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「Seven pieces」(連載時期 2002年 2010年)

「Seven pieces」というボクシングゲームに参加しなければならなくなった和葉の運命は・・・。
第1話

 「まだやるの?」
 「クリアーするまで」
 と言って和葉はコントローラーに力を入れる。その姿を椅子に胡座をかいて座ったまま珠希は見ていた。
 「クリアーってさっきから同じ場所で死に続けてるぞ。向いてないんだから止めときなって」
 「そんなことない」
 和葉は頬を脹らませた。と言ったうちから、またもプレイヤーは死んでしまった。
 「ったく、人ん家でストレス発散しちゃって。それで気が済んだら明日、明日香と仲直りしろよ」
 和葉は黙る。
 「気、弱い癖して意地っ張りなんだから」
 「だって・・明日香が悪いんだよ・・」
 「どっちかが謝らなきゃ仲はいつまで立っても回復なんかしない」
 今、振り返ると怒るほどのことでもなく思えるけど、その時は自分勝手な明日香の態度にかっとして口喧嘩した。
 もし相手が珠希だったら喧嘩にはなっていなかったのではないだろうか。ちょっとしたことで喧嘩に発展してしまうほどに波長が合う人間。それが明日香であり、だから、明日香とだけは喧嘩をするのだと和葉は思う。
 ただ、今日、喧嘩してしまったのは和葉がいらいらしていたせいでもあった。喧嘩の理由はたわいないものであり、感情をコントロールできていたら防げたかもしれない。感情の赴くままに行動するの明日香がいつも以上に短気に思えたのは和葉の態度がいつもより、尖っていたせいもありうる。
 珠希がコントローラーを奪い、ゲームを続けた。和葉とは違いぽんぽん面が進んだ。
 持ち主だからというのもあるけど、簡単に面を進められると自分がいかに下手なのか思い知らされる。
 今まで苦戦していたのがバカみたい。
 和葉は心の中で呟いた。
 MISSONCOMPLETEの文字が画面に出た。
 「ほらっこれでクリアー」
 玄関で珠希は和葉の前にモノを差し出した。それは小説だった。
 「新作。ゲームなんかよりよっぽど面白い」
 「うん」
 受け取って家を出た。裏表紙のストーリー紹介を見ると思わず涙が零れ落ちる感動の南ワールドと書かれている。珠希にしては珍しく、ミステリー小説以外のジャンルみたいだ。
 時計に目をやると時刻は6時45分を指していた。
 珠希の家に遅くまで居たのは気を紛らわせたかったからだけではなかった。家に帰ってもきっと父はいないからである。和葉がまだ幼い頃に母が亡くなり、和葉が中学を卒業すると姉は結婚し家を離れて夫婦二人だけの生活を送っており、現在、和葉は父親と二人きりで生活している。その父親は最近、毎晩帰りが遅く、家では和葉一人でいることがほとんどだった。
 商店街に入り、電気屋の前を通るとボクシング中継がされていた。父が好きなスポーツの一つだ。家に居る時にやっているのなら間違いなくチャンネルを回しているはずだ。野蛮なスポーツという印象を持つ和葉はボクシングは好きではないから、その時はだいたい小説を読んで時間を潰していることが多い。もしかしたらボクシング中継を観るために早く帰っているとか。そんなわけないか・・。
 和葉は溜め息を漏らした。
 最近の父は見た目に疲労していることがわかるほど、働きつめている。ボクシング中継を観たいからといって仕事を早めに切り上げることは考えられなかった。
 だが、家の外に着くと珍しく光が灯っていた。父の早い帰宅に頬を緩ませて和葉はドアを開けると見覚えのない靴が二束玄関に置かれてあった。
 誰が来ているのだろう?


