「Seven pieces」第20話~第29話
2016/08/28 Sun 11:55
「Seven pieces」
第20話~第29話
第20話~第29話
第20話
リング上では一人の少女がサンドバッグのようにパンチの雨を打たれていた。サンドバッグとなった少女は体を亀のように丸めてパンチの連打に耐えるしかなく、その姿はとても儚げで弱々しかった。
「どうしたの?ぼうっとした顔してるよ」
「あそこのリング・・」
亜莉栖が和葉の視線をなぞる。
「青のトランクスの娘・・わ・私のクラスメートだよ・・」
和葉の声は震えていた。
「えっ・・」
感情を表にあまり出さないタイプの亜莉栖もこれには意外な顔を作った。だが、亜莉栖葉の顔はすぐに戻る。
「不幸中の幸いじゃない。クラスメート優勢だから」
「えっ・・」
今度は和葉が意外な表情をして、亜莉栖に顔を向けた。
「あたし、変なこと言った?」
「相手の娘も船で私を励ましてくれて一緒に帰ろうって誓った娘なの・・・・」
亜莉栖は特には表情を変えずに和葉の顔を見つめる。
「そんなの関係無いよ。励ましてくれた娘っていっても船を出たらもう二度と会うことないんでしょ。だったらクラスメートの娘が勝ってくれた方が良いじゃない」
亜莉栖の冷静な言葉で和葉も少しづつ判断がつき始めた。
夏希と明日香では一緒に過ごした時間の長さが比較にならないくらい違う。そして、今後も自分は明日香との学校生活を送りたい。それが自分の心の奥に潜む本音である。どんなに綺麗ごとを並べても自分にとって明日香がもっとも大事な存在であり、明日香に勝って欲しいと望んでいるのだ。
和葉は覚悟を決めた。明日香を応援しよう。後悔だけは絶対に嫌だから。
「亜莉栖のおかげで決めることができた。明日香を応援する」
ドボオォッッ!!
鈍いパンチの音が響き、リング上にいる二人の動作が止まった。相手の腹にパンチを突き上げるようにめり込ませている明日香の顔は会心の手応えを掴んでいると表している充実したものだ。それだけに涙目になり、マウスピースが口からはみ出させて唇の隙間から涎がぽたぽたと垂れ流す苦悶に満ちた夏希の表情が惨めに和葉の目には映った。
和葉は思わず自分のわき腹に手をやった。ボディブローの苦しみは身に染みている。まだ残っている腹の痛みが急に気になってしまった。
「ぶええぇっ!!」
夏希はマウスピースを吐き出しながら腹を両手で抱えて前に崩れ落ちた。夏希はダウンしてもなお腹をさすり悶えうめく。
和葉は目を反らしこれで終わってと願った。下を向く和葉の耳にはレフェリーのカウントが死刑の宣告であり、夏希の呻き声が宣告に対する悲鳴のように聞えてくる。
レフェリーのカウントが8のあと数えられなくなった。顔を上げると悪い予想を思い描いたとおり夏希がファイティングポーズを取っている。
試合が再開されて明日香と夏希は再び接近して殴り合いを始めた。ガードを無視した喧嘩のように殴り合いがなされ、お互いの顔面に次々とパンチが当たっていく。明日香も夏希も顔がぱんぱんに腫れ上がっている。二人とも相当なダメージが溜まっている表れだった。
次第に夏希の手が止まりだし、明日香のパンチが一方的に当たっていくようになった。ダウン前と同じ展開に戻ったのだ。
夏希と明日香では明日香の方が強い。
よく考えてみれば明日香がボクシングで強いのも頷けるものだ。明日香は和葉と違い、スポーツが大好きであり、かつスポーツ万能である。身体能力ならクラスでもトップスリーに入る運動神経の持ち主なのだ。和葉と作戦を立てた時に夏希は運動は苦手だと言っていた。お互いにボクシングが素人という条件なら夏希にとって明日香は到底敵う相手ではない。
夏希がコーナーポストにつまり、ノーガードで5度フックを顔面に往復されたところでゴングが鳴った。
このままだと明日香が勝ってくれそうだ。
でも、和葉には明日香の優勢な展開がどうしても素直には喜べなかった。
これで夏希がこのゲームからリタイアしても喜んで明日香を迎えられるだろうか。
和葉は部屋の隅に張りつけられている電光掲示板に目を向ける。マウスピースを確認する方法があったことをすっかり忘れていた。夏希のマウスピースの残りは1という数字が映されている。しかも、明日香の方も同じ1という数字が映されている。どちらが勝ってももしかしたらリタイアは避けられるのではないかという甘い期待は脆くも崩れ去る。この試合負けた方がゲームから去らなければならない。
和葉は顔をくしゃくしゃに崩し、大切な人間の名前を呟いた。
「明日香・・」
第21話
「ぶほおっ!!ぶほおぉっ!!」
リング上ではさらに見るに耐え難い展開が繰り広げられていた。
一方的なパンチの連打。もはや、リング上のそれはボクシングではなく相手が立てなくなるまで殴り続ける拷問でしかない。
ダウンしても立ち上がればまた倒れるまで殴る。その繰り返しがこれでもう3度続いている。和葉が試合を見始めたのが2Rの途中からだったのだから夏希のダウンは合計すると3度を超えているのかもしれない。
少なくとも3度キャンバスに沈んだ夏希は顔面も御腹も紫色に変色してしまっている。
夏希がどんなに血を噴こうとも明日香は顔色を変えずに闘争心を剥き出しのまま懸命になって殴り続ける。
これは仕方のないことなのだ・・。
鬼のような形相で夏希を殴り続ける明日香もリングを下りればいつもの無邪気で能天気な明日香に戻ってくれるはずだ。明日香が変わったわけではない。悪いのは全て主催者なのだと和葉は自分に言い聞かせた。そう思わなければ心がどうにかなってしまいそうだ。
久し振りに夏希が反撃のパンチを明日香の顔面に当てた。次の瞬間、攻勢だったのが嘘のように明日香は右手を顔に当てて夏希が逃げていく。
夏希が明日香を追い掛けて、ロープに詰まり逃げ場を失った明日香にたいし攻撃に移った。
「待って!目に入った!反則だよ!!」
明日香が大声を出したものの夏希は止めずに非情のパンチを打った。明日香は体を横に向けたまま背を丸めて、束になって襲い掛かってくるパンチの圧力の前にリングの外に飛び出そうになる。両腕を相手の前に出して身を守ろうとしている明日香は言葉どおりやめてと体で相手に訴えている。
アッパーカットで顎を突き上げられると明日香がたまらずダウンをした。
突然の逆転劇に和葉は呆然としてしまった。
たった一発のパンチでどうして明日香は急に逃げていったの?
それに反則って?
目?
何が起こったのか和葉にはさっぱり分からなかった。ただ、心は悪い予感を感じとってしまい、不安が広がっていく一方でたまらない。
明日香が立ち上がり、ファイティングポーズを取った。明日香の左瞼が瘤のように腫れ上がり、瞳を閉ざしていた。目からはうっすらと血が滲み落ちている。
「目に相手の指が入ったんだよ。反則でしょっ!!」
目の前に立つレフェリーに対し明日香が大声で訴えている。
明日香の目に夏希の指が入ってしまったのだと和葉は状況を理解できた。アクシデントだとしてもこのまま試合が再開されたら片目が閉ざされた明日香はかなり不利なのではないかという考えが頭の中をよぎる。
「故意だよ・・あれ」
亜莉栖がぼそっと言った。
「えっ・・どうして?」
「偶然だったら少しは申し訳なさそうな顔するから」
すぐに夏希の顔を確認した。夏希の顔は特に変わりがなく厳しい目つきで、ロープに両肘をかけているからかふてぶてしくさえ見える。
しかし、故意と決めつけるには材料として弱く、和葉の心の中では疑惑が募る一方であった。
─────亜莉栖の言うとおりなの?故意でやったっていうの?
明日香の抗議は聞き入れられず、そのまま試合が再開された。レフェリーの合図と同時に飛び出した夏希に対し明日香は気持ちの切り替えが出来ておらず出遅れた。夏希のラッシュの前に両腕でガードを固めて防戦一方となる。
ダメージも引き摺っているのかもしれない。ややあって、明日香も反撃に出たのだが、どうにもパンチが大振りでパンチを掻い潜られては嫌らしいボディブローを的確に当てられた。それでも、明日香はパンチをぶんぶん振り回し、やがて顔面にもパンチを浴びるようになりサンドバッグと化した。
明日香は頭に血が上り、平常心を失っている。左に逃げようとした明日香だったが、それがまずかった。位置を確認していなかった明日香はコーナーポストを背負いいよいよ脱出できなくなる。
ドボオォッ!!グシャアァッ!!バキイィッ!!
夏希の放つパンチの雨が次々と明日香の顔面にめり込んでいく。
180度正反対に変わってしまった展開に和葉はまるで悪い夢を見ているかのようで明日香の劣勢が信じられないでいた。
たった一つの攻防が二人の明暗を分けたのだ。それまで明日香が夏希を良いように殴り続けていたというのに今では明日香は夏希のサンドバッグとなり、パンチの的に成れ果ててしまった。
天国から地獄へと落とされた明日香は容赦なく浴びせられるパンチの雨にみるみる顔が醜く変わり果てていき、痛々しい声を漏らしている。
明日香がサンドバッグとなってからまとめて30発はパンチをもらい、なお明日香はパンチの連打から逃れられない。足は内股になり、顔面が腫れ上がり、鼻血が両穴から止まらずに噴き出ている姿は悲壮感溢れている。それでも明日香は倒れることを拒んだ。
明日香・・負けないでよ・・
明日香の勇姿に和葉は涙ぐんでいた。
これ以上明日香が殴られるところなんて見たくなかった。でも、自分だけが逃げちゃダメだ。
明日香が夏希の体に抱き付き、ようやくパンチの雨から逃れた。両腕を夏希の腰に回していたのだが、夏希が左腕を密着した二人の体の間に入れた。左手で明日香の喉を掴み、押しこんで、コーナーポストに明日香の後頭部を叩きつけた。
悪夢のような光景はさらに続く。いや、悪夢はこれからだったのだ。
喉輪で顎を抑えつけ逃げられないようにして─────
恐怖に引き攣る明日香の顔面めがけてパンチを放った。
グシャアッ!!
頬にパンチをぶち込まれて醜く歪んでいる明日香の顔はコーナーポストと拳の間に串刺しにされていた。
夏希の右腕が大きく引かれ、またもトンカチで乱暴に叩くように明日香の顔面が殴られる。
グワシャァッ!!
「ぶえぇっ!!」
先が尖り不細工に歪められた口の狭間から血が噴出される。両腕がだらりと下がり、明日香の体から力が抜け落ちていく。
これ以上パンチをもらったら危ない状況だというのに、明日香の頭は抑えつけられているから逃げることは不可能だ。避けられる可能性がないのだから夏希のパンチは全弾全力の大振りなパンチであり、そして、その非常な追い討ちがことごとく明日香の顔面に当たる。倒すなんてあまっちゃろいものなんかじゃない。夏希の行為は破壊そのものだ。クレーン車についている鉄球の玉で建物を壊すかのようにパンチのヒットとともに強烈な鈍い音が鳴り響き、動けない明日香は体をぴくぴくと震わせる。
「あれって反則だよ。このままだと明日香が殺されちゃう・・」
和葉はどうしていいのか分からず亜莉栖に助けを求めた。亜莉栖の顔からは笑みが零れている。
目の錯覚かと思い、目をぱちくりさせると亜莉栖の顔から笑みがなくなっていた。気のせいかと和葉は気を取り直してもう一度声をかけようとした時、
「ぶへえぇっ!!」
右フックが炸裂し明日香の口から血が大量に噴き出た。返り血が夏希の顔に付着するも、それでも夏希はパンチを打つのを止めない。
明日香は倒れたくても倒れられないのではないかと和葉は気付いた。両腕はだらりと下がり、しかも決定的な事実は明日香が白目を向いてしまっていることだ。もう明日香は失神してしまっているのだ。このままでは本当に明日香は殺されてしまう。
リングに体を寄せて和葉は叫んだ。
「レフェリー、もう試合を止めて!明日香が死んじゃうよ!」
和葉の悲痛な叫びにもレフェリーは反応すら見せず、夏希の拷問パンチを近くで見届けている。
何度叫んでも無駄だった。
和葉はリングに入った。駈け込んで夏希の体を両手で掴み、明日香の体から引き剥がした。
勢いのあまり、和葉と夏希がもつれ倒れた。上体を起こした和葉と夏希の顔が向かい向かい合う。体がすくんだ和葉に対して夏希も和葉の乱入という事態に夏希も驚きを隠せずにいるようだったが、すぐに気を取り直して立ち上がり明日香を探した。
明日香はリングの端でコーナーポストにもたれかかるように倒れ込んでいた。ロープの下から2段目と3段目の間から頭がリングの外に出てしまっている。全く身動きしていない明日香の体は和葉に死んでしまっているのではないかと思わせるほど悲惨なものがあった。頬が顔の輪郭が倍近くになるほど頬が腫れている上にしかも、頬の色はどす黒く変色した青紫のうえに血で真っ赤に染められている。
和葉が明日香の元に駈け付けて明日香の背中に両腕を回し、ロープの外に出ている頭を引き戻したが、明日香の体は力が抜け切っていて魂の抜け殻のように首が後ろに垂れ下がる。体が小刻みに揺れており、死んではいないが危険な兆候なのかもしれない。和葉は抱きながら体を揺すり、名前を何度も呼んだ。白目を向いた明日香はだらしなく口を開けたままだ。その口から絞るようにううっと声が漏れる。僅かながらの反応でも和葉には嬉しく感じられた。さらに声を出して明日香の名前を呼ぶ。
「どうなるんですかこの試合は?」
夏希が冷静な声でレフェリーに訊ねた。
「待て」
レフェリーが携帯を取り出して話をする。
和葉は声を止め息を呑んだ。
レフェリーが携帯を切り、振り返った。
「試合への裁定及び立花和葉に対する処分が決定した」
第22話
「本来、第三者のリングへの乱入は第三者が一方の選手に加勢を目的とした行為ならば、試合は加勢された選手の負けとなる。だが、それでは加勢された選手はたまったものではないことから加勢された選手の代わりに乱入した第三者が賭けたマウスピースを勝者に渡すルールが適用される。しかし、今回のケースは小日向明日香がノックアウトされている状態であることは一目瞭然。立花和葉が乱入する前から試合は決着していたも同然であり、そのまま水無瀬夏希が小日向明日香に勝ったとみなす裁定が下された。よって立花和葉に対する直接のペナルティはないが、警告を与え次も同じ行為をした場合はゲーム失格とする」
自分にたいしペナルティが課されなかったことへの安堵など微塵もなく明日香がマウスピースがなくなりゲームから離脱することになった絶望感に和葉は打ちひしがれた。
肩を落とす和葉に夏希が近寄る。
「どいて」
夏希の要求を無視し和葉は明日香の体を抱いて守った。夏希が和葉を突き飛ばして明日香の口に手を突っ込んだ。そのえげつない行為によって直接明日香の口からマウスピースが銀色の糸をねばっこく引いて取り出されると夏希は背中を向けた。
「待って」
「なに?」
「なんで酷いことするの?反則なんて酷いよ。それに・・明日香、もう気を失っていたのに・・・これ以上殴る必要なんてなかったのに・・・」
責める口調で夏希を罵った。
「マウスピースいくつもってるの?」
「5つだけど・・」
夏希が意地悪な表情を見せた。
「順調なんだ。じゃあ君には分からないよね。マウスピースが残り1個になった恐怖なんて」
和葉の返答を待たずして夏希は首を横に振った。
「これは人生を賭けた闘いなんだよ。甘い考えなんて持っていられない。それが和葉にはわかっていない。そんな甘い考えじゃ勝ち抜けないよ」
「私のことなんていい。今の勝負は明日香が勝ってたよ。返してよ明日香のマウスピース!」
夏希は黙っている。
「じゃないと明日香は・・明日香は・・」
和葉は涙ぐみ言葉が喉に詰まった。
黒服の男が割って入った。
「取り込み中なようだが、口論はリングの外でやってくれ。他の試合がまだ行われるんだ」
黒服の後ろには担架が置かれてあった。二人係で明日香の体を抱えて明日香を担架の上に乗せようとする。担架で明日香の体を試合会場の外まで担ごうとしている。そうなったらもう明日香と会うことは二度となくなってしまう。
「あ・・」
明日香が担架の上に乗せられると和葉は待ってと言いたげに手を伸ばした。
「マウスピース沢山持ってるんでしょ」
夏希が和葉を指差す。
「えっ・・」
「そのマウスピースを分けてやればいいんだ。友達なんでしょ?」
マウスピースを分けることなんてできるの?
