リングに消えゆく焔(ほのお) 最終話
2016/08/12 Fri 16:54
遥花はドアをノックして、会長室の中に入った。この部屋に入るのはおろか、ジムに来ることさえ三週間ぶりだった。
エリカとの試合が終わって以降、生活からボクシングを遠ざけていた。
机に座り書類に目を通していた祥三が顔を上げこちらを見る。
「どうした、急に。気持ちの切り替えでも出来たのか」
祥三は珍しく愛想笑いをみせた。他の人では気付けないほどぎこちなく微かな笑みだった。
「あたし、ボクシング辞めるから」
祥三が真顔になり、左右の掌を組む。
「そうか・・・分かった」
祥三はそう言っただけで口を閉じた。
「ねぇ・・・止めないの?」
「あぁ・・・遥花が望んでいるのなら止められないだろ」
「そぅ・・・」
遥花は下を向く。
「遥花・・・」
遥花は再び祥三の顔を見た。
「これまでありがとう」
祥三は優しい目をしていた。
「それとな・・・すまなかった」
祥三が左右の掌を組んだまま、頭を下げる。
「俺はお前を気持ちよくリングに上げられなかった。申し訳ないと思ってる」
「何のこと?」
「好きじゃなかったんだろ、ボクシング」
遥花の表情が固まった。
「気付いてたんだ・・・」
「俺はボクシングが好きでもないお前をリングに上げちまった。何度ももういいという気持ちになった。でも、やっぱり言えなかった」
祥三が目を瞑り口元に笑みを作る。
「見たかったんだ、遥花が世界チャンピオンになるのを」
「お父さん・・・ゴメンあたし誤解してた。お父さんはあたしにジムの借金を返すことを期待してたと思ってた」
「いや、どちらにしろ、ボクシングが好きじゃない遥花をリングに上げたことには変わりないからな」
胸の辺りが温かい。心臓が鼓動を打つたびに気持ちよく感じられる。
あたしはボクシングが好きじゃない。その思いは本心なんだろうか・・・。
遥花は胸に手を当てる。
あたしはボクシングを・・・。
世界チャンピオンという言葉に反応して、遥花は足を止めた。電気屋の店頭にある大きなテレビからの音だった。アナウンサーがニュースを読み上げている。世界チャンピオンの前田明人さんが引退を表明したニュースだった。
ニュース番組でボクサーの引退が報道されることは珍しい。多くのボクサーが人知れず引退していく。日本チャンピオンクラスでもそうだろうし、女子ならなおのことそうだ。
ニュースが代わり、遥花はその場から離れた。駅までの道を進み、赤信号の横断歩道で足を止めた。
「遥花ちゃん」
聞き覚えのある声。昔、同じ体験をしたことがある。それは一年前のこと。遥花は後ろを振り向いた。
「橘君・・・」
「久しぶりだね。どこに行こうとしてるの?」
一年ぶりに会うユキトは前と変わらぬ穏やかな表情をみせる。
「お茶の水。友達とこれから会うの」
「そうなんだ」
「橘君は?」
「後楽園ホールだよ。町田選手の試合だけは一度見ときたくてね」
「研究熱心だね」
「ボクシング以外に趣味がないだけだよ」
そう言ってユキトは小さく笑った。
信号が青になり、横断歩道を進む。渡りきった後も二人は並んで歩いた。ユキトの行き先が後楽園ホールなら駅まで同じ道だ。
遥花はユキトの顔を見た。
「エリカの試合、残念だったね・・・」
「うん、後少しだったんだけど・・・」
ユキトはこちらを見ずに言った。沈んだ思いが声から伝わってくる。
三ヶ月前、エリカは世界タイトルマッチに挑戦した。五度も防衛しているチャンピオンに善戦をしたものの、八ラウンドに二度ダウンを奪われてKO負けに終わった。それから一ヶ月後、タイトルマッチで負ったダメージが原因でエリカが網膜剥離になったという情報を父から知らされた。つまりそれは―――。
「エリカの目の怪我は大丈夫なの?」
「手術には成功したんだ。日常生活を送る分には問題ないよ。でも、もうリングには上がれない・・・」
そう言ってユキトは息をついた。
「そう・・・」
遥花も息をつく。