第2話

 重苦しい空間。教室一つ分しかない狭い部屋には10代半ばの少女達がおよそ30人ほど閉じ込められていた。化粧のけばいコギャルから、本を読むのが似合ってそうな大人しくみえる娘まで様々だ。普段、キーの高い声できゃんきゃんと喋っているだろう彼女達は顔を下げたまま沈黙を続け、中には泣いているものもいた。これから何をされるのか不安でたまらないのだ。和葉もその一人であった。
 学校から少し遅くに家に着くと、珍しく父が仕事から帰っていた。だが、居間のテーブルに座っている父を真ん中に挟むようにして黒いスーツの男もテーブルに二人座っている。父が挟まれているように感じたのは肩を狭め、顔を俯かせていたからに違いない。
 その男たちを見た瞬間、和葉は身構えた。凄んでいるわけでもなく人の心を怯えさせるその目つきはどうみてもカタギの人達には思えなかった。
 父は顔を上げ、やや俯き加減に顔色も冴えずに「おかえり」と和葉に声をかけた。父の表情は顔色が冴えず、精も根もつき果てているようだった。
 「着替えが済んだらこちらに来なさい」
 父の言葉に従い自分の部屋で私服に着替える。着替えている最中、和葉の心臓はバクバク鳴っていた。父の様子がおかしいことに気になって、不安でたまらなかった。
 戻りたくないと思いながらも和葉は居間に戻った。
 「そこに座って」
 指示されるままに椅子に座る。
 「父さんな・・もう借金を返せそうにないんだ。このままじゃ二人で生活できそうにない。だから、和葉をここにいる人達に引き取ってもらうことにした」
  頭を何かで強く叩かれた衝撃が和葉を襲った。
 「ほ・・本当なのお父さん・・」
 和葉は体を震わせて言った。それ以上は後が続かなかった。胸に押し寄せてくる哀しみに耐えるので精一杯だ。何で私が引き取ってもらわなきゃならいのと言いたいのに声にして出せない。
 父は和葉の目を見ようとせず、顔を俯けて一層、肩を狭めた。その姿を見て和葉の目から涙が流れた。情けなくて辛くて溜まらないのだ。私は、父に捨てられた。父は私を愛してなどいなかったんだ。
 涙はいよいよ止まらなくなり、嗚咽していると両腕を黒いスーツの男の一人に肩を叩かれた。ドアの方に向け顎をしゃくった。もう一人の黒スーツの男がドアの方へと向かっていき、前後に挟まれて和葉もドアへと向かうしかなかった。
 外に出るとベンツが置いてある。後部座席に座るよう指示され車の中に入った。
 和葉は車の中でも涙を流し、泣いた。いつまでも辛く、無限に虚しさと情けなさと哀しみの混じった感情が吐き出されていった。やがて、涙も止まった頃に、隣から声をかけられた。
 「あなたは父親に売り飛ばされた。父親のことはもう忘れて、これからのことを考えたほうがいい」
 黒スーツの男の話し方が紳士的だったことは和葉にとって意外だった。その男の外見は髪をオールバックにしてまとめ、尖った雰囲気を出し歳は30代後半にみえる。
 これからのこと・・。そうだった私はこれから一体どうされるのだろう・・。
 すぐに売春が頭に浮かんだ。それ意外にはとてもじゃないが、和葉には想像がつかなかった。
 和葉は勇気を振り絞って恐る恐る黒スーツの男に聞いた。が、彼等は紳士的な言葉遣いであるが何も教えてはくれなかった。
 目的地に着けばわかる。それまでは大人しくしていなさい。
 男はそれだけ言うとまた沈黙を続けた。
 同じこと繰り返し聞いて機嫌を損ねてしまうことを恐れ和葉はそれ以後、車の中で黙るしかなかった。
 それから車は港に止まり、そこにはばかでかい船が一艘あった。黒くオンボロな外装。旅行しにいくといった華やかな雰囲気は一切もってなかった。その中に連れていかれて和葉は部屋の中にいれられたのだった。そこに今、和葉は10代の少女おおよそ30人ほどと一緒に閉じ込められていた。
 少女たちのすすり泣く声を聞いているうちに和葉も目から雫が一滴零れ落ちた。泣き尽くしもう残っていなかったと思っていたのにそれでも涙はまだ流れ落ちていく。負が負の感情を連鎖して呼んでいた。和葉はその中に飲み込まれてしまったのだ。
 ドアの開く音がしたので和葉は沈めていた顔をそちらに向けた。50歳前後のスーツを身に纏った7・3わけのオールバックの男性を真ん中に、両隣には黒いスーツを着た男が立っている。歳のいった50代のおじさんがボディガードを従えているというように見えた。
 7・3わけにしている男だけが壇上に昇り、机の前に立ち、マイクに向かって喋った。その言葉は和葉にはまったく意味が理解できないものだった。
 「君達にはボクシングをしてもらいます」


第3話

 言いたかった。大声を出して問い詰めたかった。
 なんで、ボクシングなんてしなければならないのですか!!
 だけど、口に出すことなんて絶対にできない。目立たぬようにちらちらと周りを見ても口に出そうとする娘はいなかった。 
 この中には学校では先生に平気で食いかかる娘もいると思う。そんな威勢の良い娘でもこの場所に充満している空気が危ないと察知しているためか黙っている。
 「君達にあるゲームをしてもらうためにこの場所に集めました。これから君達はゲームのプレイヤーとなり、ある条件を満たしてゲームクリアーを目指してもらいます。ゲームの名前はsevenpieces」
 ここで7・3分けの男が一旦言葉を止めた。
 和葉は唖然としどういうことになっているのか依然として理解できなかった。ゲーム・・・ゲームってなんであたしたちがやらなきゃいけないの・・・・・
 「ゲームは全員参加型でゲームクリアーの条件はいたって簡単。あるものを七つ以上に増やすことです」
 7・3分けの男が背広のポケットに手を入れた。出した手には小さくて白いものが握られていた。
 見覚えがあった。でも、なにか思い出すことができず、和葉は頭の中の記憶を探った。
ボクシングのシーンが思い浮かんでくる。
思い出した。あれはボクシングの試合でボクサーが口にくわえているものだ。
 「これはマウスピースといってボクシングの試合で口の中にくわえて歯を守るものです」
 7・3の男は口の前に持っていきはめる素振りをみせた。
 「このマウスピースを君達に二つ与えます。マウスピースを七つまで増やすこと、それがゲームクリアーの条件です。どうやって七つまで増やすか、その方法はこの部屋にいる娘達から奪うことそれだけしか認められていません。しかし、奪うといってもなんでもありではなく、場所はリングの上でのみ。リングの上で相手を倒した者だけが相手のマウスピースを奪うこと が許されます。闘いの方式はボクシングルールに設定されています。思う存分、殴り合ってください。ゲームSevenpicesのおおまかなルールは以上です。詳しくは今から渡す紙に書かれていますので参照にしてください」
 黒いスーツの男達から最前列に座っている娘に白い紙が渡されて後ろへ回されていく。それだけを見ていると学校のホームルームに出席しているかのように思えてしまう。
 和葉の元にも白い紙が回ってきた。後ろの娘に渡しすぐに紙に目をやった。
  