考えもしなかったことだ。でも、林檎との試合では闘っている選手にマウスピースを託すという行為が許された。
もし、できるのだとしたらマウスピースは5つ集まっているから1つくらい明日香に分けてもどうってことはないはずだ。
次の試合に残り4つのうち3つ賭けて勝てば抜けられる。
「待ってください!」
「どうした?」
黒服の眼光にたじろぎながらも声を絞った。
「明日香のマウスピースは私が持っています。明日香から1つ預かっていたんです」
黒服の男は二人とも黙ったまま和葉の顔を見つめていた。
「まあ、いいだろう。マウスピースを出せ」
リングの外に出て置いてあった袋を取りマウスピースを差し出す。それを黒服が受け取ると明日香のマウスピース袋にそれをいれる。
「どちらにしろ、失神している選手は邪魔にならないように試合会場の端にまで連れていくことになっている」
黒服はそう言い、明日香を乗せた担架を持ち上げてリングの外に出した。
「まさか本当にマウスピースをあげるとは思わなかった。心底お人良しなんだね。でも一つ忠告しとく。友達を助けて満足しているかもしれないけど、だからって彼女は君が困った時には助けない。きっと平気で裏切るよ。人は皆裏切るようにできているんだ」
「違う、そんなことはないわよ。明日香が私を裏切るなんてそんなことあるわけがないじゃない。明日香のこと知りもしないのに適当なこと言わないで!」
「じゃあ君は彼女のことどれだけ知ってるの?君もこの場に自らの意志で参加したわけじゃないんでしょ?あたし達は親に・・売られたわけじゃない」
顔を斜めに向け夏希の表情には一瞬だけ寂しさが漂っていた。
「親の本性さえ見抜けなかったあたし達に人間の考えてることなんてどれくらい分かれると思ってるの!」
夏希の声は悲痛に満ちていた。彼女も大切な人間に裏切られた人なんだと、そして夏希の立場を知ることで自らの立場も和葉は自覚した。自分が親に売られたという現実を思い出す。
和葉も悔しくてたまらなく唇を噛み締めた。
「いつまでも君にかまってなんていられないよ。じゃあね」
表情を隠すように夏希が背中を向けた。
彼女の言っていることは正しいのかもしれない。親にまで裏切られてそれでも人を信じるなんて馬鹿なのかも知れない。でも、それでも────
私は明日香を信じるよ。明日香は私の大切な友達なんだから。
「待って!」
「なに?」
うっとおしそうに夏希が顔を向ける。
「私と試合をして。あなたのことどうしても許せないもん!」
第23話
「本気で言ってるの?」
「本気よ」
「あたしのマウスピース2個しかないんだよ」
「それでもかまわないから」
夏希は顔を下げ、だるそうに息を吐く。馬鹿じゃないと言いたげな仕草だった。
顔を上げると口を開けた。
「分かった。君の挑戦受けるよ。でも、試合をするのは30分後。じゃないと挑戦は受けられない」
「分かった」
「じゃあ、30分後にこのリングの前で」
和葉は壁端にまで移動させられて寝かされている明日香の元に着いた。壁にもたれかかるように座って明日香の顔を見た。
痣だらけとなった顔を向けて明日香は目を瞑り眠っている。このまま意識が取り戻されなかったらといった不安ばかりが頭をよぎる。
亜莉栖も和葉の後を付いてきて和葉の隣に座っている。
だが、リングを下りて以降、亜莉栖から言葉がかけられることはなかった。なんて愚かな行動を取ったのだろうと亜莉栖も思っているのだろう。
自分でもそう思う。
明日香のために大事なマウスピースを1つ上げた。これだけでも充分、愚かな行為だが、さらには明日香の敵を取るためにマウスピース2つの相手に勝負を挑むなどという理から外れた行動を取ってしまった。
マウスピースを上げるだけか、もしくは夏希に試合を挑むのどちらかだけならまだ被害は少なかったが、両方の行為が重なることで和葉のゲームをクリアーする道筋に大きな支障がきたしている。
マウスピースを与えなければ持ち数は5つで夏希に挑むのも1つの選択肢として間違ってはない。
しかし、マウスピースを与えてしまったことで和葉のマウスピースは計4個。それならばさ3個の人間を相手に選び、1試合で済ませるのがマウスピース譲渡の損失を最小限に抑える正しい選択である。しかし、2個では1つ足らないわけでもう1試合必要となる。
1勝と連勝では、難易度がまるで違う。まして和葉はこれまでの激闘のダメージで限界寸前の体である。残り1試合が限度といっていい。
ゲームを勝ち抜くには間違いだらけの愚の骨頂といっていい行動だ。それでも、自分の行動を支持してくれるだろう人間が少なくとも一人はいる。
その人間の顔を和葉は思い浮かべる。
─────珠希、間違ってないよね私・・
人の姿が見かけられなくなり静まった放課後の廊下を和葉は歩いていた。トイレを通りすぎようとした時、女のこの声がかすかに耳に入り足を止めた。がやがやと賑やかな授業の休み時間だったら気付かなかっただろうごくごく小さな悲鳴だった。しかし、トイレのドアからはけっして聞き間違いではなくイヤと泣き叫ぶ声が届いてきた。
和葉はドアに近付き耳をたてた。聞こえるやろがこのボケという脅しの声が届く。
それっきりドアからは音がしなくなった。
和葉は表情をなくした。
耳に覚えのある台詞だった。関西弁を使う女子生徒は和葉の学校にそうはいない。
また、やってるんだ彼女・・。
扉の先にいる関西弁を使う少女本田エミリは根っからの苛めっ娘だ。半年前は和葉自身がトイレでなされていることと同じ目に危うくなりかけた。きっかけは校舎の裏で彼女がたばこを吸っているところを目撃してしまったからだ。逃げようとした和葉の右腕を捕まえたエミリは気味の悪い笑みを見せて逃げるなよと脅しをきかせた。それから、エミリは携帯で連絡を取り、二人の仲間を呼び寄せた。和葉はけっして先生には言わないと誓うも彼女たちの耳には届かない。
人数がそろったところで、和葉はいきなり腹にパンチをもらい、膝を突いてうずくまった。
相手はブチ切れているのだと体でもって味あわされ、ただでさえ歯向かう意思のなかった和葉の心は完全に力をなくしてしまった。
「財布出しいや」
エミリの汚い心を剥き出しにした要求にも和葉は抗わずに従順に財布をバッグから取り出す。
「なにやってんだ!!」
絶望の時から救い出す声の主は珠希だった。
話し合いが通じる相手ではない。珠希とエミリ組の闘いは避けられるものではなかった。
1対3の不利な殴り合いにもひるまずに珠希は闘う。結果は四者がボロボロに傷付き合い、痛み分けで終わる。その中で和葉だけが一人無傷だった。
自分が情けなくてしかたなかった。なぜ、珠希を助けようと自分も喧嘩に加わらなかったのだろうか。なぜ、何もせずにぼうっと突っ立っていたのだろうか。
言い訳にしかならないが、足がすくんで動けなかったのだ。臆病な心が足をすくませて自 分一人安全な場に居座らせた。
一人で闘いボロボロとなった珠希はそれでも和葉を責めずに痣だらけの顔に笑みを浮かべた。
「気にしなくていいんだ。人を殴るなんてバカな人間がするもんだからね」
和葉の目から涙が零れ落ちる。手で抑えても止まらずに溢れ出てくる。
和葉は本当の友達を知った。自分のために体を張って守ってくれる人の優しさを知った。
しかし、世の中には自分の都合だけで生き、他人の痛みを分からずに平気で傷付ける人間もいる。
それが本田エミリだ。
半年が経過しても彼女は同じことを繰り返している。この先も人の痛みをわからずに人を傷つけていくのだろう。
だからといって和葉にはどうしようもなかった。自分が絡まれなくなっただけでも良しと思わなければならない弱い人間だった。
和葉はトイレから逃げるように離れた。
なんで本田エミリの苛めを止められないのだろうと自分の勇気のなさを責めた。責めていじけることしかできなかった。
─────私では珠希のような強い人間にはなれないんだ。
心が強ければ家で一人父の帰りを待っているのも辛くはないのだろう。心が強ければどんな辛いことにも耐えられる。心が強ければどんな相手にも自分を曲げず意志を貫き通せる。少しでも突つけばヒビが入る弱い自分には到底持てないもの。自分はなんて情けない人間なんだ。
なにもかもが嫌になりそうだった。
和葉は下を向いて歩く。クラスの教室に戻り、ドアを閉めるとそこには明日香の姿があった。
第24話
明日香は上はタンクトップに下は膝までのハーフパンツの格好をしている。流石は陸上部だけあって冬だというのに逞しいかぎりだ。
「どうしたの和葉ちゃん。真っ青な顔してるよ?」
「ううん、なんでもない・・」
「こんな時間まで学校に残って何してたの?」
「もうそろそろテストが近いから図書館で勉強してたのよ」
「うわぁ気合い入ってるー。和葉ちゃんもしかして一番狙ってるー」
冗談交じりの口調で明日香は返す。
「違うよー」
和葉は手を振って精一杯の笑みを作り、明日香に合わせた。いつもは明日香の明るさに満ちた喋りが場を楽しくさせるのに今は逆にその明るさが和葉を振りまわし余計に疲れを感じさせた。
何考えてるんだろう私・・・・
和葉は目を瞑り唇を噛んだ。
「そうだ」
明日香は机の中を探りノートを取り出し両手で縦にして和葉の前に出した。
「和葉ちゃん、ごめん。貸してくれたノートにコーヒーこぼしちゃって汚くしちゃった」
ぼうっとしていた頭が明日香の言葉を理解するのに数秒かかった。
「嘘っ・・」
和葉は明日香からノートを掴みぺらぺらとめくった。10枚以上のページがふにゃけて固まっており数枚は文字が読めなくなっている。
「ごめんっ・・」
和葉は黙った。
腹立たしさのあまり言葉が出ない。そもそもノートを貸すこと自体和葉はあまり良くは思っていなかった。明日香は授業を真面目に聞かないで寝てばっかりいる。和葉だってけっして勉強が楽しいとは思っていない。それでも学生の本分はしっかりと務めないと心掛けて授業を聞き、ノートを取っているのだ。学生の本分を怠るどころか、人の大事なノートを駄目にするとは一体どういう神経を明日香はしているというのだろうか。
時々、明日香の身勝手さが許せなくなる。
「和葉ちゃん怒ってる?」
「当たり前じゃない、酷いよ明日香ちゃん・・」
「だからゴメンって・・」
明日香は謝ってはいるが、また同じことを繰り返すにきまっている。本田エミリといい明日香といい身勝手な人ばかりじゃない。
「もういい」
和葉はぷいっと顔を背けるとノートを鞄にしまい教室を出ようとした。
「待ってよ和葉ちゃん」
「なに?」
わざと冷たく声を出した。それくらいしないと明日香は気持ちに気付かない。
「そこまで冷たい態度取らなくてもいいじゃない、あたしだって悪気があったわけじゃないんだよ」
何を言うのかと思えば逆に明日香が怒るなんて。
もう完全に頭にきた。
「嫌味な態度なんか取ってないわよ。それに明日香ちゃんが悪いんじゃない!」
「だから謝ってるでしょ!」
「そんなの謝ったうちに入らないもん!」
「いじわる!!」
「いじわるは明日香ちゃんのほう!!」
「だから、謝ってるでしょ。しつこいよ和葉ちゃん!」
明日香に何を言っても無駄だ。身勝手なんだから人の気持ちなんて分かってくれない。
「もう知らないから!!」
「あたしだって知らない!!」
二人が顔を背けた。明日香と会話を交したのはそれが最後になる。
振りかえってみれば喧嘩した理由はたわいもないことだ。明日香にだって良い面もあるし、悪い面もある。自分にだって同じことだ。明日香を身勝手といったがあの時は明日香を一方的に悪く扱い自分だって身勝手なのだ。
明日香とまた楽しく話したい。もし、口喧嘩が明日香と最後に交した会話になったら悔やんでも悔やみ切れない。
明日香の口からうぅっとうめき声が漏れた。意識を失ったまま苦しんでいる明日香の姿を間近で見てなんて酷いことをされたのだと改めて思った。
夏希は明日香は平気で和葉を裏切るといった。彼女に明日香の何が分かるというのだ。明日香は人を裏切るような人間じゃないことくらい和葉は中学の時から学校を供にしているから充分に分かっている。
今までだったら怯えて声も出なかったかもしれないけど、どうしても許せなくて試合を申し込んだ。
私・・少しは強くなれたかな・・
和葉は自分自身に問いかける。答えなど和葉の口から出せるはずもない。気休めでもいいから誰かに安心を与えて欲しかった。
溢れ出る様々な感情を噛み締めるだけでも辛い。
目を覚ましてよ明日香。じゃないと明日香に謝ることだってできないよ。
「ちょっとでも寝た方がいいよ。時間が来たらあたし起こすから・・」
亜莉栖の言葉に和葉は現実に引き戻され、亜莉栖の顔を慌てて見た。亜莉栖は前を向いたまま和葉に視線を合わないようにしている。
「和葉が寝ている間に試合の対策を考えとくから・・」
「亜莉栖・・」
顔を合わせないのは恥ずかしいから。なにげなくかけられた亜莉栖の言葉は思いやりに溢れていた。一体となって亜莉栖も協力してくれる。眠っているときに見張りをしてくれるだけでなく自分の代わりに試合の対策まで練ってくれるのだ。亜莉栖も和葉の考えを分かってくれたのだと思うと嬉しくて顔に笑みが零れた。
今だって一人じゃない。明日香以外にも頼れる仲間がいるじゃないか。なんで亜利栖に頼ろうとしなかったのだろうかと和葉は自分の過ちを責めた。
嬉しさに包まれながら御言葉に甘えて和葉は目を瞑る。
勝たなきゃ・・・。
その言葉を心の中で繰り返し唱えているうちに和葉は寝息を立てて眠りに入った。
第25話
世界が揺れていた。薄く開けられた視界から歪む人間の体が映る。
誰?
胸をさらけ出し鼻先からそばかすの広がっている顔は亜莉栖だ。
「時間だよ和葉」
世界が揺れているわけではなく、自分が揺らされているのだと和葉は気付きうんと声を絞り出し亜莉栖を止めた。
和葉は目をこすりながら体を起こした。
「目覚めた?」
「うん・・」
まだ少し頭がぼうっとしていた。
「亜莉栖お願いがあるんだけど」
「なに?」
「顔を張ってくれないかな。まだ目が覚めないみたいなの。このままじゃ」
言い終わらないうちからぱしんと頬に衝撃が走った。和葉は思わず左の頬に両手を当てた。
そこまで力込めなくても・・・。
でもおかげで目が覚めた。
「試合開始まで5分。これから作戦教えるけど時間ないから集中して聞いて」
「作戦見つけられたの!」
亜利栖はうんと答えるとすぐに話の続きを始めた。
「やっかいなのが・・相手の反則だよね」
和葉は頷く。夏希の実力はそれほどではない。林檎の方が数段実力は上だろう。やっかいなのは反則だけであり、ただそれがとても厄介なのだ。
「考えたんだけど、反則ってレフェリーに見つかったらまずいじゃない。反則負けになることだって十分あるんだし。だから・・反則はピンチに立たされないと使わないと思うよ。しかも、ばれないように一発で決めたいはず。だと仮定したら、反則がばれなくてかつ当てやすい時って連打で攻め立てられている時だよね。現に明日香の時はそうだったわけだし、確実に決めたい夏希にとっては明日香戦をならって同じケースで打ってくる可能性が一番高いと思う。間違いないってわけじゃないけど・・可能性としては大きいんだから反則がくるってある程度予測できたら避けられると思うけど・・どうかな・・?」
夏希の気まぐれでどうにも変わってしまう穴だらけの推理だが、それでも勝利への突破口の糸口が見えてきた気になれた。
「ある程度打つ時が予測できるだけですごく助かるよ」
「それでね、あと、目に親指入れようとするんだから、ストレートっぽい軌道になるでしょ。接近していたらフックを打つべきなのにストレート。しかも、確実に目を入れるためにスピードを緩めないといけない。ここまで材料が揃ったら十分避けられるよ。しかも、避けるといっても目を瞑るだけで十分。ちょっとは痛いだろうけど、反撃でもっと痛いパンチをお見舞いすればもう目潰しはできなくなるよ」
「そこまで考えてくれたんだ・・」
自分のために反則対策を細かいところまで練ってくれた亜莉栖に感激で和葉は胸が一杯になった。
和葉は心の中で決めた。夏希をパンチの連打で絶対に追い詰める。そして、反則に出てきたところを逆に利用してとどめの一撃を入れるんだ。
「こんなところだけど・・なにか質問ある?」
和葉は首を横に振った。
「あと2分。準備した方がいいよ」
「あっいけないっ」
和葉は慌ててボクシンググローブを両手にはめた。
リング上にはすでに夏希が青コーナーに待機していた。両肘をロープの上に乗せているその姿は和葉の目にとても強そうな相手に映る。
“負けられない“
自分に言い聞かして和葉は立ち上がった。
リングの中に入り、自分がはめるマウスピースを除いて全てのマウスピースをレフェリーに渡した。
賭ける数は2個と確認を取った。
電光掲示板に和葉の総マウスピース数4個、夏希の総マウスピース2個、この試合に賭けるマウスピース数2個と文字が掲示される。
明日香が夏希と闘ったリングでそして明日香の陣営だった赤コーナーを和葉は背にし、キャンバスの上に足を付けた。そこはちょうど明日香がノックアウトされた場でもある。下には一つの大きな赤い染みとその他にも斑点上に赤い染みがいくつも残されている。和葉は明日香がノックアウトされた凄惨な光景を思い出さずにはいられなかった。
でも、足はなんとかすくまないでいてくれている。和葉を支えているのは夏希に対する許せないという憎しみの感情だ。和葉のこれまでの人生の中で憎いと思うことは少ないながらも何度かあった。本田エミリなどの人の心を平気で傷つける人間などにである。それでも、殴ってやりたいと攻撃的な発想にまで及ぶことなどけっしてなかった。暴力が非日常の和葉にとっては相手に天罰が当たって欲しいと神頼みが精一杯であった。それが今では夏希を殴り倒したいと望んでいる。
和葉の心の中で膨らむ夏希を倒して明日香の仇を討ちたいという思い。それと同時に明日香のように失神してもなお殴られ続けて瀕死の状況に陥るのではないかという恐怖もなお消えずに強く残り闘争心と恐怖心の二つが和葉の心の中で交錯している。
レフェリーに呼ばれ、和葉と夏希はリング中央へと向かった。対峙すると、一段と気持ちが高ぶり和葉は夏希の顔を睨みつけた。唇を強く尖らせて結び、目を上目遣いにすると自然と眉間に皺が寄った。
夏希は顎を上げ、視線を上へと反らしている。
怖気づいたの?それとも、申し訳ない気持ちで目も合わせられなくなったの?
レフェリーのルール確認が終わろうとした時、夏希が頭を元に戻し、睨みつけてきた。思わず和葉は怯んでしまった。それを見た夏希は小馬鹿にしたように笑みを浮かべる。
和葉の頬がみるみるうちに赤く染まる。
悔しさ以上に恥ずかしさにたまらない気持ちになった。
やっぱり、私は弱いままなの・・
弱気の虫が顔を覗かせる。
大丈夫、私、2連勝しているんだから強くなってるよ。
自信を持たないとと自分に言い聞かせる。
青コーナーで亜利栖が口にマウスピースをはめてくれた。これで闘いの準備は出来上がる。
ゴングが鳴り、和葉は飛び出した。残された体力のことも考えてベストな作戦は速攻だと考え至っていた。
夏希の元まで駆け足で近づくと足を止めてパンチを当てた。そこから、体力が持つ限りパンチを振り回していく。
一発、二発、三発。
立て続けに振り回しのフックが夏希の顔面を捕らえた。不意を突かれて呆然としている夏希の表情。畳み掛けられるかという期待が生まれようとした瞬間、和葉の頬に衝撃がぶち込まれた。
ズドオォッ!
「ぶほおぉっ!!
和葉の口から唾液が漏れていく。攻勢に立てるのではないかという期待が和葉の心を緩ませていた。予期していなかった一撃に、そしてカウンターで返されたことに耐えられず、目が回った。
グシャアッ!
「あうぅっ!!
追撃の右ストレートが和葉の鼻を潰す。つんと突き刺す痛みに思わず鼻に手をやってしまった。その隙を見逃さず夏希が攻め立てた
しかも、クレバーにも鼻へのピンポイントブロー
一発、二発
そして、三発目の右ストレートで鼻は拉げて血が噴き出た。
ブシュウッ!
赤い霧状となって飛び散る鼻血が目の前で煌びやかな光を放っているのを呆然とした表情で和葉は見つめていた。
そこへダメ押しでさらに右ストレートを鼻に打たれ、出血はますます酷くなった。
本能がそうさせているかのように和葉は攻撃の姿勢から一転して弱々しく亀のように体を丸めた。
ガードの上からパンチの衝撃が降り注がれてくる。早くも劣勢に立たされ、和葉は相手の顔も見ることができないくらいにガチガチに自分の顔を両腕で固める。
こんなはずじゃなかったのに・・
早くおさまってと思うものの和葉の気持ちを嘲笑うかのようにパンチの雨は一向に止まない。ガードしてても両腕は痛みに襲われる
ドボオォッ!
