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 自動車のエンジン音が幾つも重なりけたたましい駅までの道を遥花は一人で歩く。誰かと歩く気にはなれないでいた。
 先ほど試合前の軽量を終えてきた。遥花もエリカも軽量を一度でパスして、後は身体を休めて明日の試合に備えるだけだ。
 余計なことは考えないで試合に集中しなきゃ。駅までの道の中で遥花は心の中で繰り返しそう呟いた。
 頭の片隅に残る軽量室での光景。ただエリカとユキトが共にしていただけ。たいした出来事じゃないんだから、気にしても仕方ない。明日の試合に負けるわけにはいかないんだから。
 信号が赤になり、遥花は立ち止まった。目の前で自動車が交わっては過ぎていく雑多な景色をぼんやりと見ていると、後ろから名前を呼ばれて思いきり肩を上げた。
 びくりと肩を上げたまま後ろを振り向くと、ユキトが立っていた。遥花は目を大きく開けた。
「橘君・・・どうしたの?」
「いや・・・軽量の時浮かない顔してたから気になってさ」
 ユキトはそう言うと、照れ臭そうに視線を外した。気まずくて遥花も斜め下に目を反らす。
「そうかな・・・」
  声が小さくなった。
「遥花ちゃん・・・」
 ユキトの声が神妙になる。
「なに・・・?」
 遥花は下を向いたままユキトの顔をちらりと見上げた。
「僕がいるともしかして闘いづらいと思っているんじゃないかって思って」
 遥花の心臓がドキッと弾んだ。
「そっそんなことないよ」
「ならいいけどさ。遥花ちゃん、優しいから」
 遥花は目を合わせられずにそんなことないと心の中で首を振る。声に出そうとして、先にユキトが続けた。
「仲間がいるとそりゃやりづらいよね」
 遥花は複雑な表情を浮かべた。仲間か・・・。ユキトの言葉を心の中で反芻した。無意識にボブカットの髪の毛先を指先で摘まみ擦る。
 信号が青になり、遥花は横断歩道を渡る。ユキトも横に一緒に歩く。横断歩道を渡りきりしばらくして、
「橘君・・・目は大丈夫なの?」
 遥花は遠慮がちに聞いた。
「ああ、これ」
 ユキトは左目を人指し指で指した。
「目は大丈夫だよ。ボクシングはもう無理だけど日常生活を送る分には問題ないから」
 ユキトは温和な口調で言う。
「そう・・・良かった・・・」
 目の話になっても嫌な顔をしないユキトの姿を見て、遥花はもう少し踏み込んでみようと決めた。
「橘君は西薗ジムにいて・・・辛くないの?」
「えっ・・・何で?」
 ユキトが目を見開く。
「世界戦を組まれたのが早すぎたから・・・あのジムにいたから橘君は・・・」
 息が苦しくて、それより先の言葉は出なかった。ユキトは前を向いて、
「あぁ・・・あの世界戦ね」
 と言った。ユキトが唇を閉じる。沈黙が出来て、遥花の緊張が一段と高まった。ユキトは前を見続けたまま、
「あれは僕が弱かった。それだけであって誰が悪いってわけじゃないんだ。目の前にチャンスがあれば掴みにいくものだと僕は思ってる。だからあの選択に悔いはないんだ」
 と言った。声も表情もさばさばとしていて、ユキトの中では気持ちの整理が出来ているのだと遥花は思った。自分もいつまでも気にしてちゃダメだ・・・。
 ユキトが遥花の顔を見る。
「気にしててくれたんだね。ありがとう」
 そう言って、ユキトは優しい笑顔をみせた。
 心臓がトクンと跳ねて遥花は目を反らした。頬に熱を感じる。遥花は下を向いて歩き続けた。
「それにさ、僕の夢は終わってないんだ」
「えっ・・・?」
 遥花は振り向いてユキトの顔を見た。
「人の思いは誰かに渡せる。選手だった時は思ったこともなかったけど、トレーナーになれて気付けたんだ」
 ユキトは朗らかな笑みを浮かべた。視線は遠くを見ているかのように少し上を向いている。
「夢を継いでくれる人がいてありがたいよ。トレーナーをやれて良かったと思ってる」
 そう言い終えて晴れ晴れとするユキトとは対照的に、遥花は表情を失なった。頭に白いもやがかかっていくような感覚に陥っていく。
「そう・・・」
 目を合わせることは出来ず、そう言うだけで精一杯だった。
 エリカが橘君の夢を継いだ。ユキトの言葉をそう受け止めてしまった。悪気があってじゃないのに、でも聞きたくなかったと思ってしまう。ユキトの言葉が頭から離れられず、思考がぐるぐるとループしていく。冷静でいられなくなった遥花は、駅に着いても心が揺らいだたままだった。
小説・リングに消えゆく焔(ほのお) | コメント(0)
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