「Seven pieces」第13話~第19話
2016/08/28 Sun 11:47
「Seven pieces」
第13話~第19話
第13話~第19話
第13話
「今日は何やるのかなあ」
和葉の隣で明日香が呑気に言った。
次の時間は体育で和葉は明日香と供に体育館に向かっているところだ。
明日香は楽しみにしているようだけれども、和葉は憂鬱になっていた。先週はバスケットボールをやり、他の人の足を引っ張ってしまった。体育の授業だというのに文句を言う人達が必ずといって存在する。先週は運悪くそういった人達と同じチームメートになってしまい小言を浴びた。
スポーツをあまり得意としていない和葉だが、特にバスケットのような瞬時の判断を必要とするスポーツが大の苦手だった。
バスケットだけはやりたくなかった。まして、先週と同じチームメートだったと考えると気が重くなりまた休みたくなってしまう。学校自体休んでいる珠希が羨ましかった。
個人競技なら他の人に迷惑かけることもないから助かるんだけど・・。
体育の時間が始まり、皆は集合をかけられた。
体育の美奈子先生はバスケットボールを腰に当てて立っている。
やっぱり、バスケットか・・。
和葉は溜め息を漏らした。
「あなた達には・・・」
その時、和葉は自分の目を疑った。バスケットボールが赤いボクシンググローブに変わったのだ。
「あなた達にはボクシングをしてもらうわ」
えっ・・どういうこと?
なにがなんだかわからなくて隣で座っている明日香に目を向けると明日香はボクシンググローブをはめていた。ちょうど唇の前あたりにナックルの部分を見せて構えている。
明日香はにっこりと笑っていた。
和葉は怖くなって隣の娘に顔を向けた。その娘もボクシンググローブをはめている。その娘もにこにこと。
和葉は何も見たくないと顔を俯かせると自分の両拳にもボクシンググローブがはめてあった。
和葉は息を呑んだ。
「立花さんリングに上がって」
リングって?
周りに目を向けると体育館の真ん中にはいつのまにかリングが置かれてあった。
「どうしたの立花さん?ぐずぐずしてないで早くリングに上がらないと皆待ってるわよ」
和葉はぶるぶると震え首を横に振った。
「あなたの対戦相手はもうリングに上がってるのに仕方のない娘ねえ」
リングに上がっているという対戦相手を見るために恐る恐るリングに目を向けた。そこには明日香が立っていた。
「ねぇ、和葉ちゃん早くやろうよ」
明日香は待ち遠しく言った。
この場から逃げ出したい衝動に駆られた。
どうしようと思い悩んでいるうちにぱちんと指の鳴らされた音が聞こえ、生徒二人が和葉の両腕を掴み強引に立ち上がらせた。イヤァと叫ぼうにも水の中に潜っているかのように体が重く声を全く出せなかった。和葉はリングへ連れて行かれる。抵抗したくてももどかしいほどに体が言うことをきかない。
「ねぇ、ねぇ、起きなよ」
遠くから微かに声が聞えるとそれまで見えていた風景が急に消えた。
「ねぇっ」
声の距離が狭まっている。
「ねぇってば~」
和葉は目を開けた。目の前で少女の顔がアップで映し出された。視界一面を覆うほどにその距離は近かった。
和葉は思わず大声を出した。仰け反ろうにも後ろは壁で二人の距離は接近したままだ。
「あっ起きた」
少女が口を縦に開くと後ろに下がり、胡座をかいて座った。
彼女が裸で胸をさらけ出していることに気付いた。
それで思い出した。裸でボクシングをしなければならない状況にいるのだった。
それまで見ていたものが夢であったことに気付いてもほっとするとすることもできず、和葉は溜め息を漏らした。
時間制限があったことを思い出して慌てて携帯電話を取り出すと幸運にも眠りにつく前から40分が経過しているだけだった。
和葉は胸から視線をそらし、少女の顔に移した。細く描かれた眉に化粧もしっかりとされている。
彼女の顔をじっくりと見て和葉はおやっと思った。彼女は和葉が試合をしていた最中に亜莉栖と揉めていた女のこだった。
何の目的でやってきたのだろうかと思うと急に胸の鼓動が速まっていく。
ちらちらと見ていると彼女は片方の頬だけを吊り上げてにやりと笑った。
「さっきから全然起きないんだもん。死んじゃってるかと思ったよ。体を揺さぶろうかと思ったけど、トイレにも監視カメラがあるんだよね。だから盗みもやめといた」
どう返せばいいのかわからず黙っていると少女はまたも喋り始めた。
「ねぇねぇ、マウスピース何個あるの?」
「3個」
「凄いじゃん」
と彼女は返した。だが、緊張感なく笑っている目元は少しもそう思っているように感じさせない。実際、思っていないにきまっている。
「ねぇ、あたしと試合やんない?」
どうしようかと和葉は悩んだ。
まだ、頭がぼうっとしていて正確な判断が出来そうにない。
「起きたばっかりだからもう少し休みたい」
「じゃあ5分上げるからじっくり考えなよ。あたし、外に出てるから」
と言って彼女は立ち上がった。和葉はまたもおやっと思った。彼女は返事も待たずに外へ出た。
彼女が出ていくと困ったなと和葉は思った。
亜莉栖の敵討ちというつもりなのだろうか?
それで、亜莉栖のことを思い出した。
彼女は一体どうしているのだろう。
何度ももうダメだと思った亜莉栖との死闘。右拳を痛めていたからこそ、和葉でも勝てたのだ。
そう、亜莉栖に勝ったのは和葉の実力ではなかった。運が良かった、それだけなのだ。実力も精神力も到底彼女には及ばない。
運動神経の鈍いあたしが運さえ巡ってこなければボクシングで勝てるはずないんだ・・。
本当はもうボクシングなんてしたくない。殴られたくなんてないし、殴りたくもない。
・・・・・でも、ボクシングをしないことには人生が終わっちゃう。
またも溜め息が漏れた。
夢も現実もさほど変わらないではないか。どちらにしろ、ボクシングなんて絶対にやりたくなんかないのだ。
ボクシングの試合をしないでマウスピースを七つにする方法はないのかなぁと甘い考えが浮かんだ。
そういえばと、マウスピースが三つちゃんとあるのか確かめるために主催者側から渡された袋を開けた。
その中には携帯電話、衣服など貴重品も入れてある。
マウスピースが無事三つあった。そのうち二つは血に塗れており、服やら小説を汚していた。
和葉は小説を取り出した。
小説を手にして眺めているだけで珠希の顔が思い浮かんでくる。
"ゲームなんかよりよっぽど面白い"
そう言って貸してくれた珠希の思いやりに溢れた大事な小説。
────温かい。とっても温かいよ。
涙が瞳に溢れ頬を伝った。拭ってもまた瞳から溢れて出ていく。
珠希の思いやりを今この場になってようやく身に染みて思うことができた。
左腕で目元に溜まっていた涙を拭い下唇を強く噛み締めた。
泣き言なんて言ってられない。マウスピース七つ集めてこの場を出なきゃ。
ティッシュで小説に付いている血の汚れを噴いた。
小説を洗面台に置くと次にマウスピースを取り出して水で洗った。最後に自分の顔を水で洗う。
全ての準備が済み、和葉は亜莉栖と揉めていた彼女と闘うべきなのかそのことについて考えることにした。
第14話
まずは試合を申し込んできた彼女とその彼女と揉めていた亜莉栖の関係を考えた。
知り合いであることは間違いないけど、仲が良さそうにはとても見えなかった。むしろ、犬猿の仲といったところに近そうだ。それなのに亜莉栖がピンチの時にはアドバイスも送っていた。
微妙な関係にありそうだけど、敵討ちという線ではなさそうに思えた。彼女からは緊張の欠片も感じられなかったからだ。
そもそも、人生を左右する緊迫した状況にいるのにあの余裕はどこからくるのだろう?
それだけ自分の強さに自信があるということなの?それなら絶対に対戦を避けなければならい相手になる。
それに彼女はコギャルといえる外見をしていた。夏希との話し合いではコギャルは避けるべき相手として確認しあっていた。
この点からも闘うべき相手とはいえない。
けれど、一つだけ判断を迷わせる点があった。彼女が立ち上がった時に気付いたのだけど、身長がかなり低かったのだ。見た限りでは145前後といった程度だった。和葉の身長は157センチである。ボクシングは階級制のスポーツであり体格も重要な要素であることを和葉はすっかり忘れていた。
となれば、実は態度だけであって彼女は弱いのではないだろうか?