「ぶおぉぉっ!!
和葉が目を大きく見開かせると同時に口も苦しそうに開いた。夏希のパンチがボディにめり込まれている。
グシャアッ!
今度は顔面に右ストレートを浴びた。夏希は上下にパンチを打ち分けていくよう攻め方を変えてきている。
反撃に出ないと・・
パンチの連打が激しいために、中々割り込む機会が見出せない。
でも、このままじゃ・・・
意を決して和葉が踏み込む。大振りの左フック。相手は怒涛のラッシュの最中。打ってはいけないタイミングとはまさしくこのことだった。
最悪の反撃は痛恨の結果を和葉にもたらせる。
グワシャアァッ!
「うぼおぉっ!!
夏希のラッシュがようやく止まった。
和葉のパンチは空を切ったというのに・・・・
だからこそ痛恨なのだ。
夏希のパンチはクロスカウンターとなって和葉の頬にめり込んでいる。
第26話
夏希の右のパンチがめり込み、細く尖らされた和葉の口からマウスピースが零れ落ちた。
それと同時に和葉も後ろへばたんと派手に崩れ落ちた。
レフェリーがダウンを宣告し、カウントが数えられる。
仰向けになって倒れた和葉は虚ろな視線を天井に向けたままぴくりともしない。
体へのダメージは相当なものである。しかし、体だけではなく心へのダメージも和葉は負っていた。
成長したのではないかと感じていても実は前と全く変わっていない現実。
強くなりたいと思っても少しも強くなれない現実。
この相手だけにはどうしても勝ちたいと願っても歯が立たない現実。
どうしてこんなにも自分は弱いの?
和葉の中で亜利栖と林檎に続けて勝ち脆弱ながらも積み上げることが出来た自信が瞬く間に崩れ落ちていく。
失望に駆られ気が萎える。
悔しくて涙が出そうだった。
なんで夏希に敵わないの・・・。
負けたくない相手なのに思うようにならない。
和葉は涙目になり、歯を食いしばる。
「ファイブ!」
立たないと・・。
グローブで涙を拭き取り、和葉は立ち上がる。
足も頭もふらふらだ。
試合が再開される。
夏希の右アッパー。
「ぶへえっ!!」
夏希の右フック。
「ぶほおぉっ!!」
夏希の右ストレート。
「ぶうぅっ!!」
もはやどうにもならない。パンチを出しても当たらない。パンチを避けることもできずいいように打たれるがままだ。
ロープに追い込まれると状況はさらに悪化した。夏希のフックの連打が和葉の頭を振り子のように右に左に吹き飛ばす。
痛みが絶えず和葉の体に走る。特に鼻は殴られるたびに骨が折れたのではないかという激痛に襲われた。その鼻腔には血がたまり、呼吸も思うように出来ず苦しい。
このまま殴り続けられたら撲殺されるのではないかという恐怖に駆られた。
怖いよ・・。怖い。どうすればいいの・・・
恐怖に怯える和葉にその場から逃れられる策が沸いた。
そうだ。自分からダウンをすればいいんだ。
もうそれしかないと思った。
パンチをガードすると和葉は自分から足の力を抜き、尻餅を突いた。
和葉の願いのとおり、パンチの雨から解放されることになった。しかも、これで少しは休める。
「スリップだ」
「えっ・・・」
「今のはダウンじゃない。早く立て」
そんな・・・。
ぐずぐずしている和葉の体をレフェリーが両脇に手をやり、無理やり起き上がらせた。
「ダウンしたからといって安心しない方がいい。倒れたということは相手に隙を見せることだからな」
えっ・・どういうこと?
レフェリーの発した言葉の意味がよくわからなかった。
気が動転している和葉の顔面に夏希の右ストレートが飛んでくる。試合はすでに再開されているのだ。
グワシャアッ!!
和葉の顔面には夏希の拳が深々とめり込まれている。力が抜け落ち、両腕がだらりとさがる。
「とどめだ」
夏希は右の拳を裏返しにし、アッパーカットの体勢へ移る。
そこでゴングが鳴った。
悔しがるそぶりを微塵も見せず夏希はコーナーに戻る。
一方で和葉はロープに背中を預けたまま立ち尽くしていた。動くことはおろか、二本の足で自分の体を支えることさえできない。顎が上がり、天を見上げる和葉の視線に黒い髪が映る。亜利栖が助けに来てくれていた。和葉は亜利栖に肩を貸してもらったことでなんとかコーナーまで戻れた。
亜利栖はタオルを鼻に当ててくれた。白いタオルは瞬く間に赤く染まっていく。インターバルの間、和葉はずっとタオルを鼻に当てた。
タオルで覆われている間から赤コーナーで尻餅を付いて座っている夏希の姿が目に入った。顔を上げてレフェリーと会話を交わしている。
どういうことなのだろう?
嫌な予感がしてならなかった。
まるでレフェリーと夏希が共謀しているかのような光景に映る。
すると、レフェリーは身を翻らせて対角線上にこちらにやってくる。夏希同様キャンバスに尻を付けている和葉の前にそびえ立つように足が止まった。
「先ほども言ったが、故意にはダウンする行為が続けば制裁が課せられるだろう。気をつけることだ」
「制裁って?」
レフェリーは答えずに踵を返した。
「反則負けになるということですか?」
レフェリーが足を止める。背を向けたまま低い声を発する。
「このゲームで勝敗が決定するのは、一方が試合続行不可能になった時だけだ」
レフェリーの言葉に和葉は青ざめた。
試合の決着は一方が試合続行になった時だけ・・・・・・
Seven pieces注意事項に書かれていた言葉を和葉は思い出す。
“試合の勝敗は相手をテンカウント以上マットに寝かせた者が勝利者となる。”
これの意味するところは自分の意思でテンカウントを聞くのを望むことは認められない。自分から寝るのではなく、相手に攻撃によってテンカウント以上否応にも寝かされた時のみ敗北が認められるのだ。
つまり、負けたフリは許されない。試合の敗北は、相手の攻撃によって打ちのめされた時だけだ。
その事実は和葉の心をさらに暗くさせた。棄権は許されない。もちろん、マウスピースを二つ渡したらゲームクリアーは程遠いものになるわけで棄権するつもりはないのだけれども、試合から逃げることはできないという事実はとてつもなく重かった。
「時間だよ」
亜利栖の言葉に和葉は力なく頷いた。鼻に当てられていた白いタオルを離すと、鼻血は止まっていた。顔から闘志が消えぼうっとしている和葉の口の中に亜利栖がマウスピースを入れ込む。
第2Rのゴングが鳴る。
自分から負けを選択する逃げの選択を断たれノックアウトされる瞬間がすぐ目の前まで迫っており精神的にも追い詰められている和葉にもはや夏希に立ち向かう気力などなかった。
夏希がラッシュを仕掛け、またも和葉は亀のように体を丸め顔面を両腕で塞いだ。それでもパンチは和葉の顔面に次々とヒットする。
夏希のラッシュに防戦一方。右フックをブロックの上から当てられると両足で踏ん張れずに背中から倒れてしまった。
派手に背中を打ちつけたために和葉は内部に走った衝撃で片目を瞑り、顔をしかめた。
パンチをもらったわけではないからこれもスリップダウン。印象を悪くして制裁を受けるわけにはいかず早く立たなきゃと思い両目を見開くと、和葉の顔が引き攣った。夏希が右腕を振りかざしていた。そのまま和葉のお腹へと打ち下ろす。
和葉の緩やかなお腹に全体重の乗せられた夏希の右拳がぶち込まれた。
ドボオォォッ!!
「ぶおぉぉっ!!」
仰向けに寝ていた和葉の口が先細りに尖りコルクの栓が取れたかのように勢いよくマウスピースを吐き出した。真上へ上がったマウスピースがやがて下降すると和葉の顔に隣に大きな音を立てて大きく弾んだ。キャンバスから三度跳ねるとマウスピースは虚しくその場に止まった。
あまりの痛みに和葉は目をひん剥き舌を出して体がぷるぷると痙攣する。痛みに揺れる和葉のボディにはなおも夏希の右拳が打ち込まれていた。ぐりぐりと腹を抉り和葉をサディスティックに痛めつける。抉られるたびに和葉はあああああっと声を漏らし目からは涙が零れ落ちていく。痛みが絶頂に達した時、和葉の顔は弛緩しきってしまい口からは泡がぶくぶくと吹かれた。
レフェリーが大の字に寝ている和葉の顔を覘く。
「だから、言ったろう。無暗に倒れると制裁を課せられると」
レフェリーの言葉は和葉の耳には届かない。制裁を課すのはレフェリーではなく対戦相手の夏希だったのだと理解することもできず和葉は白目を向き失神していた。
第27話
顔面の皮膚に冷たい液体が伝わり、和葉の目がぱちりと開いた。
顔を触ってみる。肌の感触の前に両腕にボクシングローブがはめられているのだと気付いた。肌の上にグローブを滑らせると液体が伸びていく感触が皮膚に伝わった。液体はさらりとしており、肌にはひんやりとした冷気が伝わる。
どうもそれは水のようだった。
それから次にすることは・・・
はっとして和葉は勢いよく上体を起こした。
周りをきょろきょろと見る。すぐ側にはレフェリーが、赤コーナーには夏希がポストに背をもたせかけ腕組をし片足の踵をキャンバスから浮かせて立っている。見たくない余裕に満ち溢れた姿だ。
状況がよく把握できない。
和葉は途切れている記憶を探る。
自分からキャンバスに倒れたところを夏希に拳を打ち下ろされて・・・それ以降の記憶はないのだからたぶん、気を失った。
それからは・・
「起きたか」
レフェリーの低く重い声が隣から発せられた。和葉はびくっとレフェリーの方に顔を向けた。
「早く立て。試合続行だ」
「試合?私は気を失っていたんじゃ・・」
「そうだ。だから水をかけて無理やり起こした。ダウンしている相手にパンチを当てても有効とは認められない。だが、故意ではないから夏希が咎められることもない」
和葉は言葉が出なかった。
故意ではないって・・。
夏希のパンチは明らかに狙って打ったものだ。あれが故意と認められないのならルールなんてないようなものだ。それとも、故意にダウンした私が悪いっていうの?
ショックにうちひしがれているとふと、レフェリーと夏希が共謀しているのではないかと思った。
途端、レフェリーと夏希がインターバルで話あっていた光景が浮かんできた。レフェリーは和葉にしたのと同様に夏希にも故意にダウンすると制裁が課せられると注意したのだと思っていた。でも、事実はレフェリーが夏希に次に故意にダウンしたら倒れているところにパンチを当ててもかまわないとそそのかしていたのなら・・・
・・・・レフェリーは夏希の側についてしまったのだということになる。
故意にダウンすることはもうできない。ううん、それだけじゃなくて、夏希の反則にだけは目を瞑られることになったらますます不利になってしまう。
あくまで予測にすぎないのにそう思うだけで心がさらに重くなった。
「さあ立て」
ぐずぐずといつまで立っても立ち上がらない和葉の両脇にレフェリーが両手を挟み無理やり起こされた。
両手をファイティングポーズの格好にさせられて鼻がひん曲がりそうな臭いを発散させているマウスピースを無理やり口の中に押し込められた。
「はぐぅっ」
強引に口の中に入れられたためにマウスピースが上手く装着できておらず和葉は右手ではめ込み具合を整えた。上唇が盛り上がっているのが右手からも分かる。歯を守るためだとは分かっていながらもなんでマウスピースを口の中にはめなきゃいけないのと思ってしまった。
そもそも和葉はマウスピースが嫌いだった。口の中がずっと違和感のある状態になり窮屈だし、唾液が染み付くから汚らしいし匂いもたまったものじゃない。特に口から取りだして唾液が糸を引いている時や、マウスピースを吐き出して落ちたものをダウンから立ち上がった際にレフェリーからくわえさせられた時が汚らしいものをくわえていなきゃいけないと思わせられてたまらなく嫌だった。
ばたばたとした足音が響くのに耳がいくと夏希が猛然とダッシュして目の前で距離を詰めていた。顔が青ざめた和葉は背中を丸め顔面を守ろうと両腕を上げた。ガードの上から容赦なく衝撃が落ちてくる。
失神させられた上にそれでもまだ闘わせられていることに和葉は泣きたくてたまらなかった。人目がなかったら感情のたがが外れて泣いているだろう。
しかし、今、目の前には自分を殴り倒そうとしている憎き対戦相手がいる。夏希を倒さなければ自分が倒されてしまうのだとそのへんは和葉も分かっており反撃しなきゃと弱い虫を見せる自分の心を叱咤させた。
なのに、反撃のパンチを出そうすると肝心の両腕が動かなかった。パンチを出せば顔面のガードが甘くなる。一度パンチをもらうと一気に連打を食らってしまうのではないかと悪い方向に考えてしまいどうしても手が出ない。
そうしているうちにがら空きとなったボディに一撃がめり込んだ。
「ぐほおぅっ!!」
和葉は唇を尖らせて死んだ魚のように唇をぱくぱくとさせた。そこはちょうど、失神させられた時にパンチを受けた箇所だった。和葉は鳩尾のあたりに両手を当てた。
両腕のガードのカーテンはあっけなく崩れ落ち、夏希の右ストレートが和葉の顔面を打ち抜いた。夏希の拳で押し潰された和葉の鼻からは血が宙に撒き散った。
たちまち、夏希のパンチの雨がどぼどぼと和葉の体にめり込み、和葉はロープに追いやられる。
なお、夏希の猛攻は続いた。パンチを受ける度和葉の体には四本のロープが食い込む。 四本のロープがリングから和葉を逃げさせない。四本のロープが和葉の体をパンチの的となるように支え、そして、夏希に気持ちよく和葉を殴らせているかのようだ。
夏希の右フック。
和葉の頭が右に飛んだ。
グシャアッ!!
今度は右に。そして、戻ってきたところに、
ドボオォッ!!
右ストレートで顔面を潰された。体ごと仰け反り頭がリングの外まではみ出た上に血がはかなくも散っていく。
殺される。このままじゃ死ぬまで殴られちゃうよ・・・。
逃げ出したかった。
リングの上から逃げて誰もいないところに行きたかった。
しかし、試合を投げ出すことは許されないのだ。
早く試合が終わることを望むのなら立ち上がれられなくなるまで殴られろ。それがSeven piecesの鉄則である。二本の足でリングの上を踏みしめているかぎり殴られる。いつまで続くのかは分からない。その終わりは和葉がキャンバスに沈んだ時である。和葉から闘争心が消えて無くなってしまった以上は・・・
グワシャアッ!!
強烈な右ストレートが和葉の顔面を押し潰した。
和葉の顔が苦痛のあまり緩み口元がしまりなく開いた。両腕がだらりと下がると、前のめりに崩れ落ち和葉の顔は夏希の胸元に埋もれた。
「むぐぅ・・」
和葉はそのまま顔を夏希の胸元に埋めたままでいた。体を夏希にいや、夏希の胸に預けていることで立っていられた。
柔らかくかすかに弾力性の含んだ肌の感触が和葉には温もりとは程遠い気色の悪さを感じた。顔の圧力で潰れた胸の柔らかみがあまりにも生々しかった。
しかし、突き放す気力など今の和葉には持っていやしないのだった。この状態が楽である以上、相手の胸に顔を埋め、顔を制圧されている屈辱的な姿であっても受け入れてしまえている。
パンチの雨から一時だけ解放されることになった。それなのに一時の安らぎも感じることさえできない。
右ストレートを受けてから時間も経ってるのに未だにずきずきとした鼻の疼きが止まらない。痛くてたまらなくて涙が溢れ出てしまう。
激痛に耐えられず和葉の頬に一筋の雫が伝う。
痛い・・痛いよ・・・。
痛い思いしたくないからもう闘いたくなんかない・・・
和葉の中である情景が浮かび上がる。
空が夕焼けに包まれた放課後の帰り道だった。和葉は肩を落とし、顔を下げ気味にしながら歩いている。隣には珠希がいた。
「痛そうだったから・・・」
和葉はぼそっと呟いた。
「ん?」
怪訝な顔で珠希は反応した。
「痛い思いしたくないって思うとどうしても足がすくんじゃって・・」
珠希は怪訝な顔を続ける。ややあって口を丸い形に開けた。
「あー、昨日のことか」
「うん・・」
顔を下げたままの和葉の顔を珠希はじっと見つめる。
「平気で人のこと殴れる女性になるのもどうかだよ」
「でも、昨日だけじゃなくて、普段から怒らせると怖いから人に注意もかけられないし・・」
「怖いねえ・・」
珠希が片目を瞑り頭を掻いた。
「恐れをまだ知ったことがないから立ち向かえる人間と、恐れを知ってるために立ち向かえない人間がいる」
目を明後日の方向に向ける。それでまた戻した。
「似たようなもんだよね。だから、立ち向かえるからって一概にすごいわけじゃないんだ。ホントにすごい人間は一握りなんだよ」
「珠希は恐れを知ってて立ち向かっているの?」
「さあ・・」
両手を上げておどける。
「でもさ、人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれると思うよ」
「私は珠希が傷つけられてても強くなれなかった・・・」
「そりゃあその時あたしがピンチじゃなかったからだ」
珠希が笑う。
つられて和葉の表情も和やかになった。
珠希がピンチになった時頑張ろう。絶対に頑張るんだ。
和葉の首筋がびくんと跳ね上がった。
和葉は夏希の左腕で首根っこの後ろを鷲掴みにされている。
「いい加減にしてよ!」
和葉は夏希の胴に回している両腕に必死になって力を入れる。お互いが歯を食い縛って力の勝負をする。
胴に回していた両腕のロックが外れた。途端、抵抗しきれなくなり、徐々に夏希の胸元から顔が引き剥がされていく。ついには夏希のしてやったりな顔とご対面をする。
和葉の顔が恐怖で引き攣った。
その瞬間、和葉の顔面は潰されていた。強烈だった。和葉の後頭部が左腕で固定された状態でパンチを打たれたのだ。
めり込んでいた拳が引き抜かれると表れた和葉の顔面は目も鼻も潰れ、口がひん曲がっていた。
栓が抜かれたかのように溜まっていた鼻血がブシュウッと噴き上がった。
一発でまたも和葉の体から力が抜け落ち足は内股となって両腕ごと上体がだらりと下がり落ちる。
しかし、首根っこを掴まれているのだから倒れたくても倒れられない。下がった和葉の体は両腕で顔面をもたれ無理やり起こされた。左腕で首根っこが右腕で頬が鷲掴みにされれていた。頬が中にへこみ真ん中に寄った肉の圧力で唇がタコのように尖らされている。右腕が頬から離れ後ろへと引かれた。
和葉の表情は虚ろだ。
私も明日香と同じようになるのか・・。
明日香・・。
明香の顔が浮かんだ。ボコボコに腫れ上がり白目を向いた明日香の顔。なんて酷いことをするの。明日香を必要以上に傷つけた夏希を許せなかった。
“人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれる“
強くならなきゃ。今がその時だ。
でも、力は入らない。どうすれば・・
夏希の狂的な拳がうなりをあげて襲い掛かる。
瞬間的な閃きはその時沸き起こった。
和葉は右の足を夏希の左足の外側に掛けてその足を引いた。バランスを失った夏希が体重をかける和葉の圧力に耐え切れず和葉の体共々後ろへ崩れ落ちていく。体が宙に浮く中で和葉の右拳が夏希のお腹に据えられる。夏希が下に和葉が上になってキャンバスに倒れた。
「ぶへえっ!!」
背中をキャンバスに打ちつけた音が掻き消されるほどの痛々しげな声が室内に響いた。室内にいた誰もがリングに振り向いてしまうほどの常軌を逸した苦しみの声。
大量の唾液に包まれて煌びやかな光を纏うマウスピースが歪んだ口から糸を引く唾液と共に宙に吹き上がっていく。
マウスピースを吐いたのは夏希であった。苦痛に満ち溢れたその顔は激痛のあまり尖った上唇と下唇の間から舌がはみ出てしまっている。
和葉は仰向けに倒れている夏希の上に乗りかかっていた。体力を消耗しきった和葉の顔は目を瞑っており、弱々しげにはぁはぁと息を漏らす。
お互いがグロッギーとなって苦しみに喘いでいるが、一連の攻防に勝ち試合の流れを引き寄せたのは紛れもなく和葉の方だ。
和葉の右拳は深々と夏希のボディにめり込まれていたのだった。
第28話
歪な形に曲がった夏希の口からは、あああっと苦しみに耐えようとする声が漏れ両端からは唾液が垂れ流れている。
腹に据えている右拳により多くの体重を乗せると、柔らかな肉がさらに押し潰れる感触が伝わり、夏希の口から発せられる声は喉の奥底から絞り出されているような苦しみに悶えるものに変わった。声の大きさに比例するように口から漏れていく唾液の量も増している。
試合が開始されてから初めて優勢な立場に立てている。
夏希を苦しめることができている。
この機を逃しちゃダメだ。ここからもっとダメージを与えて満足に動けないようにしなきゃ。
じゃないといつまた自分がサンドバッグにされるか分からない。
右腕を腹に押し込む力を和葉は緩めずに必死になって力を伝えようとした。上から和葉に圧し掛かられている夏希は抵抗もできず両腕をキャンバスに広げ、されるがままにダメージに苦しんでいる。
もっとと和葉は願いを込めながら力を入れ続ける。
突如、後ろから両肩を掴まれ戸惑いのうちに体を立たされた。
「スリップダウンだ」
まだ両肩を掴まれたままの中、後頭部あたりから発せられたレフェリーの低い声に和葉は瞬間的にびくんと体が震えた。
体がレフェリーに拒否反応を示してしまっている。
硬直している和葉の体をレフェリーが横を素通りし夏希の元に近寄った。
今度は夏希が立たされる番だった。レフェリーはなお苦しみに悶えている夏希の両脇に手をやり、無理やりファイティングポーズを取らせた。
倒れた相手への追撃がなかったことのようにレフェリーはすぐに試合を再開させる。
夏希は立ち尽くしたままだった。顔を歪め呼吸がままならない状態であることが遠目からも分かった。
まだパンチが効いてるのだと判断し、和葉は突進していく。
夏希に近付くと何されるか分からないという警戒が無意識に働き、打ちやすいフックではなく、なるべく遠くから当てられる右ストレートを放った。夏希の顔面にはいとも容易くヒットした。
パンチが当たった。
その事実がどれだけ疲れていてもパンチを打とうという気にさせる。
右ストレート、左ストレート・・・
次々とパンチ突き刺さり、何度となく夏希の顔面を押し潰した。
やがて、距離を詰めてからのフックの連打へと移行する。
ボクシングが素人の和葉にとってストレートよりもフックの方が遥かに窮屈なく打てる。
右フック、左フック、右、左、右・・・・
反撃に転じてから10秒以上、無抵抗な夏希をサンドバッグにした。パンチの滅多打ちを浴びる夏希はブザマな苦悶の声を上げ、不細工な形に顔を歪まされ続けるだけ。対照的に和葉の表情は目を吊り上げて闘争心に満ち溢れていた。絶対に倒すんだという執念が表情から滲み出ている。確実に当たっていくパンチが和葉の気持ちを昂らせているのだ。
夏希をサンドバッグにして殴り続け、ついに会心ともいえる和葉のパンチが夏希の顔面にぶち込まれた。
彼女の顔面から重く鈍い頬の骨が悲鳴を上げる音が弾かれたのだ。
グワシャアァッ!!
