございます」と答えた。
「デビューの時からライバルと言われていた竹嶋選手との試合、完勝といっていい勝利に終わりましたが」
「いいえ実力は紙一重の勝負でした。作戦が上手くいっただけで、KO勝利出来たのは観客の声援が私を後押ししてくれたからにほかなりません」
 由香理がそう言うと観客席からは一層の大きな声援と拍手がリングに向かって送られた。それに対して由香理は右手を上げて応える。腰にはチャンピオンベルトが巻かれていて観客が新しい王者の誕生を祝福する。リングの上にただ一人残すことが許された由香理は栄光も観客の心も全てを手に入れたまさに勝者の姿に高野の目には映った。過酷な減量を乗り越えて得た栄光の瞬間だけに観るものを惹きつけるものがあると高野でさえも感じた。そして、それがこの場内の一体感に繋がっているのだと。
 高野は電光掲示板へと視線を移した。
 7R1分30秒KO勝利 〇氷室由香理 竹嶋みちる●
 リングの上にはただならない熱があった。しかし電光掲示板に表示された文字は無機質で見た途端に試合が遠い出来事のように感じられ、そして高野の心を虚しくさせた。
「みちる…」
 思わず声が漏れて高野は両腕で手にしている担架の上に視線を戻した。思わず漏れた言葉は聞こえていない。担架の上に乗せられているみちるは目が何も捉えておらず身体が痙攣を起こしたままだ。顔は頬の輪郭が倍近くに膨れ上がり直視できないほど醜悪に変わり果ててしまった。
 これがボクシングなのだと分かっていてもその残酷さを高野は受け止められずにいた。由香理の勝利を祝福することもみちるの敗北を受け入れることも出来ない残酷な結果に高野はこの時だけは大好きなボクシングを恨まずにはいられなかった。
 しかし、高野は自分自身にも非があると感じていた。セコンドとしての判断を間違えたからみちるが見るも無残な姿に変わり果ててしまった。みちるの想いに応えてやりたくて試合を止めたい気持ちを抑えてしまった。あの時試合を止めていたら…。
 

「みちる~!!」
 静寂なリングの上を高野の叫び声が虚しく響き渡った。リングの上でパンチが交錯しているみちると由香理。渾身のパンチとパンチをぶつけ合った二人は対照的な姿でパンチの攻防を終えていた。由香理が頬の皮一枚のギリギリの距離でパンチをかわしきりみちるの顔面に左ストレートを打ち込んでいる。ボクシングスタイルの美しさが頂点に達したかのようなカウンターブローを宿敵の顔面に打ち込んだ由香理の姿は崇高なまでに美しかった。そして、カウンターブローを打ち込まれ醜悪に歪んだ表情を晒すみちるの姿は由香理の美しさを引き立たせる存在にしか見えなかった。
「ぶへえぇぇっ!!」
 身体をぷるぷると震わせるみちるの口からマウスピースが吐き出された。それと同時に引きつったように大きく開けていたみちるの目が閉ざされ力を失ったようにファイティングポーズを取っていた左腕もだらりと落ちた。由香理が左の拳を引き、みちるが唾液を吐き散らしながらゆっくりと後ろに崩れ落ちていく。背中からキャンバスに倒れ派手な音が静まり返った場内で響き渡った。

「ダウン!竹嶋大の字にダウン!!氷室、ついにダウンを奪い返しました!!」

 静まり返った場内でアナウンサーが興奮したように大声で実況を再開するのを合図に場内がどっと沸いた。熱狂する場内の中でリングの中央で天を仰いだままでいるみちる。
 高野は終わったと思った。あんなに綺麗なカウンターをもらって立てるはずがない。
 しかし、みちるは立ち上がってきた。両膝が産まれたての小鹿のようにぷるぷると震えながらもカウント9で。かろうじて立ち上がってきただけで立っていることもままならない。普通なら試合を止める状況だったところに第3R終了のゴングが鳴り響き、レフェリーは試合を再開させた。奇跡的に試合は続行となったのだ。
 由香理のカウンターは見事な一撃だった。しかし、それでも立ち上がれたのだから、減量の影響で由香理のパンチ力が落ちているのかもしれない。そうとしか考えられなかった。作戦面で完敗といっていいこの試合、付け入るすきがあるとしたらやっぱり由香理の過度な減量にあるのかもしれない。でも、それを言ったらみちるは試合を続けたがる。これ以上試合を続けるのは無理だ。絶対にみちるに言ってはだめだ。