Sevenpiecesルール説明


一、 プレイヤーには二つのマウスピースが渡される。
一、 プレイヤーは自分が手にしているマウスピースを賭けてリングの上で他の選手と闘うことができる。
一、 マウスピースを賭ける数は自由である。ただし、試合をするには最低でも一つは賭けなければならない。
一、 試合の勝者が敗者のマウスピースを相手が賭けた数だけ奪うことが許される。
一、 試合はボクシングルール、許される技はパンチのみである。
一、 ダウンしているプレイヤーへの攻撃、下半身への攻撃は禁止されている。
一、 レフェリーの指示には従わなければならない。
一、 1R2分、フリーダウン、フリーラウンド制で行なわれる。
一、 試合の勝敗は相手をテンカウント以上マットに寝かせた者が勝利者となる。
一、 7つ以上のマウスピースを集めた者ののみ試合会場を抜けられ解放される権利を得られる。
一、 賭けるマウスピースが無くなったものは強制的にゲーム退場となる。つまり、失格となる。
一、 制限時間は4時間である。4時間を過ぎた時点で試合会場に残っていたプレイヤーは失格とみなされる。
一、 リング上以外での暴力、マウスピースを盗む行為は固く禁ずる。

 「ゲームにエントリーされている時点で皆さんの家族の借金は帳消しになっており、勝ち残れた娘様は無事、家に帰ることができます。以上を持って私の説明は終わりにさせていただきます」
 7.3オールバックの男はそう言い残し、壇上を下りようとした。
 ちょっと待って・・・。
 7・3分けの男を止めていろいろと聞きたかった。何を聞きたいのかよくわからない。多すぎてなにから聞けばいいのかわからないのだ。でも、このまま頭の中が整理できないままボクシングなんてしたくなかった。そうだ、なぜボクシングをしなければならないのか、まずはそのことを聞かなきゃ。
 でも、言えない。聞きたいことは数多くあっても怖くて聞けなかった。
 「ちょっと待ってよおじさん!なんであたしたちがボクシングなんてしなきゃいけないのよ!」
  肌は黒く、目の回りは白いいわゆる山姥ギャルが立ち上がった。和葉が言いたかったことを山姥ギャルはかわりに言ってくれた。彼女のファッションは全く理解できるものではなく、まるで違う人種のように和葉は思っていたが、自分の口から言えるはずもないことを言ってくれた山姥ギャルに同調し、心の中で頷いた。
 7・3分けの男は立ち止まり、山姥ギャルに視線を向ける。しかし、こう言うだけだった。
 「需要があるからです」
 「意味わかんねぇよ~」
 山姥ギャルの言葉を皮切りに少女たちは一斉に口を開いた。キーの高い声が怒号となって7・3分けの男に集中してぶつけられた。
 7・3分けの男は表情を変えることなく、ぱちんと指を鳴らした。黒いスーツの男が三人ほど山姥ギャルを囲み、二人で両腕を捕らえた。
 「何すんだよ離せよ~」
 山姥ギャルは足をどたばたと踏み鳴らし抵抗する。しかし、手の空いている黒スーツの男が御腹へパンチをめり込ませると、山姥ギャルの動きを止まり、頭がだらりと下がった。
 気を失ったみたいだった。山姥ギャルは部屋の外へと連れていかれた。
 「一人プレイヤーが消えた。立場がこれでわかったろ。御前等に選択権はない。ボクシングをするんだ」
 冷淡な声に威圧され、場内は静まり返った。
 山姥ギャルがその後、どうなるのか・・。 
鎖で繋がれて性の道具・・。
 モルモット・・・。
 考えたくなくても想像だけは勝手に進んでしまう。なんでこんなにも汚い想像ができてしまうのだろう。
 両手で耳を被い首を振った。こんな汚らしい想像が頭の中でされているなんてまるで自分じゃなくなったみたいだ。
 和葉は珠希のにやりと笑った顔を思い出した。
"こいつはお薦め"
 珠希が自信満々に言い放ち差し出しのが「outzone」という小説だった。その小説を読んで和葉は絶句した。歌舞伎町という街を舞台にしており、男に拉致され性の道具にされてしまう女や、借金を返せないために新薬の実験台にされてしまう男などひたすらに気持ち悪い内容だった。
 Outzoneを読んだあとは、怖くて眠れない日々が続いた。布団に入り、目を瞑ると奴隷のようにされている人たちの姿が思い浮かんでしまう。なにより、強烈なのは彼らの顔は苦痛に満ち歪んでいいるのだ。
 奥底にしまっていた記憶が小説とまさに同じ状況に置かれたせいで蘇ってしまった。
 和葉が歯をがちがち鳴らす中、ボクシング道具一式とマウスピース二つが手渡された。