彼女の顔にはいくつか痣が出来ていた。特に目の下は幾分紫色に変わっている。
だからといって彼女が弱いと言い切れる材料はなかった。顔の痣にしても別人に近い腫れ上がりを見せている和葉に比べればないに等しいものだ。
もっと弱い相手は探せばきっといるはずだ。その娘と試合をした方が勝ち上がれる可能性はぐんと高くなる。
でも────和葉は思った。
弱い娘と闘って勝とうなんて軟弱な精神じゃこのゲームは勝ち上がれない。
和葉は亜莉栖と闘ってそれを嫌っていうほどに実感していた。
絶対に勝ち抜く決意を保ちつづけるためにもここは彼女との試合を受けるべきだ。
和葉は両頬を掌で叩き、気合いを入れて立ち上がった。
トイレを出ると扉の横で壁に彼女はよりかかっていた。
「試合を受けます」
「オッケ~」
「でも、賭ける数は2つです」
はたして、受けてくれるだろうかと思った。彼女がマウスピースを4つ保持なら2つでは承諾しないはず。3つ保持ならおそらく大丈夫だ。
「別にいいよっ。交渉成立ってことでリングに行こっか」
彼女はあっさり了承し和葉はいささか拍子抜けした。
彼女は立ち上がりリングへ向かう。和葉も後を付いた。歩くたびに体のあちこちが痛んだ。
これで果たして勝つことができるのかという不安が脳裏をよぎった。
和葉は首を振った。
いけない、弱気になっちゃ。
丁度タイミング良くリングが一つだけあいてあった。ゲームスタート時では考えられなかったことだ。ざっと見渡すかぎり人数も半分近くまで減っている。
その中で夏希の姿を見つけ和葉はホッとした。一緒に勝ち上がろうと約束したんだ。そのためにもあたしも頑張らなきゃと和葉は自らを奮い立たせた。
リングに上がった。
電光掲示板に表示された林檎のマウスピースの数を見て和葉は眉を持ち上げた。
五つとなっている。
ということは、普通に賭けて闘っているのなら2戦2勝ということになる。
ひょっとしたら林檎は相当な実力じゃないかと思うと急に不安になった。
またも和葉は首を振った。
すぐに弱音を吐いちゃう。自分を変えないと、今度こそ試合に負けてしまう。
こうなったら気力で勝負するしかないと和葉は思った。
─────先手必勝でいこう。
「立花和葉対上原林檎の試合を始める」
ゴングが鳴らされると同時に和葉はダッシュして相手の元に向かっていった。
顔面めがけて右ストレート。
だが、目の前から敵は消えていた。
「小さいからって舐めてたでしょ」
声は下からだった。声に反応し、下を向いた瞬間に和葉の顔面は潰された。
グシャァァッ!!
「ぶへぇっ!!」
林檎の右腕がしなるように伸び上がった。和葉の顔が天上に向けさせられると血がいくつものラインを作り、噴き上がる。素人とは思えない芸術的なアッパーカットに和葉は鼻と口から血を吐き出していた。
マウスピースも噴き上がる。血と同調するかのように高く飛んでいく。
和葉は後ろへばたりと倒れた。
すでに蓄積されたダメージもある。両手を上げてキャンバスに寝ている和葉は林檎のアッパーカット一発でグロッギーとなってしまっていた。
第15話
なんとか立ち上がれはした。けれど、早くも足がふらふらしている。
焦っちゃダメ。
自分に言い聞かして和葉はじっくりと近付いていった。
林檎は試合前とは違い、真剣な表情に変わっていた。癖なのか閉じられた唇が尖りながら僅かに右に吊り上がっている。
林檎はただでさ低い背を少し丸めているために的がかなり小さく感じられた。
────気力で行くんだ。
先の試合で学んだ経験を和葉は活かそうと先に先にパンチを打って出た。
当たれ!当たれ!
気迫を拳に込める意味でも心の中で和葉は叫んだ。けれど、パンチは当たらない。
的が小さいということもあるが、それ以上に彼女の動きはすばっしこい。俊敏なディフェンスに和葉は動揺を隠せなかった。
「シュッ!!」
林檎の声と同時に和葉の体は後ろへ仰け反っていた。鼻っ面がひりひりと痛み、涙が滲み出た。
ロープに背中が当たり、和葉はダウンをこらえることができた。視線を前に戻すと、なんともうすぐ目の前に林檎が準備を整えていた。
それは最悪なことにパンチを打つ準備なのだ。
ドボォォッ!!ドボォォッ!!
林檎のパンチが右から左から放たれ和葉の頭を吹き飛ばしていく。
林檎のパンチがまったく見えない。
見えない恐怖が和葉を襲う。
その恐怖に耐え切れず和葉はパンチを打って林檎の体を離そうとした。
林檎は後ろに下がり、楽々距離を取った。
距離が開いたとほっとしたのも束の間、林檎が大きくステップして和葉はパンチを顔面にぶちこまれた。
「ぶふぅっ!!」
醜悪な表情をみせる和葉の口から唾液が吹き出た。
またも、林檎の連打が開始された。
それは和葉の体を弄んでいるかのようだ。
和葉の体に次々とパンチがめり込んでいく。
運動神経が良くなりたいよ・・・・・。
滅多打ちを食らい朦朧とした意識の中で和葉は二人の間にある才能の差というものを悔しいくらいに痛感し、そんなことを思っていた。
小学生の頃、何度も願っていたことだ。それは長い間忘れ掛けていた感情でもある。
自分には適わぬことだとっくに諦めていたからだ。
小学生の頃から和葉は運動会で惨めな体験しか味わった記憶が無い。
徒競走ではいつもビリを争っていた。運動会で主役となるのはリレーに出る生徒で和葉は彼等が走る姿を羨望の眼差しで見ていた。
運動音痴だから、仕方ないよね。
そう自分に言い聞かせていた。
生まれもって運動神経に優れている娘にはどう足掻いてもスポーツで敵うはずがない。
林檎はきっと小学校の頃からリレーの選手に必ず選ばれてきた生徒なのだ。
────林檎はスポーツで主役になる側の人間で私は邪険な扱いをされる側の人間。私がどう足掻いても敵うはずがない。
和葉は心さえも林檎の前に屈服しつつあった。そんな和葉にぶつけられる林檎のラッシュはさらに凄みを増していた。
とても素人とは思えないほどに右に左に下からと多彩なパンチを放っていた。
華麗なパンチに和葉の体が踊る。血飛沫を上げて踊らされる。
リングの上に血が霧状になって噴き上がっている。
やがて、不細工な踊りが止まった。
ボディの一撃が腹にめり込んだまま和葉は硬直していた。
「ぶえぇっ!!」
口元から唾液が垂れ流れ、和葉はたまらず前へ倒れ落ちていった。
だが、追い打ちで放たれたアッパーカットが和葉の顔面を襲う。
グシャァァッ!!
和葉の体が後ろへ吹き飛ばされ、ダウンを許されなかった。
ロープに振られまた前へ沈み落ちていくところを林檎は再度、拳を突き上げて体を持ち上げた。
林檎が放つパンチは身長が低いためにアッパーだけでなくフックもストレートも下から上がり気味になっていた。そのために全てのパンチが下から突き上げられ、さらには小さな体が和葉の体を下から支える役目をも果たし和葉は倒れたくても倒れることができないのだ。
パンチを受ける度銀色と赤色の液体が和葉の顔面から飛び散っていく。
赤い凶弾が止められたのはゴングが鳴り響いてだった。その時になってようやく林檎がパンチをわざとらしく和葉の顔の目の前でぴたりと止めたのだ。拳を突き出したままにたっと得意の笑みを浮かべている。
和葉は背中が丸まり、両腕がだらりと下げられている。
顔面はボコボコに腫れ上がり、ぷくっと盛り上がった瞼と頬は紫に変色してしまっている。鼻孔からは血が止めど無く流れ落ち、瞳は何も映していない。
和葉の口からはマウスピースの先端がはみ出ていた。顔を殴られた衝撃で口の中でマウスピースが揉みくちゃにされた末に90度回転してしまったのだ。これでは御菓子のカールを無理やりに口に咥えさせられているかのようだ。
「ぶっ」
和葉の頬が膨らんだ。顔色が青くなり、瞳が上を向いている。
「ぶはぁぁっ!!」
銀色の液体が煌びやかな光となって飛び散った。銀色の液体に包まれてマウスピースがキャンバスに落ちた。
和葉はマウスピースを吐き出したことで魂が抜けた落ちたかのように顔面からキャンバスに沈んだ。
右頬と膝がキャンバスに付けられその代わりに尻が突き上げられていた。それで両腕は下がっているのだから和葉のダウンしている姿はまるで芋虫のようで不恰好といわざるをえない。
レフェリーは和葉が倒れているのにも関わらず容態を伺う様子も見ることもせずにリング中央に立っている。
和葉を介抱するセコンドなどいるはずもなくキャンバスに沈んだままインターバルが続く。
レフェリーがリング中央で、そして、林檎は赤コーナーのコーナーポストに背中を預けて次のRに備えていた。セコンドや観客がいるわけでもなくリング上の空気は冷え切っていた。
その冷え切った空間の中で和葉だけはキャンバスに顔を埋め放置されている。
第2R開始を告げるゴングが鳴り、コーナーを林檎が出ていく。
だが、和葉はキャンバスの上でのされたままだ。
「ダウン!」
レフェリーが林檎の体を掌を見せて制した。
「ワンッ!ツーッ!」
和葉は依然として尺取虫のような格好であった。右頬をキャンバスに張り付かせて、ダメージを象徴するかのように唇が尖ったまま引き攣っていた。
こ・・壊されちゃうよ・・・
ぼんやりと意識だけはあった。
1分間のインターバル、そして、レフェリーのカウントで意識を回復できた。カウントを数えられているとボクシングをしているのだと痛感した。それが皮肉にも和葉の脳裏に地獄のような光景を浮かび上がらせた。
第1Rで体が屈服してもなお、殴り続けられた。
倒れたいのにそれでもダメージがえんえんと体に刻み込まれていく。途中からは恐怖が心を覆い尽くし、最後は意識が飛んだことでやっと恐怖から解放された。