 でも、赤コーナーに戻ってきたみちるは棄権を受け入れなかった。首を横に振って「途中で棄権なんて絶対にイヤ」と頑なに拒んだ。何度ももう無理だと主張する高野の言葉にみちるはその度に「イヤ」と拒絶した。そうこうしているうちにインターバルの時間が終わりを迎える。
 高野は根負けして、心の中で抑えていた唯一といっていいみちるの勝機を伝えた。
「だったら由香理のスタミナが切れるまで耐える闘いが出来るか」
 由香理の唯一といっていい不安要素のスタミナ。そこを付け入るしかない。高野は試合が始まる前に提案した作戦をみちるに再び伝えた。
 みちるは首を縦に振って「分かった…」と頷いた。みちるはダメージで顔を下げたままでどんな思いでこの作戦を受け入れたのかは高野には分からなかった。嫌々なのかそれとも自分も納得してなのかそれとももう思考することさえままならない身体の状態なのか。どちらであれ、逆転勝利することを願って、高野は絶望的な状況からみちるを赤コーナーから送り出した。
 
「氷室の右のジャブがこのRも冴え渡ります!」
 試合は第7Rを迎えていた。由香理の右のジャブの銃弾のような連打を浴び続け、みちるは血の雨を顔から吹き散らしていた。
 高野が顔色を変えて叫び続ける。
「ガードだ!みちる!ガードを上げろ!!」
 高野の叫び声は届かずにみちるはガードが下がったままパンチングボールのように由香理のジャブを浴び続ける。
 ズドオォォッ!!
「ぶおぉぉっ!!」
 由香理の右拳がお腹にめり込み、みちるの身体がくの字になり悶絶した表情を晒す。由香理が距離を詰めラッシュをかけに出た。みちるはいいようにパンチを浴び続ける。
「竹嶋完全にサンドバッグだ~!!氷室の猛攻の前に棒立ちです。これはもう試合を止めた方がいいか~!!」

 作戦は悲しいくらいに由香理に通じなかった。第6R終了のゴングが鳴った時、高野は由香理の身体から尋常じゃない量の汗が噴き出ていて、深く荒い息を吐いていた姿を見逃さなかった。由香理がスタミナ切れを迎えたのだと高野は読み取った。そして、第4R以降も一方的にパンチを浴び続けインターバルで顎を垂らし苦しげに息を吐くだけとなったボロボロなみちるに「次のRが勝負だ」と何度も鼓舞した。みちるは返事を顔を下げたまま「うん」とだけ小さく答えた。
 しかし、勝負どころと決めた第7R、ゴングが鳴らされるとリングの上を支配したのはこのRも由香理だった。体力の限界を迎えたはずの由香理ばかりがパンチを出す。由香理のパンチの数は減るどころかさらに増していた。一方のみちるは挽回するどころかろくにパンチを出すことさえなかった。みちるもこれまでのダメージの積み重ねで限界を迎えていた。でも、体力が底をついているのはお互い様。ここが勝負どころなんだ。気持ちでなんとか乗りきって欲しかった。それなのにパンチを当てるどころかパンチすら出ないなんて…。
 尋常じゃない量の汗を流しながらそれでも由香理のパンチは止まらない。凄まじい勢いでみちるの顔面を滅多打ちする。
 限界の中で頑張れるかどうか。それは試合前の練習量がものを言うんだ。
 汗だくなりながらも攻め続ける由香理の姿を見て、高野は試合の前にみちるの練習を見て感じた思いが突如現れた。試合前に懸念していたことが今まさに悪夢のような展開となって実現されてしまったのだ。
 勝てるわけがない…。
 セコンドについていた高野さえもみちるの勝利を諦めた。いつものようにしていれば勝てると慢心していたみちるがぶっ倒れることも厭わないほどの練習を積んでこの試合に臨んだ由香理に敵うはずがない。
「高野君!!タオルだ!!タオルを早く!!」
 会長の言葉に高野がはっと我に返った。
 リングの上ではみちるの両腕がだらりと下がり、由香理の左右のフックで顔面を右に左に飛ばされていた。
 高野がタオルをリングに向かって投げた。もう試合の勝ち負けに関心なんてなかった。ただみちるが無事でいてくれさえいればよかった。タオルがひらひらと舞い落ちる。高野にはそれがスローモーションのように映った。レフェリー、早く試合を止めてくれ…。
 しかし、試合を止めたのはタオルではなかった。タオルが落ちるよりも先に非情な一撃がみちるの顎を抉った。
 グワシャアッ!!