第4話


 「早急に御着替えください」
 数人の男が監視している中、この場で脱ぐことに抵抗を感じたが、そんなこととは比べものにならない問題に気付いた。着替えがトランクスとリングシューズしかないのだ。
 「上に着る者がないんですけど」
 早速、誰かが聞いた。
 「トランクスだけを着衣している姿こそがボクシングの正装でございます」
 反論する者はいなかった。抵抗すればゲームに参加する資格すら奪われることは先ほどの件で皆よくわかっていた。
 上半身裸でボクシングをする・・・。
 想像しただけで和葉の頬は赤くなった。イヤだ・・。そんなの絶対にイヤ。
 「早く御着替えください」
 あくまで紳士的な口調がかえって和葉には怖く感じられた。抵抗するわけにもいかず、トランクスとリングシューズ、両手にボクシンググローブをはめた。
 和葉は顔を赤めたままグローブで胸を隠した。
 「では移動します」
 違う部屋を移り、そこは先ほどとは違い、体育館二つ分はある大きな部屋だった。パーティを開くに相応しい場所に見える。なのにその部屋には四つのリングが置かれてあり、なんともいえない胡散臭さが前面に出ている。
 「ゴングが鳴りましたら、ゲーム開始とさせていただきます。リングは四つしかありませんので先着順となります。交渉の成立したペアはリングの隣にいるレフェリーの前に立ち、順番をお待ちください。5分後にゴングを鳴らします。それまでは何をしてようと構いません」
 説明をしていた者が壇上から離れて幕の中に消えた。
 ボクシングをしなくちゃいけないの?ダメ・・私にボクシングなんてできるわけない。私は普通の女子高生なんだよ。ううん、普通よりもずっと気が弱くてすぐに泣いてしまう。そんな私が人を殴ることなんてできるはずがないよ。
 周りではパンチを振り回し、ボクシングの練習をする者が現われた。それにつられて何人かがボクシングの練習を始めた。
 すごい・・・。この人達はボクシングで勝つために形振り構わない努力をしている。
 私なんかはダメだ・・。
 足掻くという気力さえなかった。
 家に帰りたい。それで、温かい毛布に包まれて寝てしまいたかった。今日は泣きすぎて疲れ果てている。
 体育座りになり、膝の上に顔を埋めた。真っ暗闇で、この異常な世界と遮断がされた気がした。ずっとこのままでいられたら・・・。
 「いじけちゃダメだって」
 その声は隣からだった。顔を上げるとショートカットの女のこが微笑をして座っていた。胸に視線を向けていると、頭がおかしくなりそうだったから相手の女のこの顔だけを見るようにした。普段、相手の顔をあまり見ずに話をする癖がついているだけにやりにくかった。
眉毛が濃く、きりっとした顔だった。
 「泣きたい気持ちはわかるけど、そんなことしてても権利を放棄するだけだよ。君、諦めモード入ってたでしょ?」
 「え・・う・うん・・」
 首を振ったあとでこの娘にそんなことを言って良かったのかと和葉は思った。
 「たしかに辛いよね。あたしだって泣きたくなったもん。でも、友達の顔を想像してみなよ。それで、1番楽しかった思い出を思い起こすんだ」
 それで和葉は頭の中の記憶を引き出そうとした。真っ先に出てきたのは高校1年の春の出来事だった。
 太陽が気持ちよく体を照らすあの日。体育の時間だった。その日はバスケットボールをやることになっていて、瞬時の判断力を要するそのスポーツが和葉は苦手だったこともあり憂鬱だった。というのもチームが組まれており、チームメートでバスケ部所属の娘に文句ばかり言われるからだ。
 休みたいなと思いながら校舎を出て、体育館に向かおうとした時、明日香が指差した。
 「あれっ佐久間さんだ」
 指差している方を振り返ると珠希の背中が見えた。
 「何するのか探索してみよう」
 と無邪気な表情で言い、跡を付ける。
 和葉が「よそうよ」と言っても無駄で、明日香は「しぃっ」と唇の前に人差し指をもっていった。
 もうっと和葉はおどおどしながら思った。明日香は跡を付けることが珠希に悪いとは全く考えない。彼女らしいといえばそれまでだけど。と思いながらも校舎に隠れ、和葉もこっそりと見ると珠希は裏庭で草の上に寝転がり、何やら本を読んでいた。
・・・体育の授業をサボるなんて噂通りの人だ。
 目を凝らして見るとそれは安西浩の小説「虚ろなリアル」だった。「あっ・・」と思わず声を漏らしていた。 それで、珠希は和葉達の存在に気付き、目をこちらに向けた。
 和葉は、あわてふためいた。覗き見していたことをまずは謝らなきゃいけない。
 「何か用?」と彼女は言う。
 謝らなきゃ。
 と思いながらもなぜか、口は「面白いですよね安西浩」と言ってしまっていた。
 「知ってるんだ。ふ~ん」
 と言い、その後ににかっと笑った。
 「こんなに天気の良い日は屋外で読書に限る。あんたもどうだい?」
 「でも、体育の授業に出ないと」
 「ん?そうなら止めないけど、晴れた日に室内でバスケットやるよりか外で小説読んでるほうがよっぽど健康的だ」
 嫌いなバスケットボールをやるよりも大好きな小説を読んでいる方がよっぽど楽しいけど、でも、授業をさぼるなんて・・。
 「和葉ちゃん、授業サボっちゃだめだよ。いこうよ、遅刻しちゃうよ」
 「授業に出ることを義務と思っちゃいけない。権利の一つなんだよ。だから、あたし等には出ようが出まいが自由なんだ」
 実際に話をして珠希は抱いていたイメージと大分違っていた。饒舌だとも、行動の一つ一つを考えて移しているとも思っていなかった。そのことに和葉は驚きを感じていた。
 心は読書する方に向いていくも授業をさぼる決断だけはどうしてもできなかった。そうして決断できないうちに鐘が鳴った。