ダウンすら許さない彼女と闘っては壊されるまで殴られてしまうことになる。
和葉の脳裏を棄権のニ文字がよぎった。
このままテンカウント数えられるのを待っていれば試合は終了となる。この試合に負けてもマウスピースは1つ残りゲームが終わるというわけではない。
体が動かなくなるまで殴られるのならいっそのこと棄権した方が得策じゃないかと和葉は思った。
ばすんばすんと拳を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
殴る気に満ちた林檎の姿を和葉は想像した。
和葉の前で何度となくパンチを打ちこんでいく姿。
和葉は目を瞑った。
────もうイヤ。ボクシングなんてイヤだ。
その時、左側から人の気配を感じた。
気のせいかと思いながら振り向くと和葉は目を見開いた。
そこには亜莉栖が立っていたのだった。
第16話
亜莉栖から向けられる和葉に厳しい視線に狸寝入りしていることを責めているかのような感覚を和葉は受けた。
亜莉栖は右手を壊してなお闘い続けた。失神するまで闘い続けた。
それに比べて私はまだ闘えるのに試合から逃げ出そうとしている・・・・
彼女の勇敢なファイトと思い比べて自分が情けなくなってきた。
和葉は右腕を伸ばしロープを掴んだ。両腕をロープに絡ませて体を立たせようと足掻く。
「ばっかねぇ、そのまま寝てればいいのに」
パンチ!パンチ!パンチ!パンチの雨が和葉の顔面めがけ飛んでくる。その全てが和葉の顔面に打ち込まれた。
右のフックが和葉の頬にめり込むと、口から唾液が弾け飛んだ。だらりと両腕の下がった和葉の体がくるりと翻って崩れ落ちると勢い余ってうつ伏せにリングの上を滑っていった。
林檎は和葉を無視し、下段のロープに片足を上段のロープに両腕を乗せ、林檎に話し掛けた。
「なにしきたの?」
「あたしはもうあんたと闘える体じゃない。だから、残った一つのマウスピースを和葉に賭けてもいい?負けたらあなたに上げるよ、あたしが勝ったらあなたのマウスピースを一つもらえる?」
林檎はにやけた。
「面白いこというね。和葉はもう虫の息っていうのに勝てると思える?まっあたしは別に構わないけどさ。でも、それって許されるの、ねぇレフェリーさん?」
と言って林檎はレフェリーに顔を向けた。
「本来試合以外でのマウスピース交換は禁止だ。といっても当事者間の合意さえあれば黙認することになっている。その方が観ている側も面白いとまあそういう暗黙のルールがあるわけだ」
話しながらレフェリーがにたりと笑った。
「立花和葉が了承すれば問題はない。その場合はマウスピースを一時的に立花和葉に貸す形になり、闘っている両者のマウスピースの賭けた数が一つ増えることになる」
「ってことはあとは」
林檎が下に視線を向けた。大の字で這い付くばっているボロ雑巾。身動き一つしないところを見ると和葉の耳には届いてないようだ。
「そこのボロ雑巾次第だけど、もう無理なんじゃないのこれじゃ。レフェリーカウント続けてよ」
「スリー!フォー!」
カウントに反応するように和葉はキャンバスを這いつくばって進みロープを掴んだ。
和葉はカウント9で立ち上がれた。
「賭けは次のRからスタートでしょ。まだ、この娘同意してないし」
亜莉栖はこくりと頷いた。
「わかった。でも、あの娘がこのR持つと思う?」
林檎はくすりと笑いながら言い残して身を翻した。
試合が再開されると林檎は左のジャブを連続して放った。速射砲のように連打で放ち、右に左に吹き飛ばして和葉の顔面を弄んだ。右のパンチを出せばすぐに倒れるというのに林檎からは全く出す気配が見えない。それはわざと加減しているかのように目の前の玩具にジャブだけを当て、すでに原型をとどめていない顔をより醜くさせていることを楽しんでいるかのようだ。
このRで和葉を倒すことをほのめかしておきながらも実のところ林檎は次のRで賭けを行なう気に満ちていたのだ。それも賭けをしないで和葉に勝つだけでゲームクリアーに必要なマウスピース7つは集まるというのに。
左のパンチが当たるたびに小石をぶつけれているかのごとく硬い音が和葉の顔面からは発せられている。次のRで賭けを成立させるためだけに今、和葉は生かされているといってよかった。
林檎が和葉を弄んで第2Rが終わった。
ふらふらとしながらもコーナーへ戻ろうとした和葉はコーナーの少し手前で力尽き前に崩れ落ちた。
「立花和葉」
亜莉栖の声に反応し、和葉は顔を持ち上げた。
「御願いがあるの・・」
「な・・なに・・」
和葉は声を振り絞って出した。
「あたしのマウスピース、残った一つをあなたに預けたいんだけど、ダメかな・・・。それであたしの分まで闘ってあたしの仇をあなたに打って欲しいの・・・」
「か・・仇?ぎ・・逆じゃないの?だってあなたに勝ったのは私だよ」
「ううん、そのずっと前のこと。あたし、学校でずっと苛められてたんだ・・・。そのグループには林檎もいた。あいつは参加したことなんてなくて、苛められているあたしをずっと見つめていただけだった。なんでだか、ずっと分からなかった。それが試合が終わったあとにあいつが近寄ってきたから問い詰めてやっと分かった。楽しいから。それだけだよって彼女はのほほんと言いやがった。参加するより見ている方が楽しい。あたしに送ったアドバイスもあそこで終わるより試合が続いた方が楽しい。それだけのことだったんだ」
話しているうちにトーンの低かった亜莉栖の声はだいぶ荒ぶっていた。
少し間を空け、「馬鹿にしてる」と悔しさを噛み締めるように亜莉栖は言った。
亜莉栖の告白を和葉は心の高鳴りを感じながら聞いていた。聞いているうちに段々と許せない、と強く思うようになった。林檎への恐怖以上に許せない気持ちが強まっていく。
──────許せない。
「あなたのマウスピースを預けるっていうのは?」
「あなたの賭けているマウスピースにあたしのマウスピースを一つ上乗せしてもらって、林檎もマウスピースをもう一つ追加して賭けるの。あなたに被害はないよ」
心の中でそんなことはないと和葉は首を振った。もし自分が負けてマウスピースを取られたら自分が不甲斐ないために亜莉栖はゲーム失格になる。普通ならそんな役請け負いたくはないと断るのだったけれど、でも、亜莉栖の話を聞いて林檎に絶対に勝ちたいと思った。人生楽しいだけじゃない、辛いことの方が多くて、それでも頑張って生きているんだ。それなのに楽しいからって人の人生を弄んだりしてあざけ笑ってるなんて絶対に許せなかった。
「負けたらマウスピースゼロ個になるんだよ」
和葉は確認した。
「覚悟してる」
「わかった。私、あなたの分まで闘うよ」
「本当っ」
沈んだ喋り方をしていた亜莉栖が初めて弾んだ声を出した。
「本当よ。絶対に勝つんだから」
第17話
「ぶえぇぇっ!!」
ボディに赤いグローブで覆われた鉄拳がめり込んでいる。和葉の口からはどばどばと唾液が止めど無く溢れ出ていた。
右、左、右、左とパンチを当てていく。
「あうっ!!あうっ!!」
サンドバッグ。
とどめはアッパーカットだった。赤い弾丸が下から和葉の顎を抉り和葉の口から血飛沫を噴き上がらせた。和葉は背中からキャンバスに崩れ落ち、大の字になった。
ぼうっとした頭にカウントが耳に届く。
手も体も鉛がはめられているかのように重く自由が利かない。
「可哀相・・・相手になってないじゃない」
誰か女のこの声だった。林檎でも亜莉栖でもない聞き覚えのない声。その娘は試合の合間に休みがてら見ているのだろう。
その野次馬の娘の言葉を受け止めると胸が締め付けられる思いになった。
何故、スポーツしてて可哀相なんて言われなきゃいけないの?
私は真面目にやってるじゃない。それなのに、可哀相って・・・
ぼやけた視界に辛い思い出が浮かぶ。
いつのもように華麗なドリブルでディフェンスを一人、二人と抜いてジャンピングシュートを入れた。きゃっきゃっとパスを出した娘と二人で喜び合う。同じチームになった和葉は邪魔してはいけないとボールの遠くにいつもいた。和葉がミスするたびに溜め息をつき、小言を言っていたチームの柱、藍子も和葉がゲームに絡まなくなったことで何も言わなくなった。ゲームに参加しなくて面白いはずなかったけど、それでも小言を言われるよりかは百倍マシだと思った。
「藍子、可哀相じゃない。和葉にもパス回して上げなよ」
B組が誇るバスケット部の有望株藍子に向かって言ったのは委員長の横山さんだった。彼女は勉強の方はもちろん、スポーツもそこそこできる方で藍子の足を引っ張らない程度にゲームをしていた。時々、和葉にボールを回す委員長らしい気配りももっている。それは和葉にとって嬉しかったことだけれども、ボールを受けるたびに和葉は慌てて誰かにパスを渡していたのだった。
その委員長の注意にどうなるかとひやひやしたものの藍子はむすっとした表情で和葉をじっと見つめ「はいっ」とボールを投げた。
久し振りにバスケットボールを手に取り和葉は困った。ぐずぐすしているうちに相手側の娘の出した手でボールを弾かれあっさりと奪われてしまった。
「ほらっ和葉じゃすぐに取られるじゃない」
「可哀相でしょ。そんなこと言っちゃ。和葉だって真剣なんだから」
和葉は惨めな思いにたまらず首を傾けた。
可哀相だなんて言われるくらいならボールを渡されないでいる方がよっぽどましだよ。
彼女は何も分かっていない。余計なお節介なんてしてもらいたくない。惨めになるだけだっていうことをどうして彼女は分からないの?