 由香理の天にまで届くかのような勢いで伸びあがった右のアッパーカット。試合を終わらせたのはセコンドのタオルでもレフェリーでもない。聖女のように美しく拳を突き上げた由香理がみちるの顎を砕き、キャンバスに沈ませた。
 うつ伏せに倒れ両腕がだらりと下がっているみちるの顔面とキャンバスの間から血が広がっていく。身体はぴくぴくと痙攣するだけで顔面がキャンバスに埋まり表情が隠れたみちるからダメージを読み取ることは出来なかったが、キャンバスに広がっていく尋常じゃない血の量がダメージの深さを物語っていた。
 レフェリーがカウントを取らずに両腕を交差する。
 カーンカーンカーン!!
「試合終了です!!氷室由香理が勝ちました!!ライバルの竹嶋に圧勝です!!すごいチャンピオンが誕生しました!!」

To be continued…
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(2)
 地鳴りのように鳴り響く歓声が聞こえてくる。天井からライトが集中的に身体を照らす。
 両腕が鉛のように重たくて動かなかった。パンチを出したくても出せない。そんな中で由香理のパンチを一方的に浴び続けた。
 高野の叫ぶような声。
 がんばらなきゃ。がんばって勝って、高野の告白の返事を待つんだ。
 重たくて言うことをきかない右拳を握りしめ、なんとか由香理の顔面めがけて放った。
 でも、みちるのパンチより先に由香理の右のアッパーカットが突き上げられた。
 顎を突き上げられてみちるは血飛沫と共にマウスピースを吐き出して後ろに吹き飛ばされていく。泥酔したようにリングをふらつき血反吐を撒き散らしながらキャンバスに崩れ落ちた。
 頬をキャンバスに埋まらせ苦痛に満ちた表情で血反吐を垂らすみちる。そして、由香理が優越感に浸った表情で見下ろしていた。
「終わったのよ何もかも…」
 そう言って、微笑する由香理。次の瞬間には、みちるに背を向ける由香理の肩に高野が笑顔で手をかけていた。
「いや~!!」
 みちるは大声を出して起き上がった。
 周りを見渡すと、そこはベッドの上。
 みちるは思い出す。由香理にKO負けされてそのダメージで入院したことを。入院して二日目。幸い身体に異常は見つからなくてダメージも身体に残っていない。明日には退院出来る予定だった。大事にはいたらなくてよかった。でも…。
 あたしは何も手に出来なかった。試合に勝つこともチャンピオンベルトを腰に巻くことも高野の告白の返事を受けることも…。
 ドアの開く音がした。
「起きてたのか」
 と言いながら高野が部屋に入ってきた。
「うん。身体は全然大丈夫だし」
「そっか…良かったよ。みちるが元気で」
 高野はそう言って右手に持っていた果物の盛り合わせが入った籠を台の上に置くと、ベッドの隣の椅子に座った。
「高野…ごめんね。心配かけちゃって」
 みちるは精一杯の笑顔を高野に向けた。でも、高野は下を向いたままでいる。
「どうしたの高野…?」
「みちる…悪かった…俺が試合をもっと早くに止めていたらこんなことにならなかったんだ」
 そう言って、高野は頭を下げた。
「何言ってんの高野。試合を続けさせてって駄々をこねたのはあたしなんだから気にしないでよ。ほらっ顔上げて」
 みちるは慌てながら言った。
「でもさ、みちるに勝ち目がなかったわけじゃなかったんだ。俺が由香理のスタミナをつく作戦を徹底させていたら試合の結果も違ってたかもしれない」
「止めてよ高野。だってほらあたしが…」
 みちるの言葉が詰まる。
 高野は試合前だってもっと練習をしたらどうだってアドバイスしてくれたのに聞く耳を持たなかった。あたしが慢心していたから負けたんだ…。試合に勝つのは絶対あたしだって思いこんじゃってあたしったらバカみたい…。
「ごめん、高野…」
「なんだよ急に…?」
「高野は試合前にアドバイスしてくれたのにあたしったら全然聞く耳持たなくてさ…」
「もう終わったことだよ。俺ももっとしつこく言っとくべきだった」
 高野の言葉は優しかった。
「でも…」
「いいから」
 包み込むように――――。