「エリカはまだ闘いたがってる?」
「まあね。次闘ったら間違いなく勝てるって言ってるくらいだから」
「闘いたくても闘えないんだね・・・」
遥花が呟いた。
二人の間に沈黙が続く。湿った空気を変えたくて遥花は違う話をふった。
「今は誰を教えてるの?」
「いや、実は今はトレーナーをやってなくて」
「えっ・・・」
「西園ジムを辞めたんだ。けじめをつけなきゃと思ってね。エリカが引退することになったのはトレーナーだった僕の責任だから」
「辞めるまでしなくたって・・・」
「いや、これくらいしないと。自分の時の反省を活かせなかったから、もう一度トレーナーを一から勉強したい思いもあったんだ」
「橘君は変わらないね」
遥花はユキトに笑みを向ける。ユキトの純粋な気持ちに触れるとほっとする。
「そう?」
ユキトが照れ臭そうに返した。
「どんなに辛いことがあっても絶対にぶれないでいられる」
「そんなことないよ、人がいないところじゃ泣き言ばかり言ってるよ」
「橘君が?そうなの?」
「心の中じゃね」
ユキトが口元を崩した。
「そんなのあたしはしょっちゅうだよ」
遥花もくすっと笑った。
「じゃあ今は別のジムでトレーナー?」
「それがなかなか見つからなくて。トレーナー求職中だよ」
ユキトは後頭部を撫でた。
だったら、うちのジムにこない?
ふとよぎる思い。ずっと言いたかった。臆病で言い出せず苦しい思いをしてきた。でも、それはたぶん昔の自分の声なのだと思う。
遥花は改めてユキトに顔を向ける。
「あたし、またリングに上がることにしたの」
「えっホントっ、それは良かったよ」
ユキトが嬉しそうに笑顔をみせた。
「今度の試合は復帰じゃなくて、デビュー戦みたいな気持ちでリングに立てると思うの」
遥花の言葉にユキトがきょとんとした目をする。
新しく闘う理由ができた。それは誰のためでもなく自分のため―――。だからもう自分の気持ちに迷わない。
「やっとボクシングを好きになれたから」
そう言って遥花は笑みを浮かべた。
おわり
エリカとの試合が終わって以降、生活からボクシングを遠ざけていた。
机に座り書類に目を通していた祥三が顔を上げこちらを見る。
「どうした、急に。気持ちの切り替えでも出来たのか」
祥三は珍しく愛想笑いをみせた。他の人では気付けないほどぎこちなく微かな笑みだった。
「あたし、ボクシング辞めるから」
祥三が真顔になり、左右の掌を組む。
「そうか・・・分かった」
祥三はそう言っただけで口を閉じた。
「ねぇ・・・止めないの?」
「あぁ・・・遥花が望んでいるのなら止められないだろ」
「そぅ・・・」
遥花は下を向く。
「遥花・・・」
遥花は再び祥三の顔を見た。
「これまでありがとう」
祥三は優しい目をしていた。
「それとな・・・すまなかった」
祥三が左右の掌を組んだまま、頭を下げる。
「俺はお前を気持ちよくリングに上げられなかった。申し訳ないと思ってる」
「何のこと?」
「好きじゃなかったんだろ、ボクシング」
遥花の表情が固まった。
「気付いてたんだ・・・」
「俺はボクシングが好きでもないお前をリングに上げちまった。何度ももういいという気持ちになった。でも、やっぱり言えなかった」
祥三が目を瞑り口元に笑みを作る。
「見たかったんだ、遥花が世界チャンピオンになるのを」
「お父さん・・・ゴメンあたし誤解してた。お父さんはあたしにジムの借金を返すことを期待してたと思ってた」
「いや、どちらにしろ、ボクシングが好きじゃない遥花をリングに上げたことには変わりないからな」
胸の辺りが温かい。心臓が鼓動を打つたびに気持ちよく感じられる。
あたしはボクシングが好きじゃない。その思いは本心なんだろうか・・・。
遥花は胸に手を当てる。
あたしはボクシングを・・・。
世界チャンピオンという言葉に反応して、遥花は足を止めた。電気屋の店頭にある大きなテレビからの音だった。アナウンサーがニュースを読み上げている。世界チャンピオンの前田明人さんが引退を表明したニュースだった。