「ねえそうでしょ立花さん?」
何も分かってない委員長は和葉に優しい声で同意を求めてきた。
「うん・・・」
自分の意志を押し殺し委員長に同意している自分が情けなかった。
全てはバスケットボールができない私に原因があるんだ。人並でもいいからバスケットボールができたらと和葉は切に願った。
強くなりたい。
────スポーツで惨めな思いはもう十分だよ
和葉は立ち上がった。カウントは9だ。
ドボッ!!ドボォッ!!
血飛沫を上げてふらふら後退した。
ドボォッ!!ドボォォッ!!
でも、彼女にどうやったら・・・・勝てるっていうの?
身長?身長が低いと不利?どこがそうなのよ・・・?
小刻みに回転していく連打が和葉の顔面を襲った。
「あぶぅっ!!ぶぶぅっ!!」
和葉の頭は唾液を撒き散らしながら起き上がりこぼしのように右に左にふられる。
・・・・長さだ・・
「ぶつぶつと煩せえよ!!」
林檎の一撃で無力な和葉は真っ赤な血を吹き上げた。
「あぶぅぅっ!!」
体が吹き飛ばされ、ロープに振られ戻ってきたところを林檎が追い打ちをかけに来た。
グワシャァァッ!!
凄まじい打撃音が響いた。拳のめり込まれた顔面から血の雨がキャンバスに降り注いでいく。
ロープの反動でパンチの威力が増すことになった。そして、右のパンチと右のパンチのカウンターになり、さらにパンチの威力は数段上がった。
数倍の威力に膨れ上がったカウンターパンチは林檎の顔面にぶち込まれていた。
第18話
高さじゃなく、長さだ。身長が高いということは腕の長さでも勝っているのだから林檎のパンチが届かない場所から打てば良かったのだ。でも、普通にパンチを打ってもかわされてその隙に近付かれてしまう。そのためにも彼女の虚をついて間合いの外からパンチを打つ必要があった。だから、わざとロープに振られた。ロープに振られて反撃できるのか、それは一つの賭けだったが、和葉はその賭けに勝った。ロープに振られ間合いの外から林檎の顔面にパンチをぶちこんだのだ。しかも、ロープに振られた威力も加わった。ロープの反動、カウンターまで考えていなかった和葉にとっては嬉しい誤算であった。
カウントが数えられる中、和葉はふらふらとよろめきながらもコーナーへ戻った。その時にはカウントが4まで進んでいた。振り返るとダウン時と変わらぬ仰向けに大の字の状態で林檎はキャンバスに這いつくばっている。
ダウンを奪っていることが信じられなかった。それまで一方的に和葉を攻め続けていたあの林檎が倒れているのだ。頬をつねって現実か確認してしまいたくなってしまう。
奇跡でもいいからそのまま立ち上がらないでと和葉は両拳を合わせ祈った。
だが、カウントは止まる。
閉じていた目を開けると林檎は立ち上がっていた。
目が斜めに釣り上がった林檎の顔を見て和葉はたじろいだ。ごくりと唾を呑む音がやけに大きく聞えた。
ううん、恐れてちゃいけないよ。
和葉は首を振った。慎重に足を進め、和葉はパンチの射程距離に入った。その間合いは林檎のパンチが届かない距離、すなわち和葉にとってセーフティーゾーンである。今までなら林檎が警戒なステップで間合いを外されるか、一気に近付かれていたが、なぜか今は林檎は睨みをきかせその場に立ち尽くしているだけだ。
何を考えているのだろうかとどきどきしながら林檎の動向を伺っていた。だが、埒が明かないと和葉は左ジャブを放った。それはガードされたが、林檎は足元をふらつかせバランスを崩した。
和葉に一つの思いが巡る。それは林檎が足が動かないほどのダメージを負っているのではないかということだった。
和葉の推測は当たることになる。和葉は左右のパンチを何度も繰り出したが、林檎は亀のようにガード固めて凌ぐだけだ。もはや兎のような華麗なステップは微塵もなく、その丸まった様は亀である。
和葉は林檎の体めがけラッシュを仕掛けた。林檎の間合いの外からちくちくと刺すようにストレートを放った。
2発、3発、4発。
意外にも林檎のガードはもろく、ガードを突き抜けてパンチが当たった。足元がふらつき、パンチが当たるたびに首がぐらぐら揺れ、後退していった。
だが、距離を詰めようとする和葉のステップもふらふらと不安定であった。ふらついて歩きながら和葉はパンチを林檎の顔面に打ち込んだ。そして、林檎はまたしても下がっていく。ふらふらしながら闘う二人の姿はまるで酔っ払いの喧嘩のようだ。
ついに和葉はロープに林檎を追い詰めた。パンチの当たらない距離を見極め林檎の体にパンチを打ち続けた。
ドガァッ!!バギィッ!!グシャッ!!
抵抗はなかった。
林檎はもうサンドバッグでしかない。和葉を震え上がらせた恐ろしい強さは消え失せている。
それでも、無我夢中でパンチを放っていた。
お返しとか仇とかそんな思いはもっていなかった。ただ早く試合を終わらせたい、それだけを願いパンチを打ち続けた。
苦悶の声が漏れる。
血飛沫が舞う。
彼女の顔が苦痛に歪んでいるのが嘘のようだ。彼女の顔がどんどん醜く変形しているのが嘘のようだ。
和葉はなおパンチを出し続けていく。
気が付くと林檎はキャンバスに倒れていた。
カウントが数えられていく。
林檎はうつ伏せで倒れたままぴくりとも動かず立ち上がる気配は全然見えなかった。キャンバスに埋もれた林檎の顔面からは血が広がっている。
テンカウントが唱えられ試合終了のゴングが響いた。あっという間の逆転劇に和葉は拍子抜けした。和葉はまだぴくりとも動かない林檎を見下ろした。林檎はバンザイをして顔をキャンバスに埋もれたまま、ぴくぴくと体が波打っていた。
これが恐怖を植え付けるほどの強さを誇った彼女なの・・・
敗者の姿はどれも儚げだ。彼女の場合強すぎたために余計そう感じさせるものがある。
憎い相手だったはずなのに見てて可哀相に思えてきた。
和葉は俯いた。
レフェリーが近寄り、望みもしないのに和葉の右腕を上げた。その間、和葉は俯いたまま目を瞑った。
スポーツなんて・・やっぱり嫌いだよ・・
和葉の呟きは誰にも響きはしない。
第19話
リングの外へ向かおうとした時に和葉は足がもつれ前へ倒れた。
もう体が限界だった。
このまま目を瞑っていたらまた眠ってしまいそうなほどに気持ちが良い。
でも、今ここで眠るわけにはいかない。
立たなきゃと力を入れてももう体が言うことを利かない。
目の前に手が見えた。
顔を上げると亜莉栖がしゃがんで手を伸ばしている。和葉も手を伸ばすと亜莉栖が和葉の腕を掴み持ち上げてくれた。それだけではなく亜莉栖は和葉の体を支えてくれ和葉は体を起こすことができた。
「ありがとう」
「ううん・・これは御礼だから・・」
亜莉栖に肩を貸してもらいリングを降りた。
「隅っこで休もう」
亜莉栖の言葉に和葉はうんと頷いた。
部屋の隅に到り着くと壁に寄り掛かるにようにして和葉は腰を下ろした。それから、和葉はグローブをはずし、口からマウスピースも取りはずした。銀色の液体がマウスピースに絡み付きどこまでも糸を引いた。左手で糸を切り、顎についた唾液を拭うと、左手から臭い匂いが鼻にまとわりついてきた。とっさに左手を引き、亜莉栖から見えないように隠した。
和葉は頬を赤く染めた。自分の体が臭くなっていることに気付き、急に恥ずかしくなったのだ。
はめていたマウスピースを袋に入れると、なるべく汚れていないマウスピースを取り出した。
「はいこれっ」
マウスピースを亜莉栖に与えた。
「ありがとう」
「ううん、亜莉栖の・・亜莉栖って呼んでいい?」
「うん」
「亜莉栖のおかげで頑張れたようなもんだから気にしないで」
和葉は亜莉栖の右手を見た。
「右手大丈夫?」
「分かんない・・前より痛みは引いてきてるけど治ったわけじゃないし・・」
「これからどうするの?」
「時間はまだあるし・・・もう少しすれば痛みもましになるかもしれないしとにかく今は待つことが重要だと思う。それよりも・・」
亜莉栖が和葉の体に目を向けた。
「和葉の体もやばそうだよ」
「時間が経てば少しは回復すると思うし、私も暫く休むよ。あと1試合で7つ集められるしたぶん・・大丈夫だと思う」
和葉は室内の置き時計を見た。
残り時間は2時間40分。残っている選手はあと15人程度でだいぶ少なくなっている。4つあるリングも今は1つしか使われていない。その試合が行われているリング上に目を向けた。
「嘘っ・・」
和葉は目を疑った。
一緒に帰ろうと誓った夏希がサンドバッグになっている。
そして、夏希を一方的に殴っているのは────
明日香だ。
To be continued・・・・
「今日は何やるのかなあ」
和葉の隣で明日香が呑気に言った。
次の時間は体育で和葉は明日香と供に体育館に向かっているところだ。
明日香は楽しみにしているようだけれども、和葉は憂鬱になっていた。先週はバスケットボールをやり、他の人の足を引っ張ってしまった。体育の授業だというのに文句を言う人達が必ずといって存在する。先週は運悪くそういった人達と同じチームメートになってしまい小言を浴びた。
スポーツをあまり得意としていない和葉だが、特にバスケットのような瞬時の判断を必要とするスポーツが大の苦手だった。
バスケットだけはやりたくなかった。まして、先週と同じチームメートだったと考えると気が重くなりまた休みたくなってしまう。学校自体休んでいる珠希が羨ましかった。
個人競技なら他の人に迷惑かけることもないから助かるんだけど・・。
体育の時間が始まり、皆は集合をかけられた。
体育の美奈子先生はバスケットボールを腰に当てて立っている。
やっぱり、バスケットか・・。
和葉は溜め息を漏らした。
「あなた達には・・・」
その時、和葉は自分の目を疑った。バスケットボールが赤いボクシンググローブに変わったのだ。
「あなた達にはボクシングをしてもらうわ」
えっ・・どういうこと?