「ぶげえぇっ!!」
喉の奥から絞り出た苦痛の声。
パンチの衝撃で無理やり大きく開けられた口から噴き出た大量の唾液が透明な水玉となって宙に煌びやかに消えていく。
魂が抜け落ちたかのように夏希は前のめりに崩れ落ちていく。和葉の胸に顔がぶつかると夏希は形振り構わず両腕で和葉の肩を掴み身を寄せたまま休む。
和葉の体に触れ合ったまま体を休めると同時に荒れた呼吸音を吐き出す夏希の姿を間近で目にし和葉は感じ取った。
夏希には本当にもう余裕なんてないんだ。
自分もこのまま休んでいたいところだったが、チャンスだとばかりにすぐに和葉は両手で突き放した。
よろよろと5、6歩下がったところで夏希は踏み止まる。
また、フックを当てていき、元の状況へと戻った。
夏希の膝ががくがくと笑う。
あと、ちょっと・・。
もう一発フックをぶち込み、夏希がまたも後ろへふらふらと下がる。
夢中になって追いかけパンチを打ちに出る。
とどめのつもりだった。
これでもう夏希だって倒れるはずだ。
頭を垂れ下がったままの夏希はパンチがくることに気づいてない。
右手を後ろに引こうとしたところで垂れたままの夏希の表情がちらりと見えた。
えっ・・・
微かに口元が笑ってた・・・。
亜莉栖の言葉が思い出された。
“反則はピンチに立たされないと使わないと思うよ”
パンチを打っちゃダメ。
絶対にくる。追い詰められた夏希は必ず反則に出てくる。
予感がするとはまさに今この時だと和葉は思った。
夏希の左のパンチが和葉の右目へと向かう。
分かっていてもなかなか避けられるものではなかった。
肝心の時に恐怖に体が縛りつかれたように動かない。
夏希のパンチが当たり小さな音が響く。手応えを感じたのか夏希が顔に笑みを明確に浮かべている。
突き刺した親指を右目から夏希は戻す。その瞬間、和葉は右腕を大きく引き、夏希の表情が一転して驚愕を表すものへと変わった。
ガードしなくたって避けなくたって当たる前に右目を瞑るだけで目つきは防げる。試合前に立てた作戦を和葉は忠実に再現していた。
そして、作戦の仕上げへと移る。
これで決めなきゃ。
渾身の力を込めた右フックを振り放つ。
的ともいうべき夏希の顔面にパンチが当たるかという瞬間、和葉は当たって倒れてと祈っていた。
だが、伝わってこなければならないはずの手応えがいつになっても届かない。
そのままパンチは空転に終わり、和葉は頭の中がパニックに陥った。
嘘でしょ・・・
夏希の姿は目の前から消えていた。
どこ?
瞬間的に大きく膨らんだ不安に耐えられず和葉の目が細まる。和葉の焦燥をあざ笑うかのようにパンチが下から襲い掛かってきていた。
グワシャアッ!!
痛恨のアッパーカットが和葉の顎を打ち抜いた。
「ぶへえっ!!」
大量の血が吹き上がる。赤いシャワーに包まれてマウスピースが舞い上がっていく。それだけじゃない、身を屈めて曲がった膝のバネの力が十分に乗せられた夏希のアッパーカットの強烈な威力に和葉の体までもが宙に浮き上がっていった。
第29話
宙に浮き上がった和葉の体が放物線を描き背中からキャンバスに沈んだ。続けて落ちたマウスピースが三度リング上を跳ね回った。それでマウスピースの動きは完全に止まったが、和葉はなおもぴくぴくと体を小刻みに震わせている。
和葉の両腕はバンザイを作り、それはまるで降伏の姿のようだった。
カウントが進んでいく。
「あががっ・・」
壊れたような息が和葉の口から漏れる。
天井にあるライトがやけに眩しく感じられた。真夏の炎天下に浴びせられる太陽の光のような強さだ。
現実には部屋の中の照明が太陽ほどの光を発してるわけがない。そう錯覚するほど和葉の視界がぼやけていた。
早く起きたい。
でも、大の字を作る両腕両足がまったく動かない。手足がもがれてしまったかのように感覚がなくなっている。
もうダメなのかな・・・・
せめてものあがきで寝返りを打ちうつ伏せに体勢を変えた。
これで少しは体にも力が入る。
それでも立ち上がるのは到底ムリなことのように思えた。もう手足の自由が利かないのだから。
「フォー!!」
カウントが進むごとに敗北が現実のものに感じられてくる。
泣きそうに歯を食いしばりながらキャンバスを見つめた。
キャンバスにひれ伏せられていることがたまらなく悔しい。そして、夏希に負けることがたまらなく悔しかった。
負けちゃう・・
「珠希・・悔しいよ。私すごく悔しいよ!」
和葉は頭を上げるとその勢いでもって下ろしおでこをキャンバスに強く打ち付けた。
また頭を上げてキャンバスにおでこをぶつける。
悔しさのあまりに和葉の気が狂ってしまったのだろうかとその光景を見ている誰もが思った。
自ら頭をキャンバスにぶつけて三度目。その後、さらに驚くべき光景が続いた。
和葉が上体を起こしたのだ。レフェリーにしがみつきなんとか立とうとする。レフェリーも呆然としふりほどこうとはしなかった。
和葉はカウント9で立ち上がる。
リング上にいる和葉、夏希、レフェリーの三者が動かずに固まっている。和葉は疲労のために、夏希とレフェリーは呆然として。
辛うじてレフェリーが試合再開のコールを発した。それでも和葉と夏希は動かずにいる。
「どうして立ち上がれたの・・」
コーナーから夏希がぽつりと言った。
「頭に・・強い衝撃を与えれば・・体の感覚が戻るかもしれないと思ったから・・」
夏希は目を見開いた。ありえないといいたげな表情だ。人間は家電製品じゃないんだからと。
それからまた沈黙が続いた。夏希は意識が違うところにいってるように見られる。
和葉は意識があるのかも分からないとろんとした表情になっている。
夏希の視線が青コーナーへと向かった。ゆっくりと和葉へと移行する。
「君の体を支えているのは執念なの?」
「負けられない・・私一人じゃないもの・・」
和葉はぼつりと呟いた。もうファイティングポーズすら取れずに両腕をだらりと下げその場に立ち尽くしている。
「その中には亜莉栖も入ってるの?」
和葉はこくりと頷く。もはや声を出す力さえ残っていない。
「そう・・」
夏希がダッシュして距離を詰めに行く。
ここでゴングが鳴るもダッシュを止めない。
夏希はかまわず右ストレートを打ち放った。
パンチは和葉の顔面に痛烈にめり込む。
体ごと吹き飛ばされ、和葉は体勢を崩し両腕を広げ倒れおちようかという勢いで後ろへと下がっていく。
青コーナーに体をぶつけた和葉はずり落ちていき、コーナーポストにもたれかかるように尻餅を付かせた。
ゴング後のパンチであり、ダウンとは認められない。当然のように夏希にも注意が与えられず試合はインターバルへと入る。
和葉の倒れた青コーナーはちょうど和葉の陣営だった。移動する必要もなくその場に尻を付けコーナーポストに寄りかかったまま体を休ませる。
「水・・ちょうだい・・」
和葉は顔だけコーナーの後ろに向けた。亜莉栖は返事はおろか顔を合わせようともしない。
「どう・・した・・の・・」
振り絞るように声を出す。亜莉栖から反応がない。
「ねえ・・」
「亜莉栖もう芝居はいいよ。それよりこっちきてあたしのサポートしてくれると助かる」
朦朧としていた意識が夏希の言葉に反応する。
「そうだね。もうこれであたしの役目も終わりだね。じゃあね・・」
亜莉栖が青コーナーを離れていく。足を止めた先は夏希の待っている赤コーナーであった。
悪夢のような光景を目にし和葉の表情が凍り付いた。
たちまち瞼が重くなった。この目で現実を直視するのがこの上なく辛い。
私・・裏切られた・・。
状況をようやく受け入れた和葉の目からは涙がぼろぼろ零れ落ちていく。ボクシンググローブでいくら拭っても止まらない。
一人ぼっちのインターバルが和葉に亜莉栖のセコンドがもはや欠かせないものになっていたと気付かせた。
今はいないどころか夏希のコーナーについている。一人きりの闘いは人を信じると言っていた和葉の方であり、誰も信じないと言っていた夏希がセコンドの恩恵を受けている。
悔しくてたまらなかった。亜莉栖が夏希の口にペットボトルの水を含ませている姿を見てたまらず視線を外した。
第3Rの準備をレフェリーから促される。両腕で体を支えなんとか和葉は立ち上がった。
マウスピースがどこにもなくあたりを見回すとキャンバスの中央に転がったままになっていた。
レフェリーもそのことに気付き拾い上げて和葉の口に、無理やり押し込んでくわえさせた。
ちょうど、夏希も亜莉栖からこちらは優しくマウスピースを口にはめてもらっているところだった。
それを見て和葉はぐすりとしゃくりあげた。
もういやだよ・・ 、なんで闘わなきゃいけないのよ・・
第3Rが開始されると、闘う気力さえ尽きた和葉はすぐさま、夏希のパンチの雨に晒された。
これはボクシングの試合なのか。
そう思わせるほど一方的な滅多打ちだった。
背中がロープに食い込み頭が四方八方へと激しく吹き飛ばされる。両腕はガードどころかだらりと下がり何の役にもたたない。
“きっと平気で裏切るよ。人は皆裏切るようにできているんだ“
彼女の言うとおりのことが今目の前で起きた。
もう誰も信じられないよ・・・
気力が萎み落ち、和葉はなんのために闘っているのかすら分からなくなっていた。
逆に夏希のラッシュはさらに激しさを増していった。
汗、唾液、血、涙あらゆる液体が玉状や霧状になって散っていく。
それらの液体が染み付いたグローブを夏希は何度も和葉の顔面にぶち込む。夏希のパンチはダメージだけでなく屈辱をも味あわせるものになっていた。和葉は汚らしいグローブで顔を殴られ、汚らしい液体を吐き出しているのだから。しかも、グローブの汚れは自分の吐き出した液体によるものなのだ。
夏希はパンチによって和葉を汚すが、和葉はリングを汚すことしかできないでいる。
そして、無数のパンチを浴びた和葉はついには吐き出す液体さえも尽きてしまった。
夏希がラッシュを止め、左手で和葉の顎を掴んだ。だらりと垂れ下がったままの両腕、圧迫されて歪んだ唇と宙を泳ぐ目、体も顔も力が抜け落ちてしまっている。
夏希の左腕によって和葉の体は支えられているといってよかった。しかも、顎を鷲掴みにされ頬の肉が唇へと押し寄せられ顔を不細工に変形させられて眼前の対戦相手に眺められており、これ以上の屈辱はない。
「君を裏切った亜莉栖が悪いわけじゃない。亜莉栖を信じた君が悪いんだよ」
和葉からは何の反応も返ってこない。それでも夏希は続けた。
「亜莉栖だって必死なんだ。だから、和葉が眠っている間にあたしに協力してあげようかって話を持ちかけてきた。マウスピース一個と引き換えにだからあたしにとってはそんなに割の良い話じゃないけど、確実にこの勝負勝ちたかったから亜莉栖の話を受け入れることにした。作戦は全部あたしが考えたよ。亜莉栖の話から和葉の最大の武器はしぶとさだって分かった。しぶとさでこれまでの2試合大逆転で勝ってきた。なら心の支えを壊してしまえばいいんだ。そのためにも亜莉栖の裏切りを効果的に見せつける必要があった。もう気付いてるよね?亜莉栖の反則を避けるための助言が私の勝利を確実にするための罠だったって」
和葉の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。枯れたはずの涙がまだ残っていた。
「だから言ったんだ。人は皆裏切るようにできているって」
最後の言葉を夏希は特に強めに発した。これが言いたかったといわんばかりに。
和葉は何も反論しなかった。ただただ、現実から目を背けたかった。亜莉栖が裏切ったなんて嘘だと。
「一人じゃないよ。和葉ちゃんにはまだ私がいる!」
和葉の背中から聞こえてきた少女の声。
夏希は視線を和葉からその後ろへと向けると唇を歪めた。
和葉は顔を見なくても声の主が誰なのか分かっていた。分かって当然だ。毎日顔を合わせていたかけがえのない親友なのだから。
「明日香ちゃん・・意識が戻ったんだ・・」
「和葉ちゃん、頑張って。まだまだいけるよ!」
「ありがとう」
今度は嬉し涙が零れそうだった。ずっと聞きたかった明日香の声を聞けたのだ。
しかし、まだ私諦めないと続けて言い終えないうちから目を覚まさせられる一発が和葉の腹を襲った。
「うぼぉっ!!」
どうにもならない現実へと引き戻される。
「これで終わりだから」
冷酷に言葉を告げて夏希は左腕を顎から放すと膝を屈め力を溜めこむ。開放された力が右腕に乗り、空を切り裂くパンチが無防備な和葉の顎めがけて伸び上がっていく。
グワシャアッ!!