「次、頑張ろうぜ。たった一度負けただけなんだ。次二人で力を合わせたら由香理に勝てるさ」
 温かく――――。
 芯まで染み入っていく。高野がみちるの肩に手をかける。まっすぐ目を向けてきて、みちるも思わずその目を見つめ続けた。
 みちるの瞳が緩み涙が零れ落ちてきた。
「おい、みちる」
「こっ高野っ、あっありがとうっ」
 涙で言葉が詰まりながら言った。
 そうだ、高野がこんなにも協力してくれるんだ。頑張らなきゃ。
 高野の告白の返事とか気にしてた自分が恥ずかしいよ。高野は自分もボクサーで日本チャンピオンでもあるのに、それでもあたしにこんなに協力してくれるんだ。それなのにあたしは自分のことばっか考えて。もっとボクシングに真剣に向き合わなきゃ…。もっともっと必死になって練習して今度こそ由香理に勝って日本チャンピオンになるんだ。
 みちるは高野にありのままの自分の気持ちを伝えた。高野は何も言わず、「頑張ろうぜ」とだけ言ってくれた。 
 それからしばらくして高野は「じゃあな」と言って病室から出た。
 その二分後にまたドアが開く音がした。高野が忘れ物して帰ってきたのかなと思って見て、みちるは口を強く接ぐんだ。
 病室に入ってきたのは由香理だった。紫色のショールを肩にまとい下はスカート履いて上下白の色合いでまとめた服装をしていた。リングの上とは違いとてもボクサーとは思えない清楚な大人の女性の雰囲気が由香理からは感じられた。由香理の顔には痣一つ見当たらない。昨日ボクシングの試合をしたのが嘘のような綺麗な顔をしているのが完敗だったことを改めて痛感させられて、みちるは思わず目を反らした。
「御身体は大丈夫かしら?」
「うん…」
 みちるは元気よく答えようとしたものの、出た声はまったく覇気のないものだった。自分の感情を隠そうとしても全然隠せてなくて嫌になる。
「明日には退院できるから」
「そう、良かったわ」
 由香里はそう答えただけで沈黙が出来た。
「椅子に座ったら…」
 とみちるは言ったものの、
「長居するつもりはないからいいわ」
 と由香理はつれない返事を返してきた。そして、
「それじゃあ」
 と言った。
「えっもう帰るの?」
「ええ。あなたの身体が心配だっただけだから」
 そう言って、由香理はみちるに背を向ける。
「待って」
 ドアに向かっていた由香理が顔だけをこちらに向ける。
「ねぇ、がっかりした?あたしとの試合…」
 由香理が体ごとこちらに向けてきた。
「えぇ、正直言ってがっかりだったわ」
 由香里は感情を見せずに言い放った。
「私は学校の生徒の前で闘った時のような熱い闘いが出来るとばかり思っていたのに」
「そう…」
 みちるは俯いて両手でシーツを握りしめた。
「今回はあたしの完敗だよ。それは認める」
 そう言ってからみちるは由香理の顔を見て、両手で握り拳を作ってみせた。
「でも、次は絶対に負けないからね」
 由香理は目を瞑り首を横に振った。
「残念ね。もう次はないのよ」
「えっ…」
「私の身体はフライ級のままでいるのはもう限界なのよ」
 と由香理は言って続けた。
「ベルトは返上するわ」
「フライ級じゃもう闘わないってこと…?」
「ええ、私はスーパーフライ級に階級を上げて世界を目指すわ。もう日本のベルトに挑戦することもしない」
 みちるの心の中で霧のようなもやもやした感覚が広がっていく。
「残念だったわ。あなたとの最後の闘いがこんな内容で終わるなんて」
 由香里はそう言って、みちるに背を向ける。
「お元気で」
 そう言い残して、由香理は部屋を出ていった。みちるは力ない表情で由香理の姿が無くなった後もドアを見続けた。それから、顔を伏せて両手で目を塞いだ。
 由香理はもうフライ級でいられない身体だったのにそれでも無理して減量を乗り越えてあたしとの試合に臨んだ。
 あたしはバカだ…。由香理のあたしとの試合にかけた思いも知らずにいつもの試合と変わらない思いで試合に臨むなんて…。勝てるはずがなかったんだあたしじゃ…。
 涙が零れ落ち、シーツにシミが出来ていく。
 くしゃくしゃに顔を歪めて、涙が枯れるまで泣き続けた。