 「あ~鳴っちゃった」
 と明日香。
 それでようやく言えた。
 「私休む。バスケやなんだもん・・」
 「仕方ないなぁ、今回だけだよ」
 「鞄にあと2冊小説が入ってるんだ。本取ってきてあげるよ、小日向も読む?」
 「うん」
 「ごめんね、明日香ちゃん・・」
 「バスケやりたかったけど、授業サボるのもわくわくしていいかな」
 こんな状況でも明日香は能天気だった。
 その日、先生達に見つからないかとどきどきしながらも、寝転がって読書をした。不安だったから集中して本を読めなかったけど自分の中で世界が広がった気がした。それほど楽しかった思い出というわけじゃないのにこのことを思い出したのは三人で行動するようになったきっかけだからだろう。だから、今でも印象深く鮮明に覚えている。
 「どう?人生諦めたくなった?」
ショートカットの娘の問い掛けに和葉は首を横に振った。
「そうだよ。今はすごいピンチな状況だけど、絶対に無理ってわけじゃない。だから、思い残しがまだあるのなら勝ち抜こうよ」
 ショートカットの娘の言う通りで、珠希や明日香のことを思い出すとこのまま人生を終えることなんて絶対にイヤだと思った。また、彼女達と喋って笑いたい。そして、帰ることができたら、明日香に謝るんだ。私が悪かったって。
 「うん、勝ち抜く」
 ショートカットの娘は顔を近付けて囁いた。
「ねぇ、練習してる娘達を見てどう思う?」
 「えっ・・すごいなって・・」
 率直な感想を言った。
 「たしかに、勝負を勝ちにいこうとしてるよね。でも、あれが最善なのかって疑問に思うんだ。付け焼刃な練習なんてたかがしれてる。それよりもまずはリラックスすること。体を動かすこともリラックスするには良いかもしれない。でも、ゲームが始まったらまた不安で一杯になるとあたしは思うんだ。だから、まずはこのゲームの特性を知る必要があると思う。それで少しでも優位に立って気持ちに余裕を持たせようよ」
 和葉は呆気に取られ声を出せなかった。
 「ダメかな?」
 「ううん・・こんな状況なのに考えることがすごすぎて・・」
 「頭だけがあたしの武器だからね。運動はからっきしなんだ」
 と言って彼女は笑った。つられて和葉も笑い「私も運動苦手」と言った。
 「あたしの名前は夏希」
 「私は和葉」
 「一人で考えるより二人で考えるほうが良い案出せそうだし、とりあえず何でもいいからゲームでの必勝法を考えようよ。ゲームが始まったら敵同士になるけど、それまでは協力した方が絶対に良いと思う」
 「うん」
 と言って和葉は考えてみたものの状況が状況なだけに思うように頭が働らかなかった。
 「やっぱ対戦相手の選別だよね。どう見ても強そうな娘と試合しても損だよ。今のうちに弱そうな娘の目星でもつけよう」
 夏希は周りを見渡したので優希も慌てて周りを見た。
 「コギャルとかは喧嘩なれしてそうだからね。あと、スポーツ得意そうな娘もダメだよね」
 「いた・・」
 和葉は思わず呟いた。身長が低く、そばかすで三つ編みの娘。自分と同じく文化系の部に所属していそうだ。
 「どれどれ」
 と言って夏希は和葉が目を向けている方へ視線をやった。
 「うんうん、良い感じだね。おっその隣の隣の娘も弱そうだ」
 その娘は眼鏡をかけていた。髪が長く、プライドの高そうな女性に見えたが、眼鏡をかけているだけで運動は苦手な印象をもってしまうから不思議だ。他にも見渡したところ、全部の娘を確認できたわけではなかったけど、弱そうな娘は8名ほどいた。
 「選別はこれくらいにしてあとは何かないかな・・」
 そう言われ、和葉は考えこんだ。このゲームの重要なポイント・・。
 「マウスピース・・」
 和葉が言った。
 「ん?」
 「マウスピースを賭ける数って自由だよね。だったらそれってすごく重要な気がする」
 「たしかにそうかも」
 「こ・・このゲームで避けなきゃいけないことは・・マウスピースを全て失うことでしょ。だったら毎回一つ残す作戦ができるよね。このケースだと・・1つ賭けて勝った場合マウスピースは2つ。これで合計三つになるから・・・次の試合で二つ賭けて勝った場合5つ。その次に2つ賭けて勝って七つでクリアー。毎回保険が利くけど・・最低でも計3試合闘わなきゃ。でも・・・全て賭けた場合は、1試合目でマウスピースは4つ。次に三つ賭けて七つ。計2試合で済むことになる。こ・・これって大きな違いだと思うの」
 とは言ったもの、本当に重要なことなのかはイマイチわかっていない。
 でも、夏希は賛同してくれた。
 「それだよ、それはすごく重要なことだよ。どっちが得なのか考えてみよう」
 早くこのゲームを終わらせたいという点では全賭けでいきたい。でも、一回のミスが死に繋がるのはリスクが大きすぎる。一体どっちが得なんだろう?考えても深みにはまるだけな気がした。
 「リスクは分散して賭ける。これって株に投資する時の基本戦術なんだよね。だから、最低でも一つは残した賭けをした方があたしはいいと思う。もっともたいした違いなんてないかもしれない。だから強要はできないけど、あたしはこの賭け方でいく」
 理由がよくわからなかったが夏希に意見に従っていれば大丈夫と思ったので和葉も頷いた。
 「時間はもうなさそうかな。これで作戦終了。お互い頑張ろうね」
 「夏希さん、何で私に話し掛けてくれたの?」
 「心細かったんだ。だから、誰かと話してリラックスしたかったんだよね。ありがとうね、船の外でまた会おうよ、絶対に」
 夏希は右手を差し出した。和葉も右手を差し出しグローブとグローブが触れ合った。それは握手のつもりだった。