「ぶうぅぅっ!!」
上へ向けられた顔から血飛沫が吹き上がっていく。そして、またも和葉の体は宙へと浮き上がっていった。前よりも高く浮き上がり、ついには弓なりにしなる体がリングの外へと飛び出ていく。
リングの外に吹き飛ばされた和葉の体が逆さまになったまま空中で止まった。
「いやああああっ!!」
泣き叫ぶような悲鳴を明日香は上げた。
明日香の目の前には両足がロープ最上段に絡まり、逆さになって宙にぶら下がっている和葉の姿があった。
両腕はだらりとぷらぷら垂れ下がり、なによりそれまで見えてなかった和葉の腐ったジャガイモのようにボコボコに腫れ上がった顔面が強烈だった。醜く変貌を遂げていた和葉の顔は白目をひん剥いてしまっており失神しているのだとすぐに悟らせた。下手したら命がなくなってしまっている可能性さえも感じさせる。
上唇が盛り上がり、ゆっくりと口の中からマウスピースがはみ出ていき、零れ落ちた。
鼻からも口からも血がぽたぽた垂れ流れ瞬く間にリングの外の床を赤く染める。
その完膚なきまでに打ちのめされた姿はまるで磔の処刑を受けているかのようであった。
和葉が再びリングの中に戻れるはずなどなかった。
それでも、カウントは数えられる。明日香が和葉の体に触れようとした時、レフェリーから試合が終わるまで触るなと大声で怒鳴られた。
場外カウントでカウントは10を超えて20まで数えられていく。
カウントが数えられる長い間、和葉の凄惨な姿を明日香は眼前で触れることすら許されず顔を真っ青にして眺めるしかなかった。
もう試合の結果などどうでもよかった。和葉の無事を早く確かめたい。それだけを明日香は願い続け、試合は幕が閉じられた。
To be continued・・・・・
リング上では一人の少女がサンドバッグのようにパンチの雨を打たれていた。サンドバッグとなった少女は体を亀のように丸めてパンチの連打に耐えるしかなく、その姿はとても儚げで弱々しかった。
「どうしたの?ぼうっとした顔してるよ」
「あそこのリング・・」
亜莉栖が和葉の視線をなぞる。
「青のトランクスの娘・・わ・私のクラスメートだよ・・」
和葉の声は震えていた。
「えっ・・」
感情を表にあまり出さないタイプの亜莉栖もこれには意外な顔を作った。だが、亜莉栖葉の顔はすぐに戻る。
「不幸中の幸いじゃない。クラスメート優勢だから」
「えっ・・」
今度は和葉が意外な表情をして、亜莉栖に顔を向けた。
「あたし、変なこと言った?」
「相手の娘も船で私を励ましてくれて一緒に帰ろうって誓った娘なの・・・・」
亜莉栖は特には表情を変えずに和葉の顔を見つめる。
「そんなの関係無いよ。励ましてくれた娘っていっても船を出たらもう二度と会うことないんでしょ。だったらクラスメートの娘が勝ってくれた方が良いじゃない」
亜莉栖の冷静な言葉で和葉も少しづつ判断がつき始めた。
夏希と明日香では一緒に過ごした時間の長さが比較にならないくらい違う。そして、今後も自分は明日香との学校生活を送りたい。それが自分の心の奥に潜む本音である。どんなに綺麗ごとを並べても自分にとって明日香がもっとも大事な存在であり、明日香に勝って欲しいと望んでいるのだ。
和葉は覚悟を決めた。明日香を応援しよう。後悔だけは絶対に嫌だから。
「亜莉栖のおかげで決めることができた。明日香を応援する」
ドボオォッッ!!
鈍いパンチの音が響き、リング上にいる二人の動作が止まった。相手の腹にパンチを突き上げるようにめり込ませている明日香の顔は会心の手応えを掴んでいると表している充実したものだ。それだけに涙目になり、マウスピースが口からはみ出させて唇の隙間から涎がぽたぽたと垂れ流す苦悶に満ちた夏希の表情が惨めに和葉の目には映った。
和葉は思わず自分のわき腹に手をやった。ボディブローの苦しみは身に染みている。まだ残っている腹の痛みが急に気になってしまった。
「ぶええぇっ!!」
夏希はマウスピースを吐き出しながら腹を両手で抱えて前に崩れ落ちた。夏希はダウンしてもなお腹をさすり悶えうめく。
和葉は目を反らしこれで終わってと願った。下を向く和葉の耳にはレフェリーのカウントが死刑の宣告であり、夏希の呻き声が宣告に対する悲鳴のように聞えてくる。
レフェリーのカウントが8のあと数えられなくなった。顔を上げると悪い予想を思い描いたとおり夏希がファイティングポーズを取っている。
試合が再開されて明日香と夏希は再び接近して殴り合いを始めた。ガードを無視した喧嘩のように殴り合いがなされ、お互いの顔面に次々とパンチが当たっていく。明日香も夏希も顔がぱんぱんに腫れ上がっている。二人とも相当なダメージが溜まっている表れだった。
次第に夏希の手が止まりだし、明日香のパンチが一方的に当たっていくようになった。ダウン前と同じ展開に戻ったのだ。
夏希と明日香では明日香の方が強い。
よく考えてみれば明日香がボクシングで強いのも頷けるものだ。明日香は和葉と違い、スポーツが大好きであり、かつスポーツ万能である。身体能力ならクラスでもトップスリーに入る運動神経の持ち主なのだ。和葉と作戦を立てた時に夏希は運動は苦手だと言っていた。お互いにボクシングが素人という条件なら夏希にとって明日香は到底敵う相手ではない。
夏希がコーナーポストにつまり、ノーガードで5度フックを顔面に往復されたところでゴングが鳴った。
このままだと明日香が勝ってくれそうだ。
でも、和葉には明日香の優勢な展開がどうしても素直には喜べなかった。
これで夏希がこのゲームからリタイアしても喜んで明日香を迎えられるだろうか。
和葉は部屋の隅に張りつけられている電光掲示板に目を向ける。マウスピースを確認する方法があったことをすっかり忘れていた。夏希のマウスピースの残りは1という数字が映されている。しかも、明日香の方も同じ1という数字が映されている。どちらが勝ってももしかしたらリタイアは避けられるのではないかという甘い期待は脆くも崩れ去る。この試合負けた方がゲームから去らなければならない。
和葉は顔をくしゃくしゃに崩し、大切な人間の名前を呟いた。
「明日香・・」
第21話
「ぶほおっ!!ぶほおぉっ!!」
リング上ではさらに見るに耐え難い展開が繰り広げられていた。
一方的なパンチの連打。もはや、リング上のそれはボクシングではなく相手が立てなくなるまで殴り続ける拷問でしかない。
ダウンしても立ち上がればまた倒れるまで殴る。その繰り返しがこれでもう3度続いている。和葉が試合を見始めたのが2Rの途中からだったのだから夏希のダウンは合計すると3度を超えているのかもしれない。
少なくとも3度キャンバスに沈んだ夏希は顔面も御腹も紫色に変色してしまっている。
夏希がどんなに血を噴こうとも明日香は顔色を変えずに闘争心を剥き出しのまま懸命になって殴り続ける。
これは仕方のないことなのだ・・。
鬼のような形相で夏希を殴り続ける明日香もリングを下りればいつもの無邪気で能天気な明日香に戻ってくれるはずだ。明日香が変わったわけではない。悪いのは全て主催者なのだと和葉は自分に言い聞かせた。そう思わなければ心がどうにかなってしまいそうだ。
久し振りに夏希が反撃のパンチを明日香の顔面に当てた。次の瞬間、攻勢だったのが嘘のように明日香は右手を顔に当てて夏希が逃げていく。
夏希が明日香を追い掛けて、ロープに詰まり逃げ場を失った明日香にたいし攻撃に移った。
「待って!目に入った!反則だよ!!」
明日香が大声を出したものの夏希は止めずに非情のパンチを打った。明日香は体を横に向けたまま背を丸めて、束になって襲い掛かってくるパンチの圧力の前にリングの外に飛び出そうになる。両腕を相手の前に出して身を守ろうとしている明日香は言葉どおりやめてと体で相手に訴えている。
アッパーカットで顎を突き上げられると明日香がたまらずダウンをした。
突然の逆転劇に和葉は呆然としてしまった。
たった一発のパンチでどうして明日香は急に逃げていったの?
それに反則って?
目?
何が起こったのか和葉にはさっぱり分からなかった。ただ、心は悪い予感を感じとってしまい、不安が広がっていく一方でたまらない。
明日香が立ち上がり、ファイティングポーズを取った。明日香の左瞼が瘤のように腫れ上がり、瞳を閉ざしていた。目からはうっすらと血が滲み落ちている。
「目に相手の指が入ったんだよ。反則でしょっ!!」
目の前に立つレフェリーに対し明日香が大声で訴えている。
明日香の目に夏希の指が入ってしまったのだと和葉は状況を理解できた。アクシデントだとしてもこのまま試合が再開されたら片目が閉ざされた明日香はかなり不利なのではないかという考えが頭の中をよぎる。
「故意だよ・・あれ」
亜莉栖がぼそっと言った。
「えっ・・どうして?」
「偶然だったら少しは申し訳なさそうな顔するから」
すぐに夏希の顔を確認した。夏希の顔は特に変わりがなく厳しい目つきで、ロープに両肘をかけているからかふてぶてしくさえ見える。
しかし、故意と決めつけるには材料として弱く、和葉の心の中では疑惑が募る一方であった。
─────亜莉栖の言うとおりなの?故意でやったっていうの?
明日香の抗議は聞き入れられず、そのまま試合が再開された。レフェリーの合図と同時に飛び出した夏希に対し明日香は気持ちの切り替えが出来ておらず出遅れた。夏希のラッシュの前に両腕でガードを固めて防戦一方となる。
ダメージも引き摺っているのかもしれない。ややあって、明日香も反撃に出たのだが、どうにもパンチが大振りでパンチを掻い潜られては嫌らしいボディブローを的確に当てられた。それでも、明日香はパンチをぶんぶん振り回し、やがて顔面にもパンチを浴びるようになりサンドバッグと化した。
明日香は頭に血が上り、平常心を失っている。左に逃げようとした明日香だったが、それがまずかった。位置を確認していなかった明日香はコーナーポストを背負いいよいよ脱出できなくなる。
ドボオォッ!!グシャアァッ!!バキイィッ!!
夏希の放つパンチの雨が次々と明日香の顔面にめり込んでいく。
180度正反対に変わってしまった展開に和葉はまるで悪い夢を見ているかのようで明日香の劣勢が信じられないでいた。
たった一つの攻防が二人の明暗を分けたのだ。それまで明日香が夏希を良いように殴り続けていたというのに今では明日香は夏希のサンドバッグとなり、パンチの的に成れ果ててしまった。
天国から地獄へと落とされた明日香は容赦なく浴びせられるパンチの雨にみるみる顔が醜く変わり果てていき、痛々しい声を漏らしている。
明日香がサンドバッグとなってからまとめて30発はパンチをもらい、なお明日香はパンチの連打から逃れられない。足は内股になり、顔面が腫れ上がり、鼻血が両穴から止まらずに噴き出ている姿は悲壮感溢れている。それでも明日香は倒れることを拒んだ。
明日香・・負けないでよ・・
明日香の勇姿に和葉は涙ぐんでいた。
これ以上明日香が殴られるところなんて見たくなかった。でも、自分だけが逃げちゃダメだ。
明日香が夏希の体に抱き付き、ようやくパンチの雨から逃れた。両腕を夏希の腰に回していたのだが、夏希が左腕を密着した二人の体の間に入れた。左手で明日香の喉を掴み、押しこんで、コーナーポストに明日香の後頭部を叩きつけた。
悪夢のような光景はさらに続く。いや、悪夢はこれからだったのだ。
喉輪で顎を抑えつけ逃げられないようにして─────
恐怖に引き攣る明日香の顔面めがけてパンチを放った。
グシャアッ!!
頬にパンチをぶち込まれて醜く歪んでいる明日香の顔はコーナーポストと拳の間に串刺しにされていた。
夏希の右腕が大きく引かれ、またもトンカチで乱暴に叩くように明日香の顔面が殴られる。
グワシャァッ!!
「ぶえぇっ!!」
先が尖り不細工に歪められた口の狭間から血が噴出される。両腕がだらりと下がり、明日香の体から力が抜け落ちていく。
これ以上パンチをもらったら危ない状況だというのに、明日香の頭は抑えつけられているから逃げることは不可能だ。避けられる可能性がないのだから夏希のパンチは全弾全力の大振りなパンチであり、そして、その非常な追い討ちがことごとく明日香の顔面に当たる。倒すなんてあまっちゃろいものなんかじゃない。夏希の行為は破壊そのものだ。クレーン車についている鉄球の玉で建物を壊すかのようにパンチのヒットとともに強烈な鈍い音が鳴り響き、動けない明日香は体をぴくぴくと震わせる。
「あれって反則だよ。このままだと明日香が殺されちゃう・・」
和葉はどうしていいのか分からず亜莉栖に助けを求めた。亜莉栖の顔からは笑みが零れている。
目の錯覚かと思い、目をぱちくりさせると亜莉栖の顔から笑みがなくなっていた。気のせいかと和葉は気を取り直してもう一度声をかけようとした時、
「ぶへえぇっ!!」
右フックが炸裂し明日香の口から血が大量に噴き出た。返り血が夏希の顔に付着するも、それでも夏希はパンチを打つのを止めない。
明日香は倒れたくても倒れられないのではないかと和葉は気付いた。両腕はだらりと下がり、しかも決定的な事実は明日香が白目を向いてしまっていることだ。もう明日香は失神してしまっているのだ。このままでは本当に明日香は殺されてしまう。
リングに体を寄せて和葉は叫んだ。
「レフェリー、もう試合を止めて!明日香が死んじゃうよ!」
和葉の悲痛な叫びにもレフェリーは反応すら見せず、夏希の拷問パンチを近くで見届けている。
何度叫んでも無駄だった。
和葉はリングに入った。駈け込んで夏希の体を両手で掴み、明日香の体から引き剥がした。
勢いのあまり、和葉と夏希がもつれ倒れた。上体を起こした和葉と夏希の顔が向かい向かい合う。体がすくんだ和葉に対して夏希も和葉の乱入という事態に夏希も驚きを隠せずにいるようだったが、すぐに気を取り直して立ち上がり明日香を探した。
明日香はリングの端でコーナーポストにもたれかかるように倒れ込んでいた。ロープの下から2段目と3段目の間から頭がリングの外に出てしまっている。全く身動きしていない明日香の体は和葉に死んでしまっているのではないかと思わせるほど悲惨なものがあった。頬が顔の輪郭が倍近くになるほど頬が腫れている上にしかも、頬の色はどす黒く変色した青紫のうえに血で真っ赤に染められている。
和葉が明日香の元に駈け付けて明日香の背中に両腕を回し、ロープの外に出ている頭を引き戻したが、明日香の体は力が抜け切っていて魂の抜け殻のように首が後ろに垂れ下がる。体が小刻みに揺れており、死んではいないが危険な兆候なのかもしれない。和葉は抱きながら体を揺すり、名前を何度も呼んだ。白目を向いた明日香はだらしなく口を開けたままだ。その口から絞るようにううっと声が漏れる。僅かながらの反応でも和葉には嬉しく感じられた。さらに声を出して明日香の名前を呼ぶ。
「どうなるんですかこの試合は?」
夏希が冷静な声でレフェリーに訊ねた。
「待て」
レフェリーが携帯を取り出して話をする。
和葉は声を止め息を呑んだ。
レフェリーが携帯を切り、振り返った。
「試合への裁定及び立花和葉に対する処分が決定した」
第22話
「本来、第三者のリングへの乱入は第三者が一方の選手に加勢を目的とした行為ならば、試合は加勢された選手の負けとなる。だが、それでは加勢された選手はたまったものではないことから加勢された選手の代わりに乱入した第三者が賭けたマウスピースを勝者に渡すルールが適用される。しかし、今回のケースは小日向明日香がノックアウトされている状態であることは一目瞭然。立花和葉が乱入する前から試合は決着していたも同然であり、そのまま水無瀬夏希が小日向明日香に勝ったとみなす裁定が下された。よって立花和葉に対する直接のペナルティはないが、警告を与え次も同じ行為をした場合はゲーム失格とする」
自分にたいしペナルティが課されなかったことへの安堵など微塵もなく明日香がマウスピースがなくなりゲームから離脱することになった絶望感に和葉は打ちひしがれた。
肩を落とす和葉に夏希が近寄る。
「どいて」
夏希の要求を無視し和葉は明日香の体を抱いて守った。夏希が和葉を突き飛ばして明日香の口に手を突っ込んだ。そのえげつない行為によって直接明日香の口からマウスピースが銀色の糸をねばっこく引いて取り出されると夏希は背中を向けた。
「待って」
「なに?」
「なんで酷いことするの?反則なんて酷いよ。それに・・明日香、もう気を失っていたのに・・・これ以上殴る必要なんてなかったのに・・・」
責める口調で夏希を罵った。
「マウスピースいくつもってるの?」
「5つだけど・・」
夏希が意地悪な表情を見せた。
「順調なんだ。じゃあ君には分からないよね。マウスピースが残り1個になった恐怖なんて」
和葉の返答を待たずして夏希は首を横に振った。
「これは人生を賭けた闘いなんだよ。甘い考えなんて持っていられない。それが和葉にはわかっていない。そんな甘い考えじゃ勝ち抜けないよ」
「私のことなんていい。今の勝負は明日香が勝ってたよ。返してよ明日香のマウスピース!」
夏希は黙っている。
「じゃないと明日香は・・明日香は・・」
和葉は涙ぐみ言葉が喉に詰まった。
黒服の男が割って入った。
「取り込み中なようだが、口論はリングの外でやってくれ。他の試合がまだ行われるんだ」
黒服の後ろには担架が置かれてあった。二人係で明日香の体を抱えて明日香を担架の上に乗せようとする。担架で明日香の体を試合会場の外まで担ごうとしている。そうなったらもう明日香と会うことは二度となくなってしまう。
「あ・・」
明日香が担架の上に乗せられると和葉は待ってと言いたげに手を伸ばした。
「マウスピース沢山持ってるんでしょ」
夏希が和葉を指差す。
「えっ・・」
「そのマウスピースを分けてやればいいんだ。友達なんでしょ?」
マウスピースを分けることなんてできるの?