 一年後。リングの上で名前をコールされ、右手を上げると割れんばかりの由香理コールが沸き起こった。後楽園ホールを埋め尽くした満員の客の熱が場内に満ち溢れていた。
 これまでの試合とは明らかに違う空気がリングの上を包んでいると由香理は肌でひしひしと感じる。
 由香里は対角線上に立つチャンピオンに視線を向けた。金色の髪をした美しいチャンピオンの体つきは美しい彫刻のように筋肉をまとい光を発しているかのようだった。これまで十度の防衛を果たしている女子ボクシング最強の世界チャンピオン。
 最後の壁はそう簡単には崩せなさそうね。
 この先にまだ私の知らない世界がある。
 でも、私は自分のボクシングを信じて闘うだけ。
 セコンドからマウスピースを渡されて由香理は口に含んだ。両腕でファイティングポーズを取りながらチャンピオンの姿を見続ける。
 闘いのゴングが高らかに鳴った。

 第1章 完
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(2)
 そろそろかな。みちるは携帯電話をバッグから取り出した。インターネットのボタンをクリックして日本ボクシング協会のホームページを開く。今日付で日本ランキングが更新されている。女子日本フライ級のランキングを見ると、「一位 竹嶋みちる」と書かれていた。みちるは「やった」と握り拳を作る。
 これで日本タイトルマッチの挑戦権を得ることが出来た。チャンピオンの次の指名試合で否応なしに挑める。由香理との王座決定戦に敗れて一年。再起戦で日本ランキング7位、そして次戦で2位の選手にKOで勝利してまたここまで上り詰めることが出来た。プロボクサーになって四年になるけれど、この一年はとても長かった気がする。ファイトスタイルを一から見つめ直して、基礎から徹底的にやり直した。それで自分の闘い方が何か変わったというわけではないけれど、前よりも一日一日の練習を大切に出来た気がする。明確な目標を持ってそのためにボクシングの事だけを考えて過ごしてきた。でも、まだ目標を達成出来たわけじゃないから喜ぶのはこの辺にして気を引き締めなきゃ。あたしの目標は日本タイトルのベルトを取った先にあるんだから。
 早速、着替えて練習することにした。今日からチャンピオンの谷川静瑠を見据えて練習だ。スパーリングでも高野に谷川静瑠を想定して相手してもらわないと。
 みちるは壁にたてかけられている練習生の名前が書かれている木の名札を見る。高野の名前が書かれた名札は表になっている。高野はもうジムに来ているんだ。あれっでも、今日はまだ高野を見かけてない。改めてジムを見渡したれど、やっぱり高野の姿は見かけない。
 トレーナーの若菜さんが会長室から出てきたので、みちるは声をかけた。
「若菜さん、高野知らない?」
「琢磨ならもう帰ったよ。今日は夜に用事あるからって早めに来て練習してさ」
「そうなんだっ」
 なんだ、高野はもう帰ったのか。みちるはがっかりして頬を膨らませる。
「それよりみちるちゃん。会長が呼んでたよ」
「えっパパが?」
「何の用だろ。聞いてる若菜さん?」
「さぁ、そこまでは」
 若菜さんは首を横に振る。
「分かった。ありがとう、若菜さん」
 みちるは練習場の奥にある会長室に入った。
「ねぇ、パパ。用って何?」
 パパは両腕を組んで渋い表情で唸っていた。こちらに気付いて、すぐさまいつもの温和な表情に戻る。
「いや、日本チャンピオンの谷川静瑠なんだけどな、右手を怪我したらしくてな、今度の防衛戦を延期するそうだ」
「なにっそれ。じゃあ次の指名試合も遅れるってことなの?」
 みちるは不満そうに大きく口を開ける。
「そういうことになるな」
「えぇっ、じゃああたしとの防衛戦はいつになるのぉ」
「防衛の義務期間の半年ぎりぎりまで伸ばすんじゃないか。だから、みちるとの防衛戦は八か月くらい先になるかもしれないな」
「そんなぁ。そんな待ってられないよ」
「まぁいいじゃないか。谷川は利き腕の拳を怪我したんだ。延期の期間内に完治するかも分からないし、彼女が治療に専念している間、みちるは十分に練習を積めるんだ。ひょっとしたらチャンピオンが次の防衛戦で負けるかもしれないぞ。だったらみちるがチャンピオンになれる可能性はもっと上がるぞ。挑戦者の秋山サリナはそんな危険な相手でもないしな」