なにがなんだかわからなくて隣で座っている明日香に目を向けると明日香はボクシンググローブをはめていた。ちょうど唇の前あたりにナックルの部分を見せて構えている。
明日香はにっこりと笑っていた。
和葉は怖くなって隣の娘に顔を向けた。その娘もボクシンググローブをはめている。その娘もにこにこと。
和葉は何も見たくないと顔を俯かせると自分の両拳にもボクシンググローブがはめてあった。
和葉は息を呑んだ。
「立花さんリングに上がって」
リングって?
周りに目を向けると体育館の真ん中にはいつのまにかリングが置かれてあった。
「どうしたの立花さん?ぐずぐずしてないで早くリングに上がらないと皆待ってるわよ」
和葉はぶるぶると震え首を横に振った。
「あなたの対戦相手はもうリングに上がってるのに仕方のない娘ねえ」
リングに上がっているという対戦相手を見るために恐る恐るリングに目を向けた。そこには明日香が立っていた。
「ねぇ、和葉ちゃん早くやろうよ」
明日香は待ち遠しく言った。
この場から逃げ出したい衝動に駆られた。
どうしようと思い悩んでいるうちにぱちんと指の鳴らされた音が聞こえ、生徒二人が和葉の両腕を掴み強引に立ち上がらせた。イヤァと叫ぼうにも水の中に潜っているかのように体が重く声を全く出せなかった。和葉はリングへ連れて行かれる。抵抗したくてももどかしいほどに体が言うことをきかない。
「ねぇ、ねぇ、起きなよ」
遠くから微かに声が聞えるとそれまで見えていた風景が急に消えた。
「ねぇっ」
声の距離が狭まっている。
「ねぇってば~」
和葉は目を開けた。目の前で少女の顔がアップで映し出された。視界一面を覆うほどにその距離は近かった。
和葉は思わず大声を出した。仰け反ろうにも後ろは壁で二人の距離は接近したままだ。
「あっ起きた」
少女が口を縦に開くと後ろに下がり、胡座をかいて座った。
彼女が裸で胸をさらけ出していることに気付いた。
それで思い出した。裸でボクシングをしなければならない状況にいるのだった。
それまで見ていたものが夢であったことに気付いてもほっとするとすることもできず、和葉は溜め息を漏らした。
時間制限があったことを思い出して慌てて携帯電話を取り出すと幸運にも眠りにつく前から40分が経過しているだけだった。
和葉は胸から視線をそらし、少女の顔に移した。細く描かれた眉に化粧もしっかりとされている。
彼女の顔をじっくりと見て和葉はおやっと思った。彼女は和葉が試合をしていた最中に亜莉栖と揉めていた女のこだった。
何の目的でやってきたのだろうかと思うと急に胸の鼓動が速まっていく。
ちらちらと見ていると彼女は片方の頬だけを吊り上げてにやりと笑った。
「さっきから全然起きないんだもん。死んじゃってるかと思ったよ。体を揺さぶろうかと思ったけど、トイレにも監視カメラがあるんだよね。だから盗みもやめといた」
どう返せばいいのかわからず黙っていると少女はまたも喋り始めた。
「ねぇねぇ、マウスピース何個あるの?」
「3個」
「凄いじゃん」
と彼女は返した。だが、緊張感なく笑っている目元は少しもそう思っているように感じさせない。実際、思っていないにきまっている。
「ねぇ、あたしと試合やんない?」
どうしようかと和葉は悩んだ。
まだ、頭がぼうっとしていて正確な判断が出来そうにない。
「起きたばっかりだからもう少し休みたい」
「じゃあ5分上げるからじっくり考えなよ。あたし、外に出てるから」
と言って彼女は立ち上がった。和葉はまたもおやっと思った。彼女は返事も待たずに外へ出た。
彼女が出ていくと困ったなと和葉は思った。
亜莉栖の敵討ちというつもりなのだろうか?
それで、亜莉栖のことを思い出した。
彼女は一体どうしているのだろう。
何度ももうダメだと思った亜莉栖との死闘。右拳を痛めていたからこそ、和葉でも勝てたのだ。
そう、亜莉栖に勝ったのは和葉の実力ではなかった。運が良かった、それだけなのだ。実力も精神力も到底彼女には及ばない。
運動神経の鈍いあたしが運さえ巡ってこなければボクシングで勝てるはずないんだ・・。
本当はもうボクシングなんてしたくない。殴られたくなんてないし、殴りたくもない。
・・・・・でも、ボクシングをしないことには人生が終わっちゃう。
またも溜め息が漏れた。
夢も現実もさほど変わらないではないか。どちらにしろ、ボクシングなんて絶対にやりたくなんかないのだ。
ボクシングの試合をしないでマウスピースを七つにする方法はないのかなぁと甘い考えが浮かんだ。
そういえばと、マウスピースが三つちゃんとあるのか確かめるために主催者側から渡された袋を開けた。
その中には携帯電話、衣服など貴重品も入れてある。
マウスピースが無事三つあった。そのうち二つは血に塗れており、服やら小説を汚していた。
和葉は小説を取り出した。
小説を手にして眺めているだけで珠希の顔が思い浮かんでくる。
"ゲームなんかよりよっぽど面白い"
そう言って貸してくれた珠希の思いやりに溢れた大事な小説。
────温かい。とっても温かいよ。
涙が瞳に溢れ頬を伝った。拭ってもまた瞳から溢れて出ていく。
珠希の思いやりを今この場になってようやく身に染みて思うことができた。
左腕で目元に溜まっていた涙を拭い下唇を強く噛み締めた。
泣き言なんて言ってられない。マウスピース七つ集めてこの場を出なきゃ。
ティッシュで小説に付いている血の汚れを噴いた。
小説を洗面台に置くと次にマウスピースを取り出して水で洗った。最後に自分の顔を水で洗う。
全ての準備が済み、和葉は亜莉栖と揉めていた彼女と闘うべきなのかそのことについて考えることにした。
第14話
まずは試合を申し込んできた彼女とその彼女と揉めていた亜莉栖の関係を考えた。
知り合いであることは間違いないけど、仲が良さそうにはとても見えなかった。むしろ、犬猿の仲といったところに近そうだ。それなのに亜莉栖がピンチの時にはアドバイスも送っていた。
微妙な関係にありそうだけど、敵討ちという線ではなさそうに思えた。彼女からは緊張の欠片も感じられなかったからだ。
そもそも、人生を左右する緊迫した状況にいるのにあの余裕はどこからくるのだろう?
それだけ自分の強さに自信があるということなの?それなら絶対に対戦を避けなければならい相手になる。
それに彼女はコギャルといえる外見をしていた。夏希との話し合いではコギャルは避けるべき相手として確認しあっていた。
この点からも闘うべき相手とはいえない。
けれど、一つだけ判断を迷わせる点があった。彼女が立ち上がった時に気付いたのだけど、身長がかなり低かったのだ。見た限りでは145前後といった程度だった。和葉の身長は157センチである。ボクシングは階級制のスポーツであり体格も重要な要素であることを和葉はすっかり忘れていた。
となれば、実は態度だけであって彼女は弱いのではないだろうか?