考えもしなかったことだ。でも、林檎との試合では闘っている選手にマウスピースを託すという行為が許された。
もし、できるのだとしたらマウスピースは5つ集まっているから1つくらい明日香に分けてもどうってことはないはずだ。
次の試合に残り4つのうち3つ賭けて勝てば抜けられる。
「待ってください!」
「どうした?」
黒服の眼光にたじろぎながらも声を絞った。
「明日香のマウスピースは私が持っています。明日香から1つ預かっていたんです」
黒服の男は二人とも黙ったまま和葉の顔を見つめていた。
「まあ、いいだろう。マウスピースを出せ」
リングの外に出て置いてあった袋を取りマウスピースを差し出す。それを黒服が受け取ると明日香のマウスピース袋にそれをいれる。
「どちらにしろ、失神している選手は邪魔にならないように試合会場の端にまで連れていくことになっている」
黒服はそう言い、明日香を乗せた担架を持ち上げてリングの外に出した。
「まさか本当にマウスピースをあげるとは思わなかった。心底お人良しなんだね。でも一つ忠告しとく。友達を助けて満足しているかもしれないけど、だからって彼女は君が困った時には助けない。きっと平気で裏切るよ。人は皆裏切るようにできているんだ」
「違う、そんなことはないわよ。明日香が私を裏切るなんてそんなことあるわけがないじゃない。明日香のこと知りもしないのに適当なこと言わないで!」
「じゃあ君は彼女のことどれだけ知ってるの?君もこの場に自らの意志で参加したわけじゃないんでしょ?あたし達は親に・・売られたわけじゃない」
顔を斜めに向け夏希の表情には一瞬だけ寂しさが漂っていた。
「親の本性さえ見抜けなかったあたし達に人間の考えてることなんてどれくらい分かれると思ってるの!」
夏希の声は悲痛に満ちていた。彼女も大切な人間に裏切られた人なんだと、そして夏希の立場を知ることで自らの立場も和葉は自覚した。自分が親に売られたという現実を思い出す。
和葉も悔しくてたまらなく唇を噛み締めた。
「いつまでも君にかまってなんていられないよ。じゃあね」
表情を隠すように夏希が背中を向けた。
彼女の言っていることは正しいのかもしれない。親にまで裏切られてそれでも人を信じるなんて馬鹿なのかも知れない。でも、それでも────
私は明日香を信じるよ。明日香は私の大切な友達なんだから。
「待って!」
「なに?」
うっとおしそうに夏希が顔を向ける。
「私と試合をして。あなたのことどうしても許せないもん!」
第23話
「本気で言ってるの?」
「本気よ」
「あたしのマウスピース2個しかないんだよ」
「それでもかまわないから」
夏希は顔を下げ、だるそうに息を吐く。馬鹿じゃないと言いたげな仕草だった。
顔を上げると口を開けた。
「分かった。君の挑戦受けるよ。でも、試合をするのは30分後。じゃないと挑戦は受けられない」
「分かった」
「じゃあ、30分後にこのリングの前で」
和葉は壁端にまで移動させられて寝かされている明日香の元に着いた。壁にもたれかかるように座って明日香の顔を見た。
痣だらけとなった顔を向けて明日香は目を瞑り眠っている。このまま意識が取り戻されなかったらといった不安ばかりが頭をよぎる。
亜莉栖も和葉の後を付いてきて和葉の隣に座っている。
だが、リングを下りて以降、亜莉栖から言葉がかけられることはなかった。なんて愚かな行動を取ったのだろうと亜莉栖も思っているのだろう。
自分でもそう思う。
明日香のために大事なマウスピースを1つ上げた。これだけでも充分、愚かな行為だが、さらには明日香の敵を取るためにマウスピース2つの相手に勝負を挑むなどという理から外れた行動を取ってしまった。
マウスピースを上げるだけか、もしくは夏希に試合を挑むのどちらかだけならまだ被害は少なかったが、両方の行為が重なることで和葉のゲームをクリアーする道筋に大きな支障がきたしている。
マウスピースを与えなければ持ち数は5つで夏希に挑むのも1つの選択肢として間違ってはない。
しかし、マウスピースを与えてしまったことで和葉のマウスピースは計4個。それならばさ3個の人間を相手に選び、1試合で済ませるのがマウスピース譲渡の損失を最小限に抑える正しい選択である。しかし、2個では1つ足らないわけでもう1試合必要となる。
1勝と連勝では、難易度がまるで違う。まして和葉はこれまでの激闘のダメージで限界寸前の体である。残り1試合が限度といっていい。
ゲームを勝ち抜くには間違いだらけの愚の骨頂といっていい行動だ。それでも、自分の行動を支持してくれるだろう人間が少なくとも一人はいる。
その人間の顔を和葉は思い浮かべる。
─────珠希、間違ってないよね私・・
人の姿が見かけられなくなり静まった放課後の廊下を和葉は歩いていた。トイレを通りすぎようとした時、女のこの声がかすかに耳に入り足を止めた。がやがやと賑やかな授業の休み時間だったら気付かなかっただろうごくごく小さな悲鳴だった。しかし、トイレのドアからはけっして聞き間違いではなくイヤと泣き叫ぶ声が届いてきた。
和葉はドアに近付き耳をたてた。聞こえるやろがこのボケという脅しの声が届く。
それっきりドアからは音がしなくなった。
和葉は表情をなくした。
耳に覚えのある台詞だった。関西弁を使う女子生徒は和葉の学校にそうはいない。
また、やってるんだ彼女・・。
扉の先にいる関西弁を使う少女本田エミリは根っからの苛めっ娘だ。半年前は和葉自身がトイレでなされていることと同じ目に危うくなりかけた。きっかけは校舎の裏で彼女がたばこを吸っているところを目撃してしまったからだ。逃げようとした和葉の右腕を捕まえたエミリは気味の悪い笑みを見せて逃げるなよと脅しをきかせた。それから、エミリは携帯で連絡を取り、二人の仲間を呼び寄せた。和葉はけっして先生には言わないと誓うも彼女たちの耳には届かない。
人数がそろったところで、和葉はいきなり腹にパンチをもらい、膝を突いてうずくまった。
相手はブチ切れているのだと体でもって味あわされ、ただでさえ歯向かう意思のなかった和葉の心は完全に力をなくしてしまった。
「財布出しいや」
エミリの汚い心を剥き出しにした要求にも和葉は抗わずに従順に財布をバッグから取り出す。
「なにやってんだ!!」
絶望の時から救い出す声の主は珠希だった。
話し合いが通じる相手ではない。珠希とエミリ組の闘いは避けられるものではなかった。
1対3の不利な殴り合いにもひるまずに珠希は闘う。結果は四者がボロボロに傷付き合い、痛み分けで終わる。その中で和葉だけが一人無傷だった。
自分が情けなくてしかたなかった。なぜ、珠希を助けようと自分も喧嘩に加わらなかったのだろうか。なぜ、何もせずにぼうっと突っ立っていたのだろうか。
言い訳にしかならないが、足がすくんで動けなかったのだ。臆病な心が足をすくませて自 分一人安全な場に居座らせた。
一人で闘いボロボロとなった珠希はそれでも和葉を責めずに痣だらけの顔に笑みを浮かべた。
「気にしなくていいんだ。人を殴るなんてバカな人間がするもんだからね」
和葉の目から涙が零れ落ちる。手で抑えても止まらずに溢れ出てくる。
和葉は本当の友達を知った。自分のために体を張って守ってくれる人の優しさを知った。
しかし、世の中には自分の都合だけで生き、他人の痛みを分からずに平気で傷付ける人間もいる。
それが本田エミリだ。
半年が経過しても彼女は同じことを繰り返している。この先も人の痛みをわからずに人を傷つけていくのだろう。
だからといって和葉にはどうしようもなかった。自分が絡まれなくなっただけでも良しと思わなければならない弱い人間だった。
和葉はトイレから逃げるように離れた。
なんで本田エミリの苛めを止められないのだろうと自分の勇気のなさを責めた。責めていじけることしかできなかった。
─────私では珠希のような強い人間にはなれないんだ。
心が強ければ家で一人父の帰りを待っているのも辛くはないのだろう。心が強ければどんな辛いことにも耐えられる。心が強ければどんな相手にも自分を曲げず意志を貫き通せる。少しでも突つけばヒビが入る弱い自分には到底持てないもの。自分はなんて情けない人間なんだ。
なにもかもが嫌になりそうだった。
和葉は下を向いて歩く。クラスの教室に戻り、ドアを閉めるとそこには明日香の姿があった。
第24話
明日香は上はタンクトップに下は膝までのハーフパンツの格好をしている。流石は陸上部だけあって冬だというのに逞しいかぎりだ。
「どうしたの和葉ちゃん。真っ青な顔してるよ?」
「ううん、なんでもない・・」
「こんな時間まで学校に残って何してたの?」
「もうそろそろテストが近いから図書館で勉強してたのよ」
「うわぁ気合い入ってるー。和葉ちゃんもしかして一番狙ってるー」
冗談交じりの口調で明日香は返す。
「違うよー」
和葉は手を振って精一杯の笑みを作り、明日香に合わせた。いつもは明日香の明るさに満ちた喋りが場を楽しくさせるのに今は逆にその明るさが和葉を振りまわし余計に疲れを感じさせた。
何考えてるんだろう私・・・・
和葉は目を瞑り唇を噛んだ。
「そうだ」
明日香は机の中を探りノートを取り出し両手で縦にして和葉の前に出した。
「和葉ちゃん、ごめん。貸してくれたノートにコーヒーこぼしちゃって汚くしちゃった」
ぼうっとしていた頭が明日香の言葉を理解するのに数秒かかった。
「嘘っ・・」
和葉は明日香からノートを掴みぺらぺらとめくった。10枚以上のページがふにゃけて固まっており数枚は文字が読めなくなっている。
「ごめんっ・・」
和葉は黙った。
腹立たしさのあまり言葉が出ない。そもそもノートを貸すこと自体和葉はあまり良くは思っていなかった。明日香は授業を真面目に聞かないで寝てばっかりいる。和葉だってけっして勉強が楽しいとは思っていない。それでも学生の本分はしっかりと務めないと心掛けて授業を聞き、ノートを取っているのだ。学生の本分を怠るどころか、人の大事なノートを駄目にするとは一体どういう神経を明日香はしているというのだろうか。
時々、明日香の身勝手さが許せなくなる。
「和葉ちゃん怒ってる?」
「当たり前じゃない、酷いよ明日香ちゃん・・」
「だからゴメンって・・」
明日香は謝ってはいるが、また同じことを繰り返すにきまっている。本田エミリといい明日香といい身勝手な人ばかりじゃない。
「もういい」
和葉はぷいっと顔を背けるとノートを鞄にしまい教室を出ようとした。
「待ってよ和葉ちゃん」
「なに?」
わざと冷たく声を出した。それくらいしないと明日香は気持ちに気付かない。
「そこまで冷たい態度取らなくてもいいじゃない、あたしだって悪気があったわけじゃないんだよ」
何を言うのかと思えば逆に明日香が怒るなんて。
もう完全に頭にきた。
「嫌味な態度なんか取ってないわよ。それに明日香ちゃんが悪いんじゃない!」
「だから謝ってるでしょ!」
「そんなの謝ったうちに入らないもん!」
「いじわる!!」
「いじわるは明日香ちゃんのほう!!」
「だから、謝ってるでしょ。しつこいよ和葉ちゃん!」
明日香に何を言っても無駄だ。身勝手なんだから人の気持ちなんて分かってくれない。
「もう知らないから!!」
「あたしだって知らない!!」
二人が顔を背けた。明日香と会話を交したのはそれが最後になる。
振りかえってみれば喧嘩した理由はたわいもないことだ。明日香にだって良い面もあるし、悪い面もある。自分にだって同じことだ。明日香を身勝手といったがあの時は明日香を一方的に悪く扱い自分だって身勝手なのだ。
明日香とまた楽しく話したい。もし、口喧嘩が明日香と最後に交した会話になったら悔やんでも悔やみ切れない。
明日香の口からうぅっとうめき声が漏れた。意識を失ったまま苦しんでいる明日香の姿を間近で見てなんて酷いことをされたのだと改めて思った。
夏希は明日香は平気で和葉を裏切るといった。彼女に明日香の何が分かるというのだ。明日香は人を裏切るような人間じゃないことくらい和葉は中学の時から学校を供にしているから充分に分かっている。
今までだったら怯えて声も出なかったかもしれないけど、どうしても許せなくて試合を申し込んだ。
私・・少しは強くなれたかな・・
和葉は自分自身に問いかける。答えなど和葉の口から出せるはずもない。気休めでもいいから誰かに安心を与えて欲しかった。
溢れ出る様々な感情を噛み締めるだけでも辛い。
目を覚ましてよ明日香。じゃないと明日香に謝ることだってできないよ。
「ちょっとでも寝た方がいいよ。時間が来たらあたし起こすから・・」
亜莉栖の言葉に和葉は現実に引き戻され、亜莉栖の顔を慌てて見た。亜莉栖は前を向いたまま和葉に視線を合わないようにしている。
「和葉が寝ている間に試合の対策を考えとくから・・」
「亜莉栖・・」
顔を合わせないのは恥ずかしいから。なにげなくかけられた亜莉栖の言葉は思いやりに溢れていた。一体となって亜莉栖も協力してくれる。眠っているときに見張りをしてくれるだけでなく自分の代わりに試合の対策まで練ってくれるのだ。亜莉栖も和葉の考えを分かってくれたのだと思うと嬉しくて顔に笑みが零れた。
今だって一人じゃない。明日香以外にも頼れる仲間がいるじゃないか。なんで亜利栖に頼ろうとしなかったのだろうかと和葉は自分の過ちを責めた。
嬉しさに包まれながら御言葉に甘えて和葉は目を瞑る。
勝たなきゃ・・・。
その言葉を心の中で繰り返し唱えているうちに和葉は寝息を立てて眠りに入った。
第25話
世界が揺れていた。薄く開けられた視界から歪む人間の体が映る。
誰?
胸をさらけ出し鼻先からそばかすの広がっている顔は亜莉栖だ。
「時間だよ和葉」
世界が揺れているわけではなく、自分が揺らされているのだと和葉は気付きうんと声を絞り出し亜莉栖を止めた。
和葉は目をこすりながら体を起こした。
「目覚めた?」
「うん・・」
まだ少し頭がぼうっとしていた。
「亜莉栖お願いがあるんだけど」
「なに?」
「顔を張ってくれないかな。まだ目が覚めないみたいなの。このままじゃ」
言い終わらないうちからぱしんと頬に衝撃が走った。和葉は思わず左の頬に両手を当てた。
そこまで力込めなくても・・・。
でもおかげで目が覚めた。
「試合開始まで5分。これから作戦教えるけど時間ないから集中して聞いて」
「作戦見つけられたの!」
亜利栖はうんと答えるとすぐに話の続きを始めた。
「やっかいなのが・・相手の反則だよね」
和葉は頷く。夏希の実力はそれほどではない。林檎の方が数段実力は上だろう。やっかいなのは反則だけであり、ただそれがとても厄介なのだ。
「考えたんだけど、反則ってレフェリーに見つかったらまずいじゃない。反則負けになることだって十分あるんだし。だから・・反則はピンチに立たされないと使わないと思うよ。しかも、ばれないように一発で決めたいはず。だと仮定したら、反則がばれなくてかつ当てやすい時って連打で攻め立てられている時だよね。現に明日香の時はそうだったわけだし、確実に決めたい夏希にとっては明日香戦をならって同じケースで打ってくる可能性が一番高いと思う。間違いないってわけじゃないけど・・可能性としては大きいんだから反則がくるってある程度予測できたら避けられると思うけど・・どうかな・・?」
夏希の気まぐれでどうにも変わってしまう穴だらけの推理だが、それでも勝利への突破口の糸口が見えてきた気になれた。
「ある程度打つ時が予測できるだけですごく助かるよ」
「それでね、あと、目に親指入れようとするんだから、ストレートっぽい軌道になるでしょ。接近していたらフックを打つべきなのにストレート。しかも、確実に目を入れるためにスピードを緩めないといけない。ここまで材料が揃ったら十分避けられるよ。しかも、避けるといっても目を瞑るだけで十分。ちょっとは痛いだろうけど、反撃でもっと痛いパンチをお見舞いすればもう目潰しはできなくなるよ」
「そこまで考えてくれたんだ・・」
自分のために反則対策を細かいところまで練ってくれた亜莉栖に感激で和葉は胸が一杯になった。
和葉は心の中で決めた。夏希をパンチの連打で絶対に追い詰める。そして、反則に出てきたところを逆に利用してとどめの一撃を入れるんだ。
「こんなところだけど・・なにか質問ある?」
和葉は首を横に振った。
「あと2分。準備した方がいいよ」
「あっいけないっ」
和葉は慌ててボクシンググローブを両手にはめた。
リング上にはすでに夏希が青コーナーに待機していた。両肘をロープの上に乗せているその姿は和葉の目にとても強そうな相手に映る。
“負けられない“
自分に言い聞かして和葉は立ち上がった。
リングの中に入り、自分がはめるマウスピースを除いて全てのマウスピースをレフェリーに渡した。
賭ける数は2個と確認を取った。
電光掲示板に和葉の総マウスピース数4個、夏希の総マウスピース2個、この試合に賭けるマウスピース数2個と文字が掲示される。
明日香が夏希と闘ったリングでそして明日香の陣営だった赤コーナーを和葉は背にし、キャンバスの上に足を付けた。そこはちょうど明日香がノックアウトされた場でもある。下には一つの大きな赤い染みとその他にも斑点上に赤い染みがいくつも残されている。和葉は明日香がノックアウトされた凄惨な光景を思い出さずにはいられなかった。
でも、足はなんとかすくまないでいてくれている。和葉を支えているのは夏希に対する許せないという憎しみの感情だ。和葉のこれまでの人生の中で憎いと思うことは少ないながらも何度かあった。本田エミリなどの人の心を平気で傷つける人間などにである。それでも、殴ってやりたいと攻撃的な発想にまで及ぶことなどけっしてなかった。暴力が非日常の和葉にとっては相手に天罰が当たって欲しいと神頼みが精一杯であった。それが今では夏希を殴り倒したいと望んでいる。
和葉の心の中で膨らむ夏希を倒して明日香の仇を討ちたいという思い。それと同時に明日香のように失神してもなお殴られ続けて瀕死の状況に陥るのではないかという恐怖もなお消えずに強く残り闘争心と恐怖心の二つが和葉の心の中で交錯している。
レフェリーに呼ばれ、和葉と夏希はリング中央へと向かった。対峙すると、一段と気持ちが高ぶり和葉は夏希の顔を睨みつけた。唇を強く尖らせて結び、目を上目遣いにすると自然と眉間に皺が寄った。
夏希は顎を上げ、視線を上へと反らしている。
怖気づいたの?それとも、申し訳ない気持ちで目も合わせられなくなったの?
レフェリーのルール確認が終わろうとした時、夏希が頭を元に戻し、睨みつけてきた。思わず和葉は怯んでしまった。それを見た夏希は小馬鹿にしたように笑みを浮かべる。
和葉の頬がみるみるうちに赤く染まる。
悔しさ以上に恥ずかしさにたまらない気持ちになった。
やっぱり、私は弱いままなの・・
弱気の虫が顔を覗かせる。
大丈夫、私、2連勝しているんだから強くなってるよ。
自信を持たないとと自分に言い聞かせる。
青コーナーで亜利栖が口にマウスピースをはめてくれた。これで闘いの準備は出来上がる。
ゴングが鳴り、和葉は飛び出した。残された体力のことも考えてベストな作戦は速攻だと考え至っていた。
夏希の元まで駆け足で近づくと足を止めてパンチを当てた。そこから、体力が持つ限りパンチを振り回していく。
一発、二発、三発。
立て続けに振り回しのフックが夏希の顔面を捕らえた。不意を突かれて呆然としている夏希の表情。畳み掛けられるかという期待が生まれようとした瞬間、和葉の頬に衝撃がぶち込まれた。
ズドオォッ!
「ぶほおぉっ!!
和葉の口から唾液が漏れていく。攻勢に立てるのではないかという期待が和葉の心を緩ませていた。予期していなかった一撃に、そしてカウンターで返されたことに耐えられず、目が回った。
グシャアッ!
「あうぅっ!!
追撃の右ストレートが和葉の鼻を潰す。つんと突き刺す痛みに思わず鼻に手をやってしまった。その隙を見逃さず夏希が攻め立てた
しかも、クレバーにも鼻へのピンポイントブロー
一発、二発
そして、三発目の右ストレートで鼻は拉げて血が噴き出た。
ブシュウッ!
赤い霧状となって飛び散る鼻血が目の前で煌びやかな光を放っているのを呆然とした表情で和葉は見つめていた。
そこへダメ押しでさらに右ストレートを鼻に打たれ、出血はますます酷くなった。
本能がそうさせているかのように和葉は攻撃の姿勢から一転して弱々しく亀のように体を丸めた。
ガードの上からパンチの衝撃が降り注がれてくる。早くも劣勢に立たされ、和葉は相手の顔も見ることができないくらいにガチガチに自分の顔を両腕で固める。
こんなはずじゃなかったのに・・
早くおさまってと思うものの和葉の気持ちを嘲笑うかのようにパンチの雨は一向に止まない。ガードしてても両腕は痛みに襲われる
ドボオォッ!
「ぶおぉぉっ!!