「どっちが勝ったってかまわないよ。八か月も先なんて待てないよ。これじゃ由香理との試合がいつになるか分からないよ」
「由香理!?」
 父が顎を上げて少し裏返った声で言う。
「そんな驚くこと?」
「由香理って何のことだ?」
「言ってなかったっけ。フライ級のチャンピオンになれて防衛を重ねたらいずれもう一つ上のスーパーフライ級のベルトも取って二階級制覇して由香理を挑戦者に指名しようと思ってたんだけど」
「なんだっ…そんなこと考えてたのか」
 父は首を下ろしながら息をつく。
「何、安心しきった顔してるの。ひょっとしてまたあたしが負けると思ってるの」
「いやまぁ、今はともかくそんな先のことは分からないけどな」
「今はって何よ。今試合したら負けるってこと?そりゃあ由香理との実績はだいぶ違うけど、一年前のあたしとは違うんだから」
 とみちるは言ったが、父からは返事が来ず、パソコンの画面の方に目を向けている。
「ってパパ聞いてるの」
「あぁ、聞いてるさ。まぁ氷室由香理との試合は置いといて、次のタイトルマッチまで待つしかないんだ。いいな」
「えぇ~っ」
 みちるががっかりした声で不満を表わしてると、父は「しょうがないじゃないか」と言いながら右手でパソコンの画面を閉じた。
「パパ。さっきからなんかおかしくない?」
「いや、そんなことないよ」
 父の眉毛が上がり、掌を横に振る。
「パソコンばっか気にしてるじゃない。パソコンがどうかしたの?」
「いやっ、それは…」

 喫茶店に入り、高野は店内を見渡した。お目当ての人物はすでに席に座り、お茶をすすっている。
「珍しいな。由香理から呼び出すなんて」
 由香理の座るテーブルの前で彼女と目が合うと高野はそう言って椅子に座った。高野はウェイトレスを呼んでホットレモンティーを注文した。
「迷惑だったかしら?」
 手にしていたカップを下ろして由香理は言った。
「いや、気にもなってたしな」
「試合に負けたから落ち込んでるとでも思ってるの?」
 由香里は拗ねたように視線を下に外して続けた。
「そんな気のされ方は不本意だわ」
「わりぃ」
「冗談よ。私もね、あの試合のことは誰かと話したいと思ってたところなの」
「そうか…。俺でよければいくらでも話聞くよ」
 ウェイトレスがホットレモンティーをテーブルに置いた。高野は砂糖をスプーン半分入れてかき混ぜてから一口すする。
「琢磨から見てどうだったかしら」
「残念な結果に終わったけどさ、でも、難攻不落なチャンピオンをダウン寸前まで追い詰めたんだ。健闘したと思うぜ」
 高野は明るく振舞うように言った。由香理は表情には出してないものの、世界戦で敗れて気落ちしているはず。少しでも彼女の気持ちを楽にさせてあげたかった。
「そうかしら…」
 由香里は首を横に振る。
「たしかに第3R、第4Rは私のラウンドだった。でも、マリーゼにはまだまだ余力があると感じられたわ」
 由香里はそう言って、握りしめた右の拳をテーブルの上に置く。
「私が攻めているというより攻めさせられていた。試合が終わってから振り返るとそうとしか思えないのよ」
「完敗だったってことか?」
「そうね。少なくともあと少しで手が届くところにないわ。マリーゼが手にしているベルトは」
「由香理のボクシングでも通用しないレベルか。想像以上だな世界チャンピオンの住む世界は」
「琢磨…」
 張り詰めるようにしていた由香理の声が一転して寂し気に聞えた。
「どうした?」
「一年前、私は琢磨にボクシングで結果を出すまで恋愛するつもりはないって言ったわね」
「あぁ…そうだったな」
「私は常に心を研ぎ澄まして世界戦のリングに臨んだ」
 由香里は握りしめていた右拳を自分の顔の前に上げる。
「でも、試合は私の5RKO負け。常に研ぎ澄まされた心は案外もろいものなのね。あのチャンピオンと闘って痛感したわ」
 自分の顔の前に上げていて右拳を開ける。そして、そのままその右手に視線を向け続ける。
「私は辛い時は辛いと言いたいし、悲しい時は悲しい表情をしたい。ファイターの仮面をつける必要なんてない。ありのままの自分でリングに上がりたい」