彼女の顔にはいくつか痣が出来ていた。特に目の下は幾分紫色に変わっている。
だからといって彼女が弱いと言い切れる材料はなかった。顔の痣にしても別人に近い腫れ上がりを見せている和葉に比べればないに等しいものだ。
もっと弱い相手は探せばきっといるはずだ。その娘と試合をした方が勝ち上がれる可能性はぐんと高くなる。
でも────和葉は思った。
弱い娘と闘って勝とうなんて軟弱な精神じゃこのゲームは勝ち上がれない。
和葉は亜莉栖と闘ってそれを嫌っていうほどに実感していた。
絶対に勝ち抜く決意を保ちつづけるためにもここは彼女との試合を受けるべきだ。
和葉は両頬を掌で叩き、気合いを入れて立ち上がった。
トイレを出ると扉の横で壁に彼女はよりかかっていた。
「試合を受けます」
「オッケ~」
「でも、賭ける数は2つです」
はたして、受けてくれるだろうかと思った。彼女がマウスピースを4つ保持なら2つでは承諾しないはず。3つ保持ならおそらく大丈夫だ。
「別にいいよっ。交渉成立ってことでリングに行こっか」
彼女はあっさり了承し和葉はいささか拍子抜けした。
彼女は立ち上がりリングへ向かう。和葉も後を付いた。歩くたびに体のあちこちが痛んだ。
これで果たして勝つことができるのかという不安が脳裏をよぎった。
和葉は首を振った。
いけない、弱気になっちゃ。
丁度タイミング良くリングが一つだけあいてあった。ゲームスタート時では考えられなかったことだ。ざっと見渡すかぎり人数も半分近くまで減っている。
その中で夏希の姿を見つけ和葉はホッとした。一緒に勝ち上がろうと約束したんだ。そのためにもあたしも頑張らなきゃと和葉は自らを奮い立たせた。
リングに上がった。
電光掲示板に表示された林檎のマウスピースの数を見て和葉は眉を持ち上げた。
五つとなっている。
ということは、普通に賭けて闘っているのなら2戦2勝ということになる。
ひょっとしたら林檎は相当な実力じゃないかと思うと急に不安になった。
またも和葉は首を振った。
すぐに弱音を吐いちゃう。自分を変えないと、今度こそ試合に負けてしまう。
こうなったら気力で勝負するしかないと和葉は思った。
─────先手必勝でいこう。
「立花和葉対上原林檎の試合を始める」
ゴングが鳴らされると同時に和葉はダッシュして相手の元に向かっていった。
顔面めがけて右ストレート。
だが、目の前から敵は消えていた。
「小さいからって舐めてたでしょ」
声は下からだった。声に反応し、下を向いた瞬間に和葉の顔面は潰された。
グシャァァッ!!
「ぶへぇっ!!」
林檎の右腕がしなるように伸び上がった。和葉の顔が天上に向けさせられると血がいくつものラインを作り、噴き上がる。素人とは思えない芸術的なアッパーカットに和葉は鼻と口から血を吐き出していた。
マウスピースも噴き上がる。血と同調するかのように高く飛んでいく。
和葉は後ろへばたりと倒れた。
すでに蓄積されたダメージもある。両手を上げてキャンバスに寝ている和葉は林檎のアッパーカット一発でグロッギーとなってしまっていた。
第15話
なんとか立ち上がれはした。けれど、早くも足がふらふらしている。
焦っちゃダメ。
自分に言い聞かして和葉はじっくりと近付いていった。
林檎は試合前とは違い、真剣な表情に変わっていた。癖なのか閉じられた唇が尖りながら僅かに右に吊り上がっている。
林檎はただでさ低い背を少し丸めているために的がかなり小さく感じられた。
────気力で行くんだ。
先の試合で学んだ経験を和葉は活かそうと先に先にパンチを打って出た。
当たれ!当たれ!
気迫を拳に込める意味でも心の中で和葉は叫んだ。けれど、パンチは当たらない。
的が小さいということもあるが、それ以上に彼女の動きはすばっしこい。俊敏なディフェンスに和葉は動揺を隠せなかった。
「シュッ!!」
林檎の声と同時に和葉の体は後ろへ仰け反っていた。鼻っ面がひりひりと痛み、涙が滲み出た。
ロープに背中が当たり、和葉はダウンをこらえることができた。視線を前に戻すと、なんともうすぐ目の前に林檎が準備を整えていた。
それは最悪なことにパンチを打つ準備なのだ。
ドボォォッ!!ドボォォッ!!
林檎のパンチが右から左から放たれ和葉の頭を吹き飛ばしていく。
林檎のパンチがまったく見えない。
見えない恐怖が和葉を襲う。
その恐怖に耐え切れず和葉はパンチを打って林檎の体を離そうとした。
林檎は後ろに下がり、楽々距離を取った。
距離が開いたとほっとしたのも束の間、林檎が大きくステップして和葉はパンチを顔面にぶちこまれた。
「ぶふぅっ!!」
醜悪な表情をみせる和葉の口から唾液が吹き出た。
またも、林檎の連打が開始された。
それは和葉の体を弄んでいるかのようだ。
和葉の体に次々とパンチがめり込んでいく。
運動神経が良くなりたいよ・・・・・。
滅多打ちを食らい朦朧とした意識の中で和葉は二人の間にある才能の差というものを悔しいくらいに痛感し、そんなことを思っていた。
小学生の頃、何度も願っていたことだ。それは長い間忘れ掛けていた感情でもある。
自分には適わぬことだとっくに諦めていたからだ。
小学生の頃から和葉は運動会で惨めな体験しか味わった記憶が無い。
徒競走ではいつもビリを争っていた。運動会で主役となるのはリレーに出る生徒で和葉は彼等が走る姿を羨望の眼差しで見ていた。
運動音痴だから、仕方ないよね。
そう自分に言い聞かせていた。
生まれもって運動神経に優れている娘にはどう足掻いてもスポーツで敵うはずがない。
林檎はきっと小学校の頃からリレーの選手に必ず選ばれてきた生徒なのだ。
────林檎はスポーツで主役になる側の人間で私は邪険な扱いをされる側の人間。私がどう足掻いても敵うはずがない。
和葉は心さえも林檎の前に屈服しつつあった。そんな和葉にぶつけられる林檎のラッシュはさらに凄みを増していた。
とても素人とは思えないほどに右に左に下からと多彩なパンチを放っていた。
華麗なパンチに和葉の体が踊る。血飛沫を上げて踊らされる。
リングの上に血が霧状になって噴き上がっている。
やがて、不細工な踊りが止まった。
ボディの一撃が腹にめり込んだまま和葉は硬直していた。
「ぶえぇっ!!」
口元から唾液が垂れ流れ、和葉はたまらず前へ倒れ落ちていった。
だが、追い打ちで放たれたアッパーカットが和葉の顔面を襲う。
グシャァァッ!!
和葉の体が後ろへ吹き飛ばされ、ダウンを許されなかった。
ロープに振られまた前へ沈み落ちていくところを林檎は再度、拳を突き上げて体を持ち上げた。
林檎が放つパンチは身長が低いためにアッパーだけでなくフックもストレートも下から上がり気味になっていた。そのために全てのパンチが下から突き上げられ、さらには小さな体が和葉の体を下から支える役目をも果たし和葉は倒れたくても倒れることができないのだ。
パンチを受ける度銀色と赤色の液体が和葉の顔面から飛び散っていく。
赤い凶弾が止められたのはゴングが鳴り響いてだった。その時になってようやく林檎がパンチをわざとらしく和葉の顔の目の前でぴたりと止めたのだ。拳を突き出したままにたっと得意の笑みを浮かべている。
和葉は背中が丸まり、両腕がだらりと下げられている。
顔面はボコボコに腫れ上がり、ぷくっと盛り上がった瞼と頬は紫に変色してしまっている。鼻孔からは血が止めど無く流れ落ち、瞳は何も映していない。
和葉の口からはマウスピースの先端がはみ出ていた。顔を殴られた衝撃で口の中でマウスピースが揉みくちゃにされた末に90度回転してしまったのだ。これでは御菓子のカールを無理やりに口に咥えさせられているかのようだ。
「ぶっ」
和葉の頬が膨らんだ。顔色が青くなり、瞳が上を向いている。
「ぶはぁぁっ!!」
銀色の液体が煌びやかな光となって飛び散った。銀色の液体に包まれてマウスピースがキャンバスに落ちた。
和葉はマウスピースを吐き出したことで魂が抜けた落ちたかのように顔面からキャンバスに沈んだ。
右頬と膝がキャンバスに付けられその代わりに尻が突き上げられていた。それで両腕は下がっているのだから和葉のダウンしている姿はまるで芋虫のようで不恰好といわざるをえない。
レフェリーは和葉が倒れているのにも関わらず容態を伺う様子も見ることもせずにリング中央に立っている。
和葉を介抱するセコンドなどいるはずもなくキャンバスに沈んだままインターバルが続く。
レフェリーがリング中央で、そして、林檎は赤コーナーのコーナーポストに背中を預けて次のRに備えていた。セコンドや観客がいるわけでもなくリング上の空気は冷え切っていた。
その冷え切った空間の中で和葉だけはキャンバスに顔を埋め放置されている。
第2R開始を告げるゴングが鳴り、コーナーを林檎が出ていく。
だが、和葉はキャンバスの上でのされたままだ。
「ダウン!」
レフェリーが林檎の体を掌を見せて制した。
「ワンッ!ツーッ!」
和葉は依然として尺取虫のような格好であった。右頬をキャンバスに張り付かせて、ダメージを象徴するかのように唇が尖ったまま引き攣っていた。
こ・・壊されちゃうよ・・・
ぼんやりと意識だけはあった。
1分間のインターバル、そして、レフェリーのカウントで意識を回復できた。カウントを数えられているとボクシングをしているのだと痛感した。それが皮肉にも和葉の脳裏に地獄のような光景を浮かび上がらせた。
第1Rで体が屈服してもなお、殴り続けられた。