和葉が目を大きく見開かせると同時に口も苦しそうに開いた。夏希のパンチがボディにめり込まれている。
グシャアッ!
今度は顔面に右ストレートを浴びた。夏希は上下にパンチを打ち分けていくよう攻め方を変えてきている。
反撃に出ないと・・
パンチの連打が激しいために、中々割り込む機会が見出せない。
でも、このままじゃ・・・
意を決して和葉が踏み込む。大振りの左フック。相手は怒涛のラッシュの最中。打ってはいけないタイミングとはまさしくこのことだった。
最悪の反撃は痛恨の結果を和葉にもたらせる。
グワシャアァッ!
「うぼおぉっ!!
夏希のラッシュがようやく止まった。
和葉のパンチは空を切ったというのに・・・・
だからこそ痛恨なのだ。
夏希のパンチはクロスカウンターとなって和葉の頬にめり込んでいる。
第26話
夏希の右のパンチがめり込み、細く尖らされた和葉の口からマウスピースが零れ落ちた。
それと同時に和葉も後ろへばたんと派手に崩れ落ちた。
レフェリーがダウンを宣告し、カウントが数えられる。
仰向けになって倒れた和葉は虚ろな視線を天井に向けたままぴくりともしない。
体へのダメージは相当なものである。しかし、体だけではなく心へのダメージも和葉は負っていた。
成長したのではないかと感じていても実は前と全く変わっていない現実。
強くなりたいと思っても少しも強くなれない現実。
この相手だけにはどうしても勝ちたいと願っても歯が立たない現実。
どうしてこんなにも自分は弱いの?
和葉の中で亜利栖と林檎に続けて勝ち脆弱ながらも積み上げることが出来た自信が瞬く間に崩れ落ちていく。
失望に駆られ気が萎える。
悔しくて涙が出そうだった。
なんで夏希に敵わないの・・・。
負けたくない相手なのに思うようにならない。
和葉は涙目になり、歯を食いしばる。
「ファイブ!」
立たないと・・。
グローブで涙を拭き取り、和葉は立ち上がる。
足も頭もふらふらだ。
試合が再開される。
夏希の右アッパー。
「ぶへえっ!!」
夏希の右フック。
「ぶほおぉっ!!」
夏希の右ストレート。
「ぶうぅっ!!」
もはやどうにもならない。パンチを出しても当たらない。パンチを避けることもできずいいように打たれるがままだ。
ロープに追い込まれると状況はさらに悪化した。夏希のフックの連打が和葉の頭を振り子のように右に左に吹き飛ばす。
痛みが絶えず和葉の体に走る。特に鼻は殴られるたびに骨が折れたのではないかという激痛に襲われた。その鼻腔には血がたまり、呼吸も思うように出来ず苦しい。
このまま殴り続けられたら撲殺されるのではないかという恐怖に駆られた。
怖いよ・・。怖い。どうすればいいの・・・
恐怖に怯える和葉にその場から逃れられる策が沸いた。
そうだ。自分からダウンをすればいいんだ。
もうそれしかないと思った。
パンチをガードすると和葉は自分から足の力を抜き、尻餅を突いた。
和葉の願いのとおり、パンチの雨から解放されることになった。しかも、これで少しは休める。
「スリップだ」
「えっ・・・」
「今のはダウンじゃない。早く立て」
そんな・・・。
ぐずぐずしている和葉の体をレフェリーが両脇に手をやり、無理やり起き上がらせた。
「ダウンしたからといって安心しない方がいい。倒れたということは相手に隙を見せることだからな」
えっ・・どういうこと?
レフェリーの発した言葉の意味がよくわからなかった。
気が動転している和葉の顔面に夏希の右ストレートが飛んでくる。試合はすでに再開されているのだ。
グワシャアッ!!
和葉の顔面には夏希の拳が深々とめり込まれている。力が抜け落ち、両腕がだらりとさがる。
「とどめだ」
夏希は右の拳を裏返しにし、アッパーカットの体勢へ移る。
そこでゴングが鳴った。
悔しがるそぶりを微塵も見せず夏希はコーナーに戻る。
一方で和葉はロープに背中を預けたまま立ち尽くしていた。動くことはおろか、二本の足で自分の体を支えることさえできない。顎が上がり、天を見上げる和葉の視線に黒い髪が映る。亜利栖が助けに来てくれていた。和葉は亜利栖に肩を貸してもらったことでなんとかコーナーまで戻れた。
亜利栖はタオルを鼻に当ててくれた。白いタオルは瞬く間に赤く染まっていく。インターバルの間、和葉はずっとタオルを鼻に当てた。
タオルで覆われている間から赤コーナーで尻餅を付いて座っている夏希の姿が目に入った。顔を上げてレフェリーと会話を交わしている。
どういうことなのだろう?
嫌な予感がしてならなかった。
まるでレフェリーと夏希が共謀しているかのような光景に映る。
すると、レフェリーは身を翻らせて対角線上にこちらにやってくる。夏希同様キャンバスに尻を付けている和葉の前にそびえ立つように足が止まった。
「先ほども言ったが、故意にはダウンする行為が続けば制裁が課せられるだろう。気をつけることだ」
「制裁って?」
レフェリーは答えずに踵を返した。
「反則負けになるということですか?」
レフェリーが足を止める。背を向けたまま低い声を発する。
「このゲームで勝敗が決定するのは、一方が試合続行不可能になった時だけだ」
レフェリーの言葉に和葉は青ざめた。
試合の決着は一方が試合続行になった時だけ・・・・・・
Seven pieces注意事項に書かれていた言葉を和葉は思い出す。
“試合の勝敗は相手をテンカウント以上マットに寝かせた者が勝利者となる。”
これの意味するところは自分の意思でテンカウントを聞くのを望むことは認められない。自分から寝るのではなく、相手に攻撃によってテンカウント以上否応にも寝かされた時のみ敗北が認められるのだ。
つまり、負けたフリは許されない。試合の敗北は、相手の攻撃によって打ちのめされた時だけだ。
その事実は和葉の心をさらに暗くさせた。棄権は許されない。もちろん、マウスピースを二つ渡したらゲームクリアーは程遠いものになるわけで棄権するつもりはないのだけれども、試合から逃げることはできないという事実はとてつもなく重かった。
「時間だよ」
亜利栖の言葉に和葉は力なく頷いた。鼻に当てられていた白いタオルを離すと、鼻血は止まっていた。顔から闘志が消えぼうっとしている和葉の口の中に亜利栖がマウスピースを入れ込む。
第2Rのゴングが鳴る。
自分から負けを選択する逃げの選択を断たれノックアウトされる瞬間がすぐ目の前まで迫っており精神的にも追い詰められている和葉にもはや夏希に立ち向かう気力などなかった。
夏希がラッシュを仕掛け、またも和葉は亀のように体を丸め顔面を両腕で塞いだ。それでもパンチは和葉の顔面に次々とヒットする。
夏希のラッシュに防戦一方。右フックをブロックの上から当てられると両足で踏ん張れずに背中から倒れてしまった。
派手に背中を打ちつけたために和葉は内部に走った衝撃で片目を瞑り、顔をしかめた。
パンチをもらったわけではないからこれもスリップダウン。印象を悪くして制裁を受けるわけにはいかず早く立たなきゃと思い両目を見開くと、和葉の顔が引き攣った。夏希が右腕を振りかざしていた。そのまま和葉のお腹へと打ち下ろす。
和葉の緩やかなお腹に全体重の乗せられた夏希の右拳がぶち込まれた。
ドボオォォッ!!
「ぶおぉぉっ!!」
仰向けに寝ていた和葉の口が先細りに尖りコルクの栓が取れたかのように勢いよくマウスピースを吐き出した。真上へ上がったマウスピースがやがて下降すると和葉の顔に隣に大きな音を立てて大きく弾んだ。キャンバスから三度跳ねるとマウスピースは虚しくその場に止まった。
あまりの痛みに和葉は目をひん剥き舌を出して体がぷるぷると痙攣する。痛みに揺れる和葉のボディにはなおも夏希の右拳が打ち込まれていた。ぐりぐりと腹を抉り和葉をサディスティックに痛めつける。抉られるたびに和葉はあああああっと声を漏らし目からは涙が零れ落ちていく。痛みが絶頂に達した時、和葉の顔は弛緩しきってしまい口からは泡がぶくぶくと吹かれた。
レフェリーが大の字に寝ている和葉の顔を覘く。
「だから、言ったろう。無暗に倒れると制裁を課せられると」
レフェリーの言葉は和葉の耳には届かない。制裁を課すのはレフェリーではなく対戦相手の夏希だったのだと理解することもできず和葉は白目を向き失神していた。
第27話
顔面の皮膚に冷たい液体が伝わり、和葉の目がぱちりと開いた。
顔を触ってみる。肌の感触の前に両腕にボクシングローブがはめられているのだと気付いた。肌の上にグローブを滑らせると液体が伸びていく感触が皮膚に伝わった。液体はさらりとしており、肌にはひんやりとした冷気が伝わる。
どうもそれは水のようだった。
それから次にすることは・・・
はっとして和葉は勢いよく上体を起こした。
周りをきょろきょろと見る。すぐ側にはレフェリーが、赤コーナーには夏希がポストに背をもたせかけ腕組をし片足の踵をキャンバスから浮かせて立っている。見たくない余裕に満ち溢れた姿だ。
状況がよく把握できない。
和葉は途切れている記憶を探る。
自分からキャンバスに倒れたところを夏希に拳を打ち下ろされて・・・それ以降の記憶はないのだからたぶん、気を失った。
それからは・・
「起きたか」
レフェリーの低く重い声が隣から発せられた。和葉はびくっとレフェリーの方に顔を向けた。
「早く立て。試合続行だ」
「試合?私は気を失っていたんじゃ・・」
「そうだ。だから水をかけて無理やり起こした。ダウンしている相手にパンチを当てても有効とは認められない。だが、故意ではないから夏希が咎められることもない」
和葉は言葉が出なかった。
故意ではないって・・。
夏希のパンチは明らかに狙って打ったものだ。あれが故意と認められないのならルールなんてないようなものだ。それとも、故意にダウンした私が悪いっていうの?
ショックにうちひしがれているとふと、レフェリーと夏希が共謀しているのではないかと思った。
途端、レフェリーと夏希がインターバルで話あっていた光景が浮かんできた。レフェリーは和葉にしたのと同様に夏希にも故意にダウンすると制裁が課せられると注意したのだと思っていた。でも、事実はレフェリーが夏希に次に故意にダウンしたら倒れているところにパンチを当ててもかまわないとそそのかしていたのなら・・・
・・・・レフェリーは夏希の側についてしまったのだということになる。
故意にダウンすることはもうできない。ううん、それだけじゃなくて、夏希の反則にだけは目を瞑られることになったらますます不利になってしまう。
あくまで予測にすぎないのにそう思うだけで心がさらに重くなった。
「さあ立て」
ぐずぐずといつまで立っても立ち上がらない和葉の両脇にレフェリーが両手を挟み無理やり起こされた。
両手をファイティングポーズの格好にさせられて鼻がひん曲がりそうな臭いを発散させているマウスピースを無理やり口の中に押し込められた。
「はぐぅっ」
強引に口の中に入れられたためにマウスピースが上手く装着できておらず和葉は右手ではめ込み具合を整えた。上唇が盛り上がっているのが右手からも分かる。歯を守るためだとは分かっていながらもなんでマウスピースを口の中にはめなきゃいけないのと思ってしまった。
そもそも和葉はマウスピースが嫌いだった。口の中がずっと違和感のある状態になり窮屈だし、唾液が染み付くから汚らしいし匂いもたまったものじゃない。特に口から取りだして唾液が糸を引いている時や、マウスピースを吐き出して落ちたものをダウンから立ち上がった際にレフェリーからくわえさせられた時が汚らしいものをくわえていなきゃいけないと思わせられてたまらなく嫌だった。
ばたばたとした足音が響くのに耳がいくと夏希が猛然とダッシュして目の前で距離を詰めていた。顔が青ざめた和葉は背中を丸め顔面を守ろうと両腕を上げた。ガードの上から容赦なく衝撃が落ちてくる。
失神させられた上にそれでもまだ闘わせられていることに和葉は泣きたくてたまらなかった。人目がなかったら感情のたがが外れて泣いているだろう。
しかし、今、目の前には自分を殴り倒そうとしている憎き対戦相手がいる。夏希を倒さなければ自分が倒されてしまうのだとそのへんは和葉も分かっており反撃しなきゃと弱い虫を見せる自分の心を叱咤させた。
なのに、反撃のパンチを出そうすると肝心の両腕が動かなかった。パンチを出せば顔面のガードが甘くなる。一度パンチをもらうと一気に連打を食らってしまうのではないかと悪い方向に考えてしまいどうしても手が出ない。
そうしているうちにがら空きとなったボディに一撃がめり込んだ。
「ぐほおぅっ!!」
和葉は唇を尖らせて死んだ魚のように唇をぱくぱくとさせた。そこはちょうど、失神させられた時にパンチを受けた箇所だった。和葉は鳩尾のあたりに両手を当てた。
両腕のガードのカーテンはあっけなく崩れ落ち、夏希の右ストレートが和葉の顔面を打ち抜いた。夏希の拳で押し潰された和葉の鼻からは血が宙に撒き散った。
たちまち、夏希のパンチの雨がどぼどぼと和葉の体にめり込み、和葉はロープに追いやられる。
なお、夏希の猛攻は続いた。パンチを受ける度和葉の体には四本のロープが食い込む。 四本のロープがリングから和葉を逃げさせない。四本のロープが和葉の体をパンチの的となるように支え、そして、夏希に気持ちよく和葉を殴らせているかのようだ。
夏希の右フック。
和葉の頭が右に飛んだ。
グシャアッ!!
今度は右に。そして、戻ってきたところに、
ドボオォッ!!
右ストレートで顔面を潰された。体ごと仰け反り頭がリングの外まではみ出た上に血がはかなくも散っていく。
殺される。このままじゃ死ぬまで殴られちゃうよ・・・。
逃げ出したかった。
リングの上から逃げて誰もいないところに行きたかった。
しかし、試合を投げ出すことは許されないのだ。
早く試合が終わることを望むのなら立ち上がれられなくなるまで殴られろ。それがSeven piecesの鉄則である。二本の足でリングの上を踏みしめているかぎり殴られる。いつまで続くのかは分からない。その終わりは和葉がキャンバスに沈んだ時である。和葉から闘争心が消えて無くなってしまった以上は・・・
グワシャアッ!!
強烈な右ストレートが和葉の顔面を押し潰した。
和葉の顔が苦痛のあまり緩み口元がしまりなく開いた。両腕がだらりと下がると、前のめりに崩れ落ち和葉の顔は夏希の胸元に埋もれた。
「むぐぅ・・」
和葉はそのまま顔を夏希の胸元に埋めたままでいた。体を夏希にいや、夏希の胸に預けていることで立っていられた。
柔らかくかすかに弾力性の含んだ肌の感触が和葉には温もりとは程遠い気色の悪さを感じた。顔の圧力で潰れた胸の柔らかみがあまりにも生々しかった。
しかし、突き放す気力など今の和葉には持っていやしないのだった。この状態が楽である以上、相手の胸に顔を埋め、顔を制圧されている屈辱的な姿であっても受け入れてしまえている。
パンチの雨から一時だけ解放されることになった。それなのに一時の安らぎも感じることさえできない。
右ストレートを受けてから時間も経ってるのに未だにずきずきとした鼻の疼きが止まらない。痛くてたまらなくて涙が溢れ出てしまう。
激痛に耐えられず和葉の頬に一筋の雫が伝う。
痛い・・痛いよ・・・。
痛い思いしたくないからもう闘いたくなんかない・・・
和葉の中である情景が浮かび上がる。
空が夕焼けに包まれた放課後の帰り道だった。和葉は肩を落とし、顔を下げ気味にしながら歩いている。隣には珠希がいた。
「痛そうだったから・・・」
和葉はぼそっと呟いた。
「ん?」
怪訝な顔で珠希は反応した。
「痛い思いしたくないって思うとどうしても足がすくんじゃって・・」
珠希は怪訝な顔を続ける。ややあって口を丸い形に開けた。
「あー、昨日のことか」
「うん・・」
顔を下げたままの和葉の顔を珠希はじっと見つめる。
「平気で人のこと殴れる女性になるのもどうかだよ」
「でも、昨日だけじゃなくて、普段から怒らせると怖いから人に注意もかけられないし・・」
「怖いねえ・・」
珠希が片目を瞑り頭を掻いた。
「恐れをまだ知ったことがないから立ち向かえる人間と、恐れを知ってるために立ち向かえない人間がいる」
目を明後日の方向に向ける。それでまた戻した。
「似たようなもんだよね。だから、立ち向かえるからって一概にすごいわけじゃないんだ。ホントにすごい人間は一握りなんだよ」
「珠希は恐れを知ってて立ち向かっているの?」
「さあ・・」
両手を上げておどける。
「でもさ、人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれると思うよ」
「私は珠希が傷つけられてても強くなれなかった・・・」
「そりゃあその時あたしがピンチじゃなかったからだ」
珠希が笑う。
つられて和葉の表情も和やかになった。
珠希がピンチになった時頑張ろう。絶対に頑張るんだ。
和葉の首筋がびくんと跳ね上がった。
和葉は夏希の左腕で首根っこの後ろを鷲掴みにされている。
「いい加減にしてよ!」
和葉は夏希の胴に回している両腕に必死になって力を入れる。お互いが歯を食い縛って力の勝負をする。
胴に回していた両腕のロックが外れた。途端、抵抗しきれなくなり、徐々に夏希の胸元から顔が引き剥がされていく。ついには夏希のしてやったりな顔とご対面をする。
和葉の顔が恐怖で引き攣った。
その瞬間、和葉の顔面は潰されていた。強烈だった。和葉の後頭部が左腕で固定された状態でパンチを打たれたのだ。
めり込んでいた拳が引き抜かれると表れた和葉の顔面は目も鼻も潰れ、口がひん曲がっていた。
栓が抜かれたかのように溜まっていた鼻血がブシュウッと噴き上がった。
一発でまたも和葉の体から力が抜け落ち足は内股となって両腕ごと上体がだらりと下がり落ちる。
しかし、首根っこを掴まれているのだから倒れたくても倒れられない。下がった和葉の体は両腕で顔面をもたれ無理やり起こされた。左腕で首根っこが右腕で頬が鷲掴みにされれていた。頬が中にへこみ真ん中に寄った肉の圧力で唇がタコのように尖らされている。右腕が頬から離れ後ろへと引かれた。
和葉の表情は虚ろだ。
私も明日香と同じようになるのか・・。
明日香・・。
明香の顔が浮かんだ。ボコボコに腫れ上がり白目を向いた明日香の顔。なんて酷いことをするの。明日香を必要以上に傷つけた夏希を許せなかった。
“人って大切な人間が傷つけられた時、どんなにも強くなれる“
強くならなきゃ。今がその時だ。
でも、力は入らない。どうすれば・・
夏希の狂的な拳がうなりをあげて襲い掛かる。
瞬間的な閃きはその時沸き起こった。
和葉は右の足を夏希の左足の外側に掛けてその足を引いた。バランスを失った夏希が体重をかける和葉の圧力に耐え切れず和葉の体共々後ろへ崩れ落ちていく。体が宙に浮く中で和葉の右拳が夏希のお腹に据えられる。夏希が下に和葉が上になってキャンバスに倒れた。
「ぶへえっ!!」
背中をキャンバスに打ちつけた音が掻き消されるほどの痛々しげな声が室内に響いた。室内にいた誰もがリングに振り向いてしまうほどの常軌を逸した苦しみの声。
大量の唾液に包まれて煌びやかな光を纏うマウスピースが歪んだ口から糸を引く唾液と共に宙に吹き上がっていく。
マウスピースを吐いたのは夏希であった。苦痛に満ち溢れたその顔は激痛のあまり尖った上唇と下唇の間から舌がはみ出てしまっている。
和葉は仰向けに倒れている夏希の上に乗りかかっていた。体力を消耗しきった和葉の顔は目を瞑っており、弱々しげにはぁはぁと息を漏らす。
お互いがグロッギーとなって苦しみに喘いでいるが、一連の攻防に勝ち試合の流れを引き寄せたのは紛れもなく和葉の方だ。
和葉の右拳は深々と夏希のボディにめり込まれていたのだった。
第28話
歪な形に曲がった夏希の口からは、あああっと苦しみに耐えようとする声が漏れ両端からは唾液が垂れ流れている。
腹に据えている右拳により多くの体重を乗せると、柔らかな肉がさらに押し潰れる感触が伝わり、夏希の口から発せられる声は喉の奥底から絞り出されているような苦しみに悶えるものに変わった。声の大きさに比例するように口から漏れていく唾液の量も増している。
試合が開始されてから初めて優勢な立場に立てている。
夏希を苦しめることができている。
この機を逃しちゃダメだ。ここからもっとダメージを与えて満足に動けないようにしなきゃ。
じゃないといつまた自分がサンドバッグにされるか分からない。
右腕を腹に押し込む力を和葉は緩めずに必死になって力を伝えようとした。上から和葉に圧し掛かられている夏希は抵抗もできず両腕をキャンバスに広げ、されるがままにダメージに苦しんでいる。
もっとと和葉は願いを込めながら力を入れ続ける。
突如、後ろから両肩を掴まれ戸惑いのうちに体を立たされた。
「スリップダウンだ」
まだ両肩を掴まれたままの中、後頭部あたりから発せられたレフェリーの低い声に和葉は瞬間的にびくんと体が震えた。
体がレフェリーに拒否反応を示してしまっている。
硬直している和葉の体をレフェリーが横を素通りし夏希の元に近寄った。
今度は夏希が立たされる番だった。レフェリーはなお苦しみに悶えている夏希の両脇に手をやり、無理やりファイティングポーズを取らせた。
倒れた相手への追撃がなかったことのようにレフェリーはすぐに試合を再開させる。
夏希は立ち尽くしたままだった。顔を歪め呼吸がままならない状態であることが遠目からも分かった。
まだパンチが効いてるのだと判断し、和葉は突進していく。
夏希に近付くと何されるか分からないという警戒が無意識に働き、打ちやすいフックではなく、なるべく遠くから当てられる右ストレートを放った。夏希の顔面にはいとも容易くヒットした。
パンチが当たった。
その事実がどれだけ疲れていてもパンチを打とうという気にさせる。
右ストレート、左ストレート・・・
次々とパンチ突き刺さり、何度となく夏希の顔面を押し潰した。
やがて、距離を詰めてからのフックの連打へと移行する。
ボクシングが素人の和葉にとってストレートよりもフックの方が遥かに窮屈なく打てる。
右フック、左フック、右、左、右・・・・
反撃に転じてから10秒以上、無抵抗な夏希をサンドバッグにした。パンチの滅多打ちを浴びる夏希はブザマな苦悶の声を上げ、不細工な形に顔を歪まされ続けるだけ。対照的に和葉の表情は目を吊り上げて闘争心に満ち溢れていた。絶対に倒すんだという執念が表情から滲み出ている。確実に当たっていくパンチが和葉の気持ちを昂らせているのだ。
夏希をサンドバッグにして殴り続け、ついに会心ともいえる和葉のパンチが夏希の顔面にぶち込まれた。
彼女の顔面から重く鈍い頬の骨が悲鳴を上げる音が弾かれたのだ。
グワシャアァッ!!
