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 場内に悲鳴のような歓声が上がる中、第5ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。その音と同時に挑戦者の軽やかなステップがぴたりと止まる。目の前で両腕で顔のガードを堅め棒立ち状態のチャンピオンの姿に関心を示さずにさっと踵を返し、青コーナーに帰っていく。ざわめく場内の中でエリカは挑戦者とは思えないほどの冷静さをみせる。
 数秒遅れて遥花がガードをゆっくりと下ろし赤コーナーへ戻っていく。肩で息をして首が前に垂れ背中が丸まっているその様は、これまでの遥花の防衛戦からは考えられない姿だった。
 序盤から互角の闘いが繰り広げられた中で迎えた第5ラウンドに、一瞬の攻防が試合を揺るがせた。右のパンチを打とうとした遥花の顔面をエリカの左ストレートが鮮やかに打ち抜いたのだ。頬がひしゃげるほどのパンチの威力に遥花は膝が折れ、その後は防戦一方となった。完全に手が止まりゴングに救われた形でインターバルを迎えた遥花は、スツールに座りながら憔悴した表情で天を仰ぐ。
 右のパンチに合わせられたあのカウンターは、今までのエリカにはないテクニックだ。でも、偶然パンチがカウンターで当たったとは思えなかった。
 カウンターパンチはユキトが得意としていたパンチだった。遥花の中で忘れたい思いが蒸し返される。ユキトの夢をエリカが継いだ。それはユキトのボクシングもエリカが継いだということ。そんなの認めたくない・・・。
 閉じ込めていた感情が広がっていく。自分が自分でなくなっていくようで、遥花は心の中でイヤだと首を横に振った。
 勝たなきゃ・・・。エリカに勝てばこの苦悩からきっと解放される。

 第6ラウンドのゴングが鳴った。遥花はガードを上げて距離を取る。まだ下半身に力が入らない。悔しいけれど、打ち合うにはもう少し足のダメージの回復が必要だった。
 ガードを固める遥花にエリカのパンチが何度となく襲う。左と右の鋭いコンビネーションに遥花の身体が何度も揺れた。劣勢の状態が続くがクリーンヒットはまだ許していない。それでもガードの上からダメージは伝わってくる。体力を削られながら足の回復を図る苦しい状況。もう少し・・・。心が折れないよう遥花は自分に繰り返し言い聞かせる。
 劣勢な状態のまま、第6ラウンドの40秒が経過した頃、遥花がようやく反撃に出た。エリカの左ジャブを頭を横に振ってかわす。そこから上半身を左右に振らしていく。高速のウィービングで上半身を動かし続け、パンチの的を相手に絞らせない。インファイトを得意とする遥花が大事な場面で使うテクニック。この高速ウィービングは、体力の消耗が激しくて長くは続けられない。遥花はこのラウンドで倒す思いで技を繰り出している。
 ウィービングしながら徐々に距離を詰めていく。リーチにまさるエリカの左ジャブが遥花のパンチの間合いの外から放たれた。エリカのジャブが空を切る。エリカのジャブのスピードを遥花のウィービングが上をいく。勢いを維持しつつ一気に前に出た。
 近距離まで間合いを詰めた遥花がエリカの左腕が戻るより先に右フックを放つ。狙いはがら空きの左ボディ。ガードはもう間に合わないし、逃げられる距離でもない。右拳には充分な力が乗っている。深いダメージを与えられると確信する遥花。一方で、エリカが予期しない動きをみせる。彼女が選択したのはガードでも逃げでもなく反撃。右足を前に出し踏み込んで放たれたパンチは皮肉にも遥花と同じボディブローだった。遥花とエリカが渾身のパンチを振り合う。
 肉が押し潰されていく痛々しげな打撃音がリングに響き、それまで激しく攻防していた二人の動きが一転して止まった。
 右のアッパーカットをボディに突き刺しているエリカと悶絶して白目を向いている遥花。明暗がはっきりと別れた攻防の結末に場内が静まり返る。エリカに声援を送っていた観客は力強い挑戦者の姿に魅了され、遥花に声援を送っていた観客は凄惨な王者の姿に言葉を失った。
 遥花のお腹に深々と食い込むエリカの強烈な一撃。身体がくの字に折れ曲がり両腕までもだらりと垂れ下がる遥花はもう自力では立っていられなくなっていた。首で支えられなくなった頭はエリカの肩の上で頬が埋まり、四股の力を失った両足はぐにゃりと曲がり踵がキャンバスから浮いている。
 ライバルの顔の間近で醜く歪んだ顔を晒す遥花だが、もはやこの屈辱的な状況を把握できているのかさえ危うかった。瞳は何も捉えておらず、細く尖った口からはマウスピースがはみ出され、唾液が垂れ落ちている。
「汚らしいのよっ」
 エリカが不快そうに顔をしかめて言ったが、遥花は反応すらみせずにダメージに苦しむ表情をブザマに晒し続けるだけだった。
 エリカがめり込ませていた右拳を引き抜き半身を翻すと、支えを失った遥花の身体が前のめりに崩れ落ちていく。顔から沈み落ちお尻がつき上がる。頬がキャンバスに埋まり歪んだ口からはなおも唾液が垂れ流れ続けていた。
小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
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