第5話

 夏希のグローブから離そうとした瞬間、ゴングが打ち鳴らされた。
 夏希が立ち上がる。
 「ゲームが始まった。ぼっとしてちゃダメ。相手を探しにいくんだ」
 夏希は駆け足で向かっていく。夏希の言葉で和葉もはっと我に返り、対戦相手の娘を探すことにした。幸い、先程当たりをつけていたそばかすの娘を近くで発見できたのでその娘の元へ走った。そばかすの娘は何をすればいいのかわかってないのかきょろきょろと周りを見渡している。
 和葉はそばかすの娘の前に立ちはばかった。それでそばかすの娘は目を大きく見開き驚いた表情を作った。
 恐れちゃダメ。相手の娘はびびってるんだ。
 喉からなかなか出せない言葉を振り絞って出した。
 「私と試合をしていただけませんか?」
 「えっ・・」
 そばかすの娘は和葉の顔を恐る恐る見ている。
 「いいよ」
 彼女は小さな声でぼそっと答えた。
 「マウスピースは一個でいい?」
 彼女は考えたが、すぐに返事した。
 「うん」
 「あそこのリングでいいよね?」
 和葉は前にあるリングに指差した。そばかすの娘は後ろを振り向き、首を縦に振る。二人は走ってリングへと到着した。すでに1組が到着しており和葉は2番目となった。
 1組目が早速リングに上がる。ソバージュかけた遊んでる風の少女とスポーツが似合いそうな爽やかショートの娘だ。
 レフェリーが二人をリング中央に呼び、何やらルール説明をしているようだった。一体、どういった試合展開になるのか、これから先自分にとっても重要なことだ。
 ゴングが鳴り、二人はコーナーを勢いよく飛び出していく。
 二人は足を止めて打ち合った。それはボクシングというよりもパンチを振りまわす喧嘩に見えた。防御をせずに二人は相手の顔面へパンチを叩き込んでいく。当然、何発もパンチが入っていくが、二人とも効いている風には思えなかった。元気にパンチを振りまわす行為が続く。
 だが、それも柄の間、一瞬にして片方がキャンバスに沈んでいた。ショートの少女の方だ。
 少女は立ち上がるが、足元はふらついている。
 試合は続けられるものの、その後は、一方的にパンチをもらうだけだった。
 何十発とパンチを浴び、何度もキャンバスに倒される。それでも彼女は立ち上がってきた。とうに顔は醜く変形してしまっている。スポーツが似合う爽やかという形容は当てはまらなくなっている。その変り果てた顔を見ていると惨めだとしか思うことができなかった。
 どんなに一方的になろうとレフェリーが試合を止めない。この試合の最中にレフェリーがやったことといえば、Rが終わった時に二人をコーナーを戻すことと、カウントを数えることだけだ。
 怖いよ、凄く怖い・・・。
グワシャァァッ!!
 「ぶへぇぇっ」
 広い部屋の中に響き渡る少女の苦悶の声。高い天井に向かってマウスピースが飛びあがり、赤い血が盛大に噴き上がった。
 マウスピースは場外まで吹き飛び、和葉の前にぼとりと重い音を発て、落ちた。 
「ひっ!!」
 思わず声を漏らしてしまった。
 床に落ちているマウスピースには透明な液体と赤い液体が気持ち悪くまとわりついている。吐き気を催し、和葉は目を反らした。