倒れたいのにそれでもダメージがえんえんと体に刻み込まれていく。途中からは恐怖が心を覆い尽くし、最後は意識が飛んだことでやっと恐怖から解放された。
ダウンすら許さない彼女と闘っては壊されるまで殴られてしまうことになる。
和葉の脳裏を棄権のニ文字がよぎった。
このままテンカウント数えられるのを待っていれば試合は終了となる。この試合に負けてもマウスピースは1つ残りゲームが終わるというわけではない。
体が動かなくなるまで殴られるのならいっそのこと棄権した方が得策じゃないかと和葉は思った。
ばすんばすんと拳を打ち鳴らす音が聞こえてくる。
殴る気に満ちた林檎の姿を和葉は想像した。
和葉の前で何度となくパンチを打ちこんでいく姿。
和葉は目を瞑った。
────もうイヤ。ボクシングなんてイヤだ。
その時、左側から人の気配を感じた。
気のせいかと思いながら振り向くと和葉は目を見開いた。
そこには亜莉栖が立っていたのだった。
第16話
亜莉栖から向けられる和葉に厳しい視線に狸寝入りしていることを責めているかのような感覚を和葉は受けた。
亜莉栖は右手を壊してなお闘い続けた。失神するまで闘い続けた。
それに比べて私はまだ闘えるのに試合から逃げ出そうとしている・・・・
彼女の勇敢なファイトと思い比べて自分が情けなくなってきた。
和葉は右腕を伸ばしロープを掴んだ。両腕をロープに絡ませて体を立たせようと足掻く。
「ばっかねぇ、そのまま寝てればいいのに」
パンチ!パンチ!パンチ!パンチの雨が和葉の顔面めがけ飛んでくる。その全てが和葉の顔面に打ち込まれた。
右のフックが和葉の頬にめり込むと、口から唾液が弾け飛んだ。だらりと両腕の下がった和葉の体がくるりと翻って崩れ落ちると勢い余ってうつ伏せにリングの上を滑っていった。
林檎は和葉を無視し、下段のロープに片足を上段のロープに両腕を乗せ、林檎に話し掛けた。
「なにしきたの?」
「あたしはもうあんたと闘える体じゃない。だから、残った一つのマウスピースを和葉に賭けてもいい?負けたらあなたに上げるよ、あたしが勝ったらあなたのマウスピースを一つもらえる?」
林檎はにやけた。
「面白いこというね。和葉はもう虫の息っていうのに勝てると思える?まっあたしは別に構わないけどさ。でも、それって許されるの、ねぇレフェリーさん?」
と言って林檎はレフェリーに顔を向けた。
「本来試合以外でのマウスピース交換は禁止だ。といっても当事者間の合意さえあれば黙認することになっている。その方が観ている側も面白いとまあそういう暗黙のルールがあるわけだ」
話しながらレフェリーがにたりと笑った。
「立花和葉が了承すれば問題はない。その場合はマウスピースを一時的に立花和葉に貸す形になり、闘っている両者のマウスピースの賭けた数が一つ増えることになる」
「ってことはあとは」
林檎が下に視線を向けた。大の字で這い付くばっているボロ雑巾。身動き一つしないところを見ると和葉の耳には届いてないようだ。
「そこのボロ雑巾次第だけど、もう無理なんじゃないのこれじゃ。レフェリーカウント続けてよ」
「スリー!フォー!」
カウントに反応するように和葉はキャンバスを這いつくばって進みロープを掴んだ。
和葉はカウント9で立ち上がれた。
「賭けは次のRからスタートでしょ。まだ、この娘同意してないし」
亜莉栖はこくりと頷いた。
「わかった。でも、あの娘がこのR持つと思う?」
林檎はくすりと笑いながら言い残して身を翻した。
試合が再開されると林檎は左のジャブを連続して放った。速射砲のように連打で放ち、右に左に吹き飛ばして和葉の顔面を弄んだ。右のパンチを出せばすぐに倒れるというのに林檎からは全く出す気配が見えない。それはわざと加減しているかのように目の前の玩具にジャブだけを当て、すでに原型をとどめていない顔をより醜くさせていることを楽しんでいるかのようだ。
このRで和葉を倒すことをほのめかしておきながらも実のところ林檎は次のRで賭けを行なう気に満ちていたのだ。それも賭けをしないで和葉に勝つだけでゲームクリアーに必要なマウスピース7つは集まるというのに。
左のパンチが当たるたびに小石をぶつけれているかのごとく硬い音が和葉の顔面からは発せられている。次のRで賭けを成立させるためだけに今、和葉は生かされているといってよかった。
林檎が和葉を弄んで第2Rが終わった。
ふらふらとしながらもコーナーへ戻ろうとした和葉はコーナーの少し手前で力尽き前に崩れ落ちた。
「立花和葉」
亜莉栖の声に反応し、和葉は顔を持ち上げた。
「御願いがあるの・・」
「な・・なに・・」
和葉は声を振り絞って出した。
「あたしのマウスピース、残った一つをあなたに預けたいんだけど、ダメかな・・・。それであたしの分まで闘ってあたしの仇をあなたに打って欲しいの・・・」
「か・・仇?ぎ・・逆じゃないの?だってあなたに勝ったのは私だよ」
「ううん、そのずっと前のこと。あたし、学校でずっと苛められてたんだ・・・。そのグループには林檎もいた。あいつは参加したことなんてなくて、苛められているあたしをずっと見つめていただけだった。なんでだか、ずっと分からなかった。それが試合が終わったあとにあいつが近寄ってきたから問い詰めてやっと分かった。楽しいから。それだけだよって彼女はのほほんと言いやがった。参加するより見ている方が楽しい。あたしに送ったアドバイスもあそこで終わるより試合が続いた方が楽しい。それだけのことだったんだ」
話しているうちにトーンの低かった亜莉栖の声はだいぶ荒ぶっていた。
少し間を空け、「馬鹿にしてる」と悔しさを噛み締めるように亜莉栖は言った。
亜莉栖の告白を和葉は心の高鳴りを感じながら聞いていた。聞いているうちに段々と許せない、と強く思うようになった。林檎への恐怖以上に許せない気持ちが強まっていく。
──────許せない。
「あなたのマウスピースを預けるっていうのは?」
「あなたの賭けているマウスピースにあたしのマウスピースを一つ上乗せしてもらって、林檎もマウスピースをもう一つ追加して賭けるの。あなたに被害はないよ」
心の中でそんなことはないと和葉は首を振った。もし自分が負けてマウスピースを取られたら自分が不甲斐ないために亜莉栖はゲーム失格になる。普通ならそんな役請け負いたくはないと断るのだったけれど、でも、亜莉栖の話を聞いて林檎に絶対に勝ちたいと思った。人生楽しいだけじゃない、辛いことの方が多くて、それでも頑張って生きているんだ。それなのに楽しいからって人の人生を弄んだりしてあざけ笑ってるなんて絶対に許せなかった。
「負けたらマウスピースゼロ個になるんだよ」
和葉は確認した。
「覚悟してる」
「わかった。私、あなたの分まで闘うよ」
「本当っ」
沈んだ喋り方をしていた亜莉栖が初めて弾んだ声を出した。
「本当よ。絶対に勝つんだから」
第17話
「ぶえぇぇっ!!」
ボディに赤いグローブで覆われた鉄拳がめり込んでいる。和葉の口からはどばどばと唾液が止めど無く溢れ出ていた。
右、左、右、左とパンチを当てていく。
「あうっ!!あうっ!!」
サンドバッグ。
とどめはアッパーカットだった。赤い弾丸が下から和葉の顎を抉り和葉の口から血飛沫を噴き上がらせた。和葉は背中からキャンバスに崩れ落ち、大の字になった。
ぼうっとした頭にカウントが耳に届く。
手も体も鉛がはめられているかのように重く自由が利かない。
「可哀相・・・相手になってないじゃない」
誰か女のこの声だった。林檎でも亜莉栖でもない聞き覚えのない声。その娘は試合の合間に休みがてら見ているのだろう。
その野次馬の娘の言葉を受け止めると胸が締め付けられる思いになった。
何故、スポーツしてて可哀相なんて言われなきゃいけないの?
私は真面目にやってるじゃない。それなのに、可哀相って・・・
ぼやけた視界に辛い思い出が浮かぶ。
いつのもように華麗なドリブルでディフェンスを一人、二人と抜いてジャンピングシュートを入れた。きゃっきゃっとパスを出した娘と二人で喜び合う。同じチームになった和葉は邪魔してはいけないとボールの遠くにいつもいた。和葉がミスするたびに溜め息をつき、小言を言っていたチームの柱、藍子も和葉がゲームに絡まなくなったことで何も言わなくなった。ゲームに参加しなくて面白いはずなかったけど、それでも小言を言われるよりかは百倍マシだと思った。
「藍子、可哀相じゃない。和葉にもパス回して上げなよ」
B組が誇るバスケット部の有望株藍子に向かって言ったのは委員長の横山さんだった。彼女は勉強の方はもちろん、スポーツもそこそこできる方で藍子の足を引っ張らない程度にゲームをしていた。時々、和葉にボールを回す委員長らしい気配りももっている。それは和葉にとって嬉しかったことだけれども、ボールを受けるたびに和葉は慌てて誰かにパスを渡していたのだった。
その委員長の注意にどうなるかとひやひやしたものの藍子はむすっとした表情で和葉をじっと見つめ「はいっ」とボールを投げた。
久し振りにバスケットボールを手に取り和葉は困った。ぐずぐすしているうちに相手側の娘の出した手でボールを弾かれあっさりと奪われてしまった。
「ほらっ和葉じゃすぐに取られるじゃない」
「可哀相でしょ。そんなこと言っちゃ。和葉だって真剣なんだから」
和葉は惨めな思いにたまらず首を傾けた。
可哀相だなんて言われるくらいならボールを渡されないでいる方がよっぽどましだよ。
彼女は何も分かっていない。余計なお節介なんてしてもらいたくない。惨めになるだけだっていうことをどうして彼女は分からないの?