「ぶげえぇっ!!」
喉の奥から絞り出た苦痛の声。
パンチの衝撃で無理やり大きく開けられた口から噴き出た大量の唾液が透明な水玉となって宙に煌びやかに消えていく。
魂が抜け落ちたかのように夏希は前のめりに崩れ落ちていく。和葉の胸に顔がぶつかると夏希は形振り構わず両腕で和葉の肩を掴み身を寄せたまま休む。
和葉の体に触れ合ったまま体を休めると同時に荒れた呼吸音を吐き出す夏希の姿を間近で目にし和葉は感じ取った。
夏希には本当にもう余裕なんてないんだ。
自分もこのまま休んでいたいところだったが、チャンスだとばかりにすぐに和葉は両手で突き放した。
よろよろと5、6歩下がったところで夏希は踏み止まる。
また、フックを当てていき、元の状況へと戻った。
夏希の膝ががくがくと笑う。
あと、ちょっと・・。
もう一発フックをぶち込み、夏希がまたも後ろへふらふらと下がる。
夢中になって追いかけパンチを打ちに出る。
とどめのつもりだった。
これでもう夏希だって倒れるはずだ。
頭を垂れ下がったままの夏希はパンチがくることに気づいてない。
右手を後ろに引こうとしたところで垂れたままの夏希の表情がちらりと見えた。
えっ・・・
微かに口元が笑ってた・・・。
亜莉栖の言葉が思い出された。
“反則はピンチに立たされないと使わないと思うよ”
パンチを打っちゃダメ。
絶対にくる。追い詰められた夏希は必ず反則に出てくる。
予感がするとはまさに今この時だと和葉は思った。
夏希の左のパンチが和葉の右目へと向かう。
分かっていてもなかなか避けられるものではなかった。
肝心の時に恐怖に体が縛りつかれたように動かない。
夏希のパンチが当たり小さな音が響く。手応えを感じたのか夏希が顔に笑みを明確に浮かべている。
突き刺した親指を右目から夏希は戻す。その瞬間、和葉は右腕を大きく引き、夏希の表情が一転して驚愕を表すものへと変わった。
ガードしなくたって避けなくたって当たる前に右目を瞑るだけで目つきは防げる。試合前に立てた作戦を和葉は忠実に再現していた。
そして、作戦の仕上げへと移る。
これで決めなきゃ。
渾身の力を込めた右フックを振り放つ。
的ともいうべき夏希の顔面にパンチが当たるかという瞬間、和葉は当たって倒れてと祈っていた。
だが、伝わってこなければならないはずの手応えがいつになっても届かない。
そのままパンチは空転に終わり、和葉は頭の中がパニックに陥った。
嘘でしょ・・・
夏希の姿は目の前から消えていた。
どこ?
瞬間的に大きく膨らんだ不安に耐えられず和葉の目が細まる。和葉の焦燥をあざ笑うかのようにパンチが下から襲い掛かってきていた。
グワシャアッ!!
痛恨のアッパーカットが和葉の顎を打ち抜いた。
「ぶへえっ!!」
大量の血が吹き上がる。赤いシャワーに包まれてマウスピースが舞い上がっていく。それだけじゃない、身を屈めて曲がった膝のバネの力が十分に乗せられた夏希のアッパーカットの強烈な威力に和葉の体までもが宙に浮き上がっていった。
第29話
宙に浮き上がった和葉の体が放物線を描き背中からキャンバスに沈んだ。続けて落ちたマウスピースが三度リング上を跳ね回った。それでマウスピースの動きは完全に止まったが、和葉はなおもぴくぴくと体を小刻みに震わせている。
和葉の両腕はバンザイを作り、それはまるで降伏の姿のようだった。
カウントが進んでいく。
「あががっ・・」
壊れたような息が和葉の口から漏れる。
天井にあるライトがやけに眩しく感じられた。真夏の炎天下に浴びせられる太陽の光のような強さだ。
現実には部屋の中の照明が太陽ほどの光を発してるわけがない。そう錯覚するほど和葉の視界がぼやけていた。
早く起きたい。
でも、大の字を作る両腕両足がまったく動かない。手足がもがれてしまったかのように感覚がなくなっている。
もうダメなのかな・・・・
せめてものあがきで寝返りを打ちうつ伏せに体勢を変えた。
これで少しは体にも力が入る。
それでも立ち上がるのは到底ムリなことのように思えた。もう手足の自由が利かないのだから。
「フォー!!」
カウントが進むごとに敗北が現実のものに感じられてくる。
泣きそうに歯を食いしばりながらキャンバスを見つめた。
キャンバスにひれ伏せられていることがたまらなく悔しい。そして、夏希に負けることがたまらなく悔しかった。
負けちゃう・・
「珠希・・悔しいよ。私すごく悔しいよ!」
和葉は頭を上げるとその勢いでもって下ろしおでこをキャンバスに強く打ち付けた。
また頭を上げてキャンバスにおでこをぶつける。
悔しさのあまりに和葉の気が狂ってしまったのだろうかとその光景を見ている誰もが思った。
自ら頭をキャンバスにぶつけて三度目。その後、さらに驚くべき光景が続いた。
和葉が上体を起こしたのだ。レフェリーにしがみつきなんとか立とうとする。レフェリーも呆然としふりほどこうとはしなかった。
和葉はカウント9で立ち上がる。
リング上にいる和葉、夏希、レフェリーの三者が動かずに固まっている。和葉は疲労のために、夏希とレフェリーは呆然として。
辛うじてレフェリーが試合再開のコールを発した。それでも和葉と夏希は動かずにいる。
「どうして立ち上がれたの・・」
コーナーから夏希がぽつりと言った。
「頭に・・強い衝撃を与えれば・・体の感覚が戻るかもしれないと思ったから・・」
夏希は目を見開いた。ありえないといいたげな表情だ。人間は家電製品じゃないんだからと。
それからまた沈黙が続いた。夏希は意識が違うところにいってるように見られる。
和葉は意識があるのかも分からないとろんとした表情になっている。
夏希の視線が青コーナーへと向かった。ゆっくりと和葉へと移行する。
「君の体を支えているのは執念なの?」
「負けられない・・私一人じゃないもの・・」
和葉はぼつりと呟いた。もうファイティングポーズすら取れずに両腕をだらりと下げその場に立ち尽くしている。
「その中には亜莉栖も入ってるの?」
和葉はこくりと頷く。もはや声を出す力さえ残っていない。
「そう・・」
夏希がダッシュして距離を詰めに行く。
ここでゴングが鳴るもダッシュを止めない。
夏希はかまわず右ストレートを打ち放った。
パンチは和葉の顔面に痛烈にめり込む。
体ごと吹き飛ばされ、和葉は体勢を崩し両腕を広げ倒れおちようかという勢いで後ろへと下がっていく。
青コーナーに体をぶつけた和葉はずり落ちていき、コーナーポストにもたれかかるように尻餅を付かせた。
ゴング後のパンチであり、ダウンとは認められない。当然のように夏希にも注意が与えられず試合はインターバルへと入る。
和葉の倒れた青コーナーはちょうど和葉の陣営だった。移動する必要もなくその場に尻を付けコーナーポストに寄りかかったまま体を休ませる。
「水・・ちょうだい・・」
和葉は顔だけコーナーの後ろに向けた。亜莉栖は返事はおろか顔を合わせようともしない。
「どう・・した・・の・・」
振り絞るように声を出す。亜莉栖から反応がない。
「ねえ・・」
「亜莉栖もう芝居はいいよ。それよりこっちきてあたしのサポートしてくれると助かる」
朦朧としていた意識が夏希の言葉に反応する。
「そうだね。もうこれであたしの役目も終わりだね。じゃあね・・」
亜莉栖が青コーナーを離れていく。足を止めた先は夏希の待っている赤コーナーであった。
悪夢のような光景を目にし和葉の表情が凍り付いた。
たちまち瞼が重くなった。この目で現実を直視するのがこの上なく辛い。
私・・裏切られた・・。
状況をようやく受け入れた和葉の目からは涙がぼろぼろ零れ落ちていく。ボクシンググローブでいくら拭っても止まらない。
一人ぼっちのインターバルが和葉に亜莉栖のセコンドがもはや欠かせないものになっていたと気付かせた。
今はいないどころか夏希のコーナーについている。一人きりの闘いは人を信じると言っていた和葉の方であり、誰も信じないと言っていた夏希がセコンドの恩恵を受けている。
悔しくてたまらなかった。亜莉栖が夏希の口にペットボトルの水を含ませている姿を見てたまらず視線を外した。
第3Rの準備をレフェリーから促される。両腕で体を支えなんとか和葉は立ち上がった。
マウスピースがどこにもなくあたりを見回すとキャンバスの中央に転がったままになっていた。
レフェリーもそのことに気付き拾い上げて和葉の口に、無理やり押し込んでくわえさせた。
ちょうど、夏希も亜莉栖からこちらは優しくマウスピースを口にはめてもらっているところだった。
それを見て和葉はぐすりとしゃくりあげた。
もういやだよ・・ 、なんで闘わなきゃいけないのよ・・
第3Rが開始されると、闘う気力さえ尽きた和葉はすぐさま、夏希のパンチの雨に晒された。
これはボクシングの試合なのか。
そう思わせるほど一方的な滅多打ちだった。
背中がロープに食い込み頭が四方八方へと激しく吹き飛ばされる。両腕はガードどころかだらりと下がり何の役にもたたない。
“きっと平気で裏切るよ。人は皆裏切るようにできているんだ“
彼女の言うとおりのことが今目の前で起きた。
もう誰も信じられないよ・・・
気力が萎み落ち、和葉はなんのために闘っているのかすら分からなくなっていた。
逆に夏希のラッシュはさらに激しさを増していった。
汗、唾液、血、涙あらゆる液体が玉状や霧状になって散っていく。
それらの液体が染み付いたグローブを夏希は何度も和葉の顔面にぶち込む。夏希のパンチはダメージだけでなく屈辱をも味あわせるものになっていた。和葉は汚らしいグローブで顔を殴られ、汚らしい液体を吐き出しているのだから。しかも、グローブの汚れは自分の吐き出した液体によるものなのだ。
夏希はパンチによって和葉を汚すが、和葉はリングを汚すことしかできないでいる。
そして、無数のパンチを浴びた和葉はついには吐き出す液体さえも尽きてしまった。
夏希がラッシュを止め、左手で和葉の顎を掴んだ。だらりと垂れ下がったままの両腕、圧迫されて歪んだ唇と宙を泳ぐ目、体も顔も力が抜け落ちてしまっている。
夏希の左腕によって和葉の体は支えられているといってよかった。しかも、顎を鷲掴みにされ頬の肉が唇へと押し寄せられ顔を不細工に変形させられて眼前の対戦相手に眺められており、これ以上の屈辱はない。
「君を裏切った亜莉栖が悪いわけじゃない。亜莉栖を信じた君が悪いんだよ」
和葉からは何の反応も返ってこない。それでも夏希は続けた。
「亜莉栖だって必死なんだ。だから、和葉が眠っている間にあたしに協力してあげようかって話を持ちかけてきた。マウスピース一個と引き換えにだからあたしにとってはそんなに割の良い話じゃないけど、確実にこの勝負勝ちたかったから亜莉栖の話を受け入れることにした。作戦は全部あたしが考えたよ。亜莉栖の話から和葉の最大の武器はしぶとさだって分かった。しぶとさでこれまでの2試合大逆転で勝ってきた。なら心の支えを壊してしまえばいいんだ。そのためにも亜莉栖の裏切りを効果的に見せつける必要があった。もう気付いてるよね?亜莉栖の反則を避けるための助言が私の勝利を確実にするための罠だったって」
和葉の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。枯れたはずの涙がまだ残っていた。
「だから言ったんだ。人は皆裏切るようにできているって」
最後の言葉を夏希は特に強めに発した。これが言いたかったといわんばかりに。
和葉は何も反論しなかった。ただただ、現実から目を背けたかった。亜莉栖が裏切ったなんて嘘だと。
「一人じゃないよ。和葉ちゃんにはまだ私がいる!」
和葉の背中から聞こえてきた少女の声。
夏希は視線を和葉からその後ろへと向けると唇を歪めた。
和葉は顔を見なくても声の主が誰なのか分かっていた。分かって当然だ。毎日顔を合わせていたかけがえのない親友なのだから。
「明日香ちゃん・・意識が戻ったんだ・・」
「和葉ちゃん、頑張って。まだまだいけるよ!」
「ありがとう」
今度は嬉し涙が零れそうだった。ずっと聞きたかった明日香の声を聞けたのだ。
しかし、まだ私諦めないと続けて言い終えないうちから目を覚まさせられる一発が和葉の腹を襲った。
「うぼぉっ!!」
どうにもならない現実へと引き戻される。
「これで終わりだから」
冷酷に言葉を告げて夏希は左腕を顎から放すと膝を屈め力を溜めこむ。開放された力が右腕に乗り、空を切り裂くパンチが無防備な和葉の顎めがけて伸び上がっていく。
グワシャアッ!!
「ぶうぅぅっ!!」
上へ向けられた顔から血飛沫が吹き上がっていく。そして、またも和葉の体は宙へと浮き上がっていった。前よりも高く浮き上がり、ついには弓なりにしなる体がリングの外へと飛び出ていく。
リングの外に吹き飛ばされた和葉の体が逆さまになったまま空中で止まった。
「いやああああっ!!」
泣き叫ぶような悲鳴を明日香は上げた。
明日香の目の前には両足がロープ最上段に絡まり、逆さになって宙にぶら下がっている和葉の姿があった。
両腕はだらりとぷらぷら垂れ下がり、なによりそれまで見えてなかった和葉の腐ったジャガイモのようにボコボコに腫れ上がった顔面が強烈だった。醜く変貌を遂げていた和葉の顔は白目をひん剥いてしまっており失神しているのだとすぐに悟らせた。下手したら命がなくなってしまっている可能性さえも感じさせる。
上唇が盛り上がり、ゆっくりと口の中からマウスピースがはみ出ていき、零れ落ちた。
鼻からも口からも血がぽたぽた垂れ流れ瞬く間にリングの外の床を赤く染める。
その完膚なきまでに打ちのめされた姿はまるで磔の処刑を受けているかのようであった。
和葉が再びリングの中に戻れるはずなどなかった。
それでも、カウントは数えられる。明日香が和葉の体に触れようとした時、レフェリーから試合が終わるまで触るなと大声で怒鳴られた。
場外カウントでカウントは10を超えて20まで数えられていく。
カウントが数えられる長い間、和葉の凄惨な姿を明日香は眼前で触れることすら許されず顔を真っ青にして眺めるしかなかった。
もう試合の結果などどうでもよかった。和葉の無事を早く確かめたい。それだけを明日香は願い続け、試合は幕が閉じられた。
To be continued・・・・・
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