第6話

 リングの上にいると改めて今が夢のように思えてくる。なぜ、自分はこんなところにいるのだろう、なぜ、両手にボクシンググローブをはめているのだろうと。
 試合を待っている間、リングで行われた試合の凄惨なシーンを目撃し、治まっていた恐怖が湧いて出た。
 ───家に帰りたいよ。こんな恐ろしい場所から早く立ち去りたいよ。
 4本のロープに挟まれたリングの上にいると心の震えがさらに増していくような気がした。
 「立花和葉対藤沢亜莉栖の試合を始める。両者リング中央へ」
 レフェリーの声に従い、リング中央へと向かうとレフェリーの説明が始まった。だが、レフェリーの言葉は和葉の耳に届いてはいない。
 再びコーナーに戻り、あとは試合を待つだけのようだった。
 もうすぐ試合が始まる。
 ─────マウスピースをくわえなきゃ・・。
 和葉は思い出して右手に握っていたマウスピースを口にくわえた。
 なんとも嫌な感触が口の中に広がっていく。
 ─────こんな大きなモノをくわえて闘わなきゃいけないなんて・・・。
 和葉は口を開け、顔をしかめた。
 ゴングが打ち鳴らされてついに試合が始まった。
 和葉ははたどたどしく前へ向かっていった。よくわからぬままに相手との距離が縮まっていく。
 そばかすの娘、亜莉栖はグローブを顔の前に持っていき、顔を覆い隠すとそこから覗くようにして相手の顔を見つめている。内股で立つなよなよしたポーズで体を縮ませながらも視線をこちらに向けたまま外さない姿に必死めいたものが伝ってくる。
 今までに感じたことのない殺伐とした雰囲気がリングの上を包んでいた。ボクシンググローブをはめた女の子が自分の目に前に立っているという現実にとてもではないがリアリティを感じられない。しかも、相手の娘は上半身裸なのだ。どこの世界に上半身裸でボクシングをする女のこがいるっていうの。
 その異常ともいえる舞台に自分も上がってしまっていることをもはや認めざるをえなくなり、そんな場合ではないというのに情けなさを覚える。嫌でも視線に入ってくる相手の胸。特に赤茶色の乳房が目立って目に入る。顔を殴られたくないとう思いからか亜莉栖のガードは上に集中され、胸はほとんど隠されていない。
 一方、和葉自身の姿はというと、亜莉栖とほぼ似たような弱々しい立ち方をしていた。なよなよと猫背気味のファイティングポーズに下半身は内股である。もっとも、和葉自身はそのことに気付いていない。
 お互いが、なよなよしたポーズで立ち、顔をグローブで隠しながら覗くようににらめっこをする。
 殴らないといけない。殴らないとこの場から去ることはできない。そう思いながらも、パンチを出すことが和葉はなかなかできなかった。
 バシィッと軽い音が響いた。
 パンチが突き刺さり、和葉の頭が後ろへ綺麗に弾け飛んだ。顔を防いでいた両腕のガードは格好だけで力が加えられていなかったために相手のパンチに簡単に突き破れてしまったのだ。
 痛みが鼻に伝わってくる。じんじんと疼くように鼻に痛みが残る。
 和葉は目を大きく見開き、その場に立ち尽くしていた。亜莉栖は口元に力を込めて結び、喉元がごくりと動いた。
 途端に、意を決したかパンチを連続して打ち放った。二つの拳は和葉の顔面を何度も叩いた。和葉は一層、背を丸めてパンチの連打から逃れようとしていた。だが、下を向いていては一向にパンチの連打から逃れられるはずもない。
 サンドバッグとなるだけだ。
亜莉栖は和葉が抵抗しないとわかると右のパンチだけを繰り返し、和葉の顔面に叩きこんだ。下を向いている和葉の顔面に下から上へと拳を上げて。
 つまり、和葉のパンチを浴びたくない思いから縮こまっていた姿勢が逆に亜莉栖に無意識にアッパーカットを放たせる結果を招いていた。
 アッパーカットはパンチの種類の中でも最も力が加えられるパンチである。たとえ、素人の女のこといえどKOできる衝撃を伝えることは可能だ。
 連打で顔面にアッパーカットがめり込まれ、「あぶぅあぶぅ」と和葉の口から声が漏れる。効いている証拠である。
 ドゴォォッ!!
 8度目となるアッパーカットが和葉の顔面を潰し、よれよれと横に体が揺れ動いていく。すかさず、亜莉栖が距離を詰めていき、そして、パンチを叩き込む。
 「ぶほぉっ!!ぶふぉっ!!」
 ダメージが溜まり、口から漏れる声も激しさを増している。和葉はまたも亜莉栖に捕まり、一方的にパンチを打たれた。
 リングの上にいる限り、逃げ場はない。囲んである4本のロープが彼女達を死闘へと導かせ、それを拒否した者は和葉のように一方的に殴られるだけなのだ。
 和葉はもはや打たれるがままであった。人間サンドバッグなのである。
 ここでゴングが鳴った。
 和葉はふらふらとコーナーへ戻る。椅子がなくその場に座りこみ、苦しさから顎が無意識の内に上がっていた。ライトが眩しく、和葉の体を照らす。
 両頬がずきずきと痛む。ボクシングローブで頬を押さえてみたけれど、だからといって痛みが引くことはなかった。ボクシンググローブの皮の匂いがしてくるだけだ。
 痛い・・顔が痛いよ・・・・。私にボクシングなんてやっぱりムリなんだ・・。ちゃんとゲームの戦略を練っていけるかなって思いもしていたけど、人を殴ったこともない私がボクシングで勝てるはずがないんだ。・・これ異常殴られたら体が壊れちゃうよ・・。
 リングから逃げたい。そう思ってリングの外に目を向けた。黒スーツの男に両腕を囲まれて、部屋の外へと向かわせられている女のこが一人。顔は血に塗れ、頬や瞼が腫れ上がっていた。頭はうなだれて足元が定めまらずに、引き摺られる形で部屋の外へと向かっている。
 ボクシングに敗れてマウスピースを全て失った娘の末路を見てしまった。
 目を背けて両腕を頭部にもっていき、頭を下げた。
 このままじゃ私もああなってしまう・・。
 ─────イヤだ!絶対にイヤだ!!この場所から一刻も早く逃れたい。
 「時間だ」
 レフェリーの声に和葉は重い体をロープを掴み持ち上げてキャンバスに置いておいたマウスピースを口にくわえた。