ニュース番組でボクサーの引退が報道されることは珍しい。多くのボクサーが人知れず引退していく。日本チャンピオンクラスでもそうだろうし、女子ならなおのことそうだ。
ニュースが代わり、遥花はその場から離れた。駅までの道を進み、赤信号の横断歩道で足を止めた。
「遥花ちゃん」
聞き覚えのある声。昔、同じ体験をしたことがある。それは一年前のこと。遥花は後ろを振り向いた。
「橘君・・・」
「久しぶりだね。どこに行こうとしてるの?」
一年ぶりに会うユキトは前と変わらぬ穏やかな表情をみせる。
「お茶の水。友達とこれから会うの」
「そうなんだ」
「橘君は?」
「後楽園ホールだよ。町田選手の試合だけは一度見ときたくてね」
「研究熱心だね」
「ボクシング以外に趣味がないだけだよ」
そう言ってユキトは小さく笑った。
信号が青になり、横断歩道を進む。渡りきった後も二人は並んで歩いた。ユキトの行き先が後楽園ホールなら駅まで同じ道だ。
遥花はユキトの顔を見た。
「エリカの試合、残念だったね・・・」
「うん、後少しだったんだけど・・・」
ユキトはこちらを見ずに言った。沈んだ思いが声から伝わってくる。
三ヶ月前、エリカは世界タイトルマッチに挑戦した。五度も防衛しているチャンピオンに善戦をしたものの、八ラウンドに二度ダウンを奪われてKO負けに終わった。それから一ヶ月後、タイトルマッチで負ったダメージが原因でエリカが網膜剥離になったという情報を父から知らされた。つまりそれは―――。
「エリカの目の怪我は大丈夫なの?」
「手術には成功したんだ。日常生活を送る分には問題ないよ。でも、もうリングには上がれない・・・」
そう言ってユキトは息をついた。
「そう・・・」
遥花も息をつく。
「エリカはまだ闘いたがってる?」
「まあね。次闘ったら間違いなく勝てるって言ってるくらいだから」
「闘いたくても闘えないんだね・・・」
遥花が呟いた。
二人の間に沈黙が続く。湿った空気を変えたくて遥花は違う話をふった。
「今は誰を教えてるの?」
「いや、実は今はトレーナーをやってなくて」
「えっ・・・」
「西園ジムを辞めたんだ。けじめをつけなきゃと思ってね。エリカが引退することになったのはトレーナーだった僕の責任だから」
「辞めるまでしなくたって・・・」
「いや、これくらいしないと。自分の時の反省を活かせなかったから、もう一度トレーナーを一から勉強したい思いもあったんだ」
「橘君は変わらないね」
遥花はユキトに笑みを向ける。ユキトの純粋な気持ちに触れるとほっとする。
「そう?」
ユキトが照れ臭そうに返した。
「どんなに辛いことがあっても絶対にぶれないでいられる」
「そんなことないよ、人がいないところじゃ泣き言ばかり言ってるよ」
「橘君が?そうなの?」
「心の中じゃね」
ユキトが口元を崩した。
「そんなのあたしはしょっちゅうだよ」
遥花もくすっと笑った。
「じゃあ今は別のジムでトレーナー?」
「それがなかなか見つからなくて。トレーナー求職中だよ」
ユキトは後頭部を撫でた。
だったら、うちのジムにこない?
ふとよぎる思い。ずっと言いたかった。臆病で言い出せず苦しい思いをしてきた。でも、それはたぶん昔の自分の声なのだと思う。
遥花は改めてユキトに顔を向ける。
「あたし、またリングに上がることにしたの」
「えっホントっ、それは良かったよ」
ユキトが嬉しそうに笑顔をみせた。
「今度の試合は復帰じゃなくて、デビュー戦みたいな気持ちでリングに立てると思うの」
遥花の言葉にユキトがきょとんとした目をする。
新しく闘う理由ができた。それは誰のためでもなく自分のため―――。だからもう自分の気持ちに迷わない。
「やっとボクシングを好きになれたから」
そう言って遥花は笑みを浮かべた。
おわり
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