「由香理…」
 由香里がこちらに顔を向けた。
「私は愛する人に支えてもらいたい」
 由香理の目は吸い込まれそうなほどに真っ直ぐだった。強くて儚げでもあり、花のように美しく。
「そっか…」
 ろくな言葉を出せなかった。俺の気持ちは七年前、一人の人間に向けられていた。でも、自分の夢を適えるのを優先して自分の思いを伝えるのを先送りして、それで…。
「今、返事はいらないわ。私は復帰戦で日本タイトルにもう一度挑戦するわ。その試合の私を見て、試合が終わった後でどうかしら」
「分かったよ、試合が終わった後には必ず返事をする」
 と言って高野は続けた。
「がんばれよ試合」
 高野は由香理に笑顔を向けた。
「ありがとう琢磨」
 由香理も笑顔を返す。今日初めて見せてくれた由香理の優し気な表情だ。同じジムで練習していたころとだいぶ変わったと高野は改めて思った。あの時はプライドが高い我儘娘だったのに今はすっかり大人の女性に変わっている。みちるというライバルが出来てからだ由香理が変わったのは。学校でみちると由香理が試合をしたあの時から。それに比べて俺はどうなんだろう。俺はボクシングのことを考えてばかりだ。自分の気持ちを伝えるのを先送りして、先送りして。俺の気持ちは…。

こんにちは、竹嶋様。
先日お話ししました女子スーパーフライ級日本チャンピオン決定戦に竹嶋みちる選手が出場の件ですがその後お考えのほどはいかがでしょうか。竹嶋みちる選手が無理な場合はバンタム級の選手に出場を打診しますので今週中までに返事を聞かせていただけたらと思う所存です。

日本ボクシング協会 津川紀一郎

「ちょっとパパ、スーパーフライ級のタイトルマッチってどういうことよ。あたしに出場の打診が来てるじゃない!」
 パソコンの画面に開かれていたメールを見るや、みちるは父に言った。
「いや…メールの通り女子スーパーフライ級でチャンピオン決定戦が開かれることになってな、でもな、一人の選手は決まったんだけど、もう一人がなかなか決まらなくてな。上位ランカーに軒並み断れたみたいなんだよ。それで一階級下のみちるに話が来てな」
「あたしに? 別にあたしはスーパーフライ級でもかまわないよ。早く挑戦出来るんならそっちの方がいいかも。で、相手は誰なの?」
 父はしかめった表情のままなかなか言わない。
「どうしたのよ?」
「それがな…氷室由香理なんだ」
「由香理が!」
 みちるは大声を出して父に詰め寄った。
「やる。パパ、あたしこっちのタイトルマッチに出る」
「待て、みちる。お前はフライ級の選手なんだ。一つ上の階級で試合はまだ早すぎる」
「だって相手は由香理なんでしょ」
「氷室由香理だからだ。正直言うとな、今のみちるじゃまだ氷室由香理には勝てないと思っている。負けると分かっている相手と試合させるわけにはいかない」
「そんな…」
 みちるは顎を引いて視線を下ろした。
「まずはフライ級のベルトを獲ってからだ。いずれ氷室由香理と闘える日が来るさ。焦ることはない」
 いずれ…。パパの言う通り、勝ち続ければいつかまた由香理と闘うチャンスは来るかもしれない。無理してなんて…。
 みちるは病院で泣き続けた時を思い出す。
 お元気でと言って彼女は背中を向けて去って行った。
 無力なあたし。遠い彼女の背中――――。
 このままじゃあたしは一生由香理に勝てない。
「それじゃダメなのよ。由香理は無理してあたしと闘うためにフライ級にい続けたのよ。それなのにあたしが由香理と闘えるチャンスから逃げるなんて絶対出来ない!!」
 みちるは父に向って叫んだ。
「みちる、お前…」
 父は目を瞑り、ふぅっと息をついた。それからみちるの顔を見る。
「分かったよ、お前の気持ちを尊重するよ」
「ホントパパ!」
「でも、地獄の練習が待ってると思えよ」
 父が意地悪そうに笑う。
「分かってるってパパ」
 みちるは右手で握り拳を作って応えた。
小説・ときめき10カウント~あの時の約束 | コメント(4)
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