「ねえそうでしょ立花さん?」
何も分かってない委員長は和葉に優しい声で同意を求めてきた。
「うん・・・」
自分の意志を押し殺し委員長に同意している自分が情けなかった。
全てはバスケットボールができない私に原因があるんだ。人並でもいいからバスケットボールができたらと和葉は切に願った。
強くなりたい。
────スポーツで惨めな思いはもう十分だよ
和葉は立ち上がった。カウントは9だ。
ドボッ!!ドボォッ!!
血飛沫を上げてふらふら後退した。
ドボォッ!!ドボォォッ!!
でも、彼女にどうやったら・・・・勝てるっていうの?
身長?身長が低いと不利?どこがそうなのよ・・・?
小刻みに回転していく連打が和葉の顔面を襲った。
「あぶぅっ!!ぶぶぅっ!!」
和葉の頭は唾液を撒き散らしながら起き上がりこぼしのように右に左にふられる。
・・・・長さだ・・
「ぶつぶつと煩せえよ!!」
林檎の一撃で無力な和葉は真っ赤な血を吹き上げた。
「あぶぅぅっ!!」
体が吹き飛ばされ、ロープに振られ戻ってきたところを林檎が追い打ちをかけに来た。
グワシャァァッ!!
凄まじい打撃音が響いた。拳のめり込まれた顔面から血の雨がキャンバスに降り注いでいく。
ロープの反動でパンチの威力が増すことになった。そして、右のパンチと右のパンチのカウンターになり、さらにパンチの威力は数段上がった。
数倍の威力に膨れ上がったカウンターパンチは林檎の顔面にぶち込まれていた。
第18話
高さじゃなく、長さだ。身長が高いということは腕の長さでも勝っているのだから林檎のパンチが届かない場所から打てば良かったのだ。でも、普通にパンチを打ってもかわされてその隙に近付かれてしまう。そのためにも彼女の虚をついて間合いの外からパンチを打つ必要があった。だから、わざとロープに振られた。ロープに振られて反撃できるのか、それは一つの賭けだったが、和葉はその賭けに勝った。ロープに振られ間合いの外から林檎の顔面にパンチをぶちこんだのだ。しかも、ロープに振られた威力も加わった。ロープの反動、カウンターまで考えていなかった和葉にとっては嬉しい誤算であった。
カウントが数えられる中、和葉はふらふらとよろめきながらもコーナーへ戻った。その時にはカウントが4まで進んでいた。振り返るとダウン時と変わらぬ仰向けに大の字の状態で林檎はキャンバスに這いつくばっている。
ダウンを奪っていることが信じられなかった。それまで一方的に和葉を攻め続けていたあの林檎が倒れているのだ。頬をつねって現実か確認してしまいたくなってしまう。
奇跡でもいいからそのまま立ち上がらないでと和葉は両拳を合わせ祈った。
だが、カウントは止まる。
閉じていた目を開けると林檎は立ち上がっていた。
目が斜めに釣り上がった林檎の顔を見て和葉はたじろいだ。ごくりと唾を呑む音がやけに大きく聞えた。
ううん、恐れてちゃいけないよ。
和葉は首を振った。慎重に足を進め、和葉はパンチの射程距離に入った。その間合いは林檎のパンチが届かない距離、すなわち和葉にとってセーフティーゾーンである。今までなら林檎が警戒なステップで間合いを外されるか、一気に近付かれていたが、なぜか今は林檎は睨みをきかせその場に立ち尽くしているだけだ。
何を考えているのだろうかとどきどきしながら林檎の動向を伺っていた。だが、埒が明かないと和葉は左ジャブを放った。それはガードされたが、林檎は足元をふらつかせバランスを崩した。
和葉に一つの思いが巡る。それは林檎が足が動かないほどのダメージを負っているのではないかということだった。
和葉の推測は当たることになる。和葉は左右のパンチを何度も繰り出したが、林檎は亀のようにガード固めて凌ぐだけだ。もはや兎のような華麗なステップは微塵もなく、その丸まった様は亀である。
和葉は林檎の体めがけラッシュを仕掛けた。林檎の間合いの外からちくちくと刺すようにストレートを放った。
2発、3発、4発。
意外にも林檎のガードはもろく、ガードを突き抜けてパンチが当たった。足元がふらつき、パンチが当たるたびに首がぐらぐら揺れ、後退していった。
だが、距離を詰めようとする和葉のステップもふらふらと不安定であった。ふらついて歩きながら和葉はパンチを林檎の顔面に打ち込んだ。そして、林檎はまたしても下がっていく。ふらふらしながら闘う二人の姿はまるで酔っ払いの喧嘩のようだ。
ついに和葉はロープに林檎を追い詰めた。パンチの当たらない距離を見極め林檎の体にパンチを打ち続けた。
ドガァッ!!バギィッ!!グシャッ!!
抵抗はなかった。
林檎はもうサンドバッグでしかない。和葉を震え上がらせた恐ろしい強さは消え失せている。
それでも、無我夢中でパンチを放っていた。
お返しとか仇とかそんな思いはもっていなかった。ただ早く試合を終わらせたい、それだけを願いパンチを打ち続けた。
苦悶の声が漏れる。
血飛沫が舞う。
彼女の顔が苦痛に歪んでいるのが嘘のようだ。彼女の顔がどんどん醜く変形しているのが嘘のようだ。
和葉はなおパンチを出し続けていく。
気が付くと林檎はキャンバスに倒れていた。
カウントが数えられていく。
林檎はうつ伏せで倒れたままぴくりとも動かず立ち上がる気配は全然見えなかった。キャンバスに埋もれた林檎の顔面からは血が広がっている。
テンカウントが唱えられ試合終了のゴングが響いた。あっという間の逆転劇に和葉は拍子抜けした。和葉はまだぴくりとも動かない林檎を見下ろした。林檎はバンザイをして顔をキャンバスに埋もれたまま、ぴくぴくと体が波打っていた。
これが恐怖を植え付けるほどの強さを誇った彼女なの・・・
敗者の姿はどれも儚げだ。彼女の場合強すぎたために余計そう感じさせるものがある。
憎い相手だったはずなのに見てて可哀相に思えてきた。
和葉は俯いた。
レフェリーが近寄り、望みもしないのに和葉の右腕を上げた。その間、和葉は俯いたまま目を瞑った。
スポーツなんて・・やっぱり嫌いだよ・・
和葉の呟きは誰にも響きはしない。
第19話
リングの外へ向かおうとした時に和葉は足がもつれ前へ倒れた。
もう体が限界だった。
このまま目を瞑っていたらまた眠ってしまいそうなほどに気持ちが良い。
でも、今ここで眠るわけにはいかない。
立たなきゃと力を入れてももう体が言うことを利かない。
目の前に手が見えた。
顔を上げると亜莉栖がしゃがんで手を伸ばしている。和葉も手を伸ばすと亜莉栖が和葉の腕を掴み持ち上げてくれた。それだけではなく亜莉栖は和葉の体を支えてくれ和葉は体を起こすことができた。
「ありがとう」
「ううん・・これは御礼だから・・」
亜莉栖に肩を貸してもらいリングを降りた。
「隅っこで休もう」
亜莉栖の言葉に和葉はうんと頷いた。
部屋の隅に到り着くと壁に寄り掛かるにようにして和葉は腰を下ろした。それから、和葉はグローブをはずし、口からマウスピースも取りはずした。銀色の液体がマウスピースに絡み付きどこまでも糸を引いた。左手で糸を切り、顎についた唾液を拭うと、左手から臭い匂いが鼻にまとわりついてきた。とっさに左手を引き、亜莉栖から見えないように隠した。
和葉は頬を赤く染めた。自分の体が臭くなっていることに気付き、急に恥ずかしくなったのだ。
はめていたマウスピースを袋に入れると、なるべく汚れていないマウスピースを取り出した。
「はいこれっ」
マウスピースを亜莉栖に与えた。
「ありがとう」
「ううん、亜莉栖の・・亜莉栖って呼んでいい?」
「うん」
「亜莉栖のおかげで頑張れたようなもんだから気にしないで」
和葉は亜莉栖の右手を見た。
「右手大丈夫?」
「分かんない・・前より痛みは引いてきてるけど治ったわけじゃないし・・」
「これからどうするの?」
「時間はまだあるし・・・もう少しすれば痛みもましになるかもしれないしとにかく今は待つことが重要だと思う。それよりも・・」
亜莉栖が和葉の体に目を向けた。
「和葉の体もやばそうだよ」
「時間が経てば少しは回復すると思うし、私も暫く休むよ。あと1試合で7つ集められるしたぶん・・大丈夫だと思う」
和葉は室内の置き時計を見た。
残り時間は2時間40分。残っている選手はあと15人程度でだいぶ少なくなっている。4つあるリングも今は1つしか使われていない。その試合が行われているリング上に目を向けた。
「嘘っ・・」
和葉は目を疑った。
一緒に帰ろうと誓った夏希がサンドバッグになっている。
そして、夏希を一方的に殴っているのは────
明日香だ。
To be continued・・・・
イラストは最近書いた小説のキャラクターを中心に描きたいと思っているんですけれども、そういう声もあることを頭に入れておきますね(^^)