第7話

 ゴングが鳴り響き、第2Rが開始された。
 和葉は前へと出た。亜莉栖の行動に前のRにみせていた迷いはなく、いきなりパンチを放ってきた。このパンチをガードし、和葉も今度はパンチを打ち返した。亜莉栖の顔面にヒットし、片目を瞑り、引き攣った表情でこちらを見てきた。
 和葉は攻め立てていく。一心不乱にパンチを出し、亜莉栖も負けずとパンチを打ち返す。パンチが当たったり、もらったりとパンチのぶつけ合いが行われた。腰の入ってないパンチを打ち合い、ガードもへったくれもない様はまるで、子供の喧嘩だった。
 それでも、亜莉栖の方が和葉よりも数段、ボクシングの動きになっていた。
 1Rで和葉の体をサンドバッグにしてパンチを打ち続け、どうやって打ったらより相手にダメージを与えることが出来るのかわかってきているのだ。
 1Rの間に受けたダメージの差も大きかった。打ち合いは続くが、ヒット数、一発におけるパンチの威力、双方ともに亜莉栖が和葉を凌いでいる。
 もっとも、亜莉栖も良い動きとはいえるものではなかった。運動能力に長けている者であったなら、たとえ、ボクシング経験がないといえども、とっくに和葉をKOできていたはずだ。それが、未だにダウンすら奪えていない。まだ決定的なダメージの差も実力差もあるわけではなく、充分逆転可能な範囲である。
 ゴングが鳴り、第2Rが終わった。第2Rから闘うことを始め、スタートを切った和葉と1Rに続き、着実にボクシング技術を高めていく亜莉栖。次のR、その差は縮まるのか、それとも広がるのか。最大の焦点はそこにあった。
 そして、第3Rが始まる。それは和葉にとって地獄だった。差は広がっていく。しかも、大きく絶望的といえるほどに。
 

 「うう・・」
 苦しみにうなだれた声が和葉の口から漏れた。顔は血に塗れて、血色の良かった顔は、血の痕とパンチを受けた痣で汚らしく悲愴めいたものに変わっていた。
 和葉のパンチがほとんど当たらず、亜莉栖のパンチだけが圧倒的といえるほどに 和葉の体にぶちこまれていく。
 お互い、運動神経の鈍い者同士だったはずだ。それが3Rに入り、亜莉栖は見違えるほどの動きを見せ、和葉を滅多打ちにしていった。
 何かに取り憑かれたかのように和葉の体を殴り、時々笑みをこぼすその姿は無気味であった。
 試合が始まり、7分間、高めたテクニックの差が圧倒的に開いてしまっている。
 和葉は、1R同様にサンドバッグへと戻ってしまった。パンチを浴びるためだけに立っている。1Rと違うことは闘志の差でなく、技術の差がこの状況を招いたことだ。お互いにゼロからリングに上がり、そして、勝者のレールを走っているのが亜莉栖の方なのだ。和葉は弱肉強食の世界の中で今まさに食われつつある。
 そして、決定的といえるパンチを食らった。
グシャァァッ!!
 右ストレートが和葉の顔面にめり込まれ、顔面と拳の狭間から血がぶしゅうっと飛び散っていた。和葉の顔面から亜莉栖の右拳へと道を作るように血の帯を作り上げ、リングの上を後退し、足がもつれ顔面からキャンバスに崩れ落ちた。



第8話

家に帰りたい・・・
 居間が浮かび上がった。そこで、父がテーブルに腰を下ろして、こちらを見ている。私の話に耳を傾けているんだ。温かい笑顔を作って。
 その光景はもう永久に戻らない。
 家に帰る?家に帰ったってまた父親に売り飛ばされる恐怖に怯えながら生活しなければならない。もう帰る場所はないんだ。
 涙が溢れてきた。頬を伝いキャンバスに流れていく。
 この船を出てももう私を必要としてる人間なんていない。
 でも、さっき闘わきゃいけない理由を確かめ合った気がする。なんだっけ・・。
 "新作だ・・面白いよ"
 珠希・・・。
 まだ帰る場所は残っていた・・。自分にとって捨てられない場所がある。帰るんだ。帰って小説を読んで面白かったって珠希に言うんだ。それで・・いや、これが重要なんだ。絶対、明日香に謝るんだ。
 和葉は立ち上がった。 
 「泣いてるの?」
 亜莉栖が言った。和葉はぐすっと鼻をすする。
 それを見て、亜莉栖は笑みをこぼした。
 グシャァァッ!!
 その瞬間、マウスピースが吹き上がる。亜莉栖がアッパーカットを和葉の顎にぶちこんだのだ。
 またも、和葉はキャンバスへと倒れた。両腕をバンザイのように広げてぐったりと天を仰ぐ。その視線は何も捕らえていなかった。

 異様な世界。そう思ったけど、だからといってさほど動揺はしなかった。
 これが地獄と皆は思っているの?だとしたら、私の毎日はどう表現されるの?
 亜莉栖にとって学校生活は苛められる日々だった。
 苛められる日々に比べればこのゲームはずっと楽じゃない。一対一で闘えるし、あとは自分より弱そうな娘と闘いさえすればいい。
 初めは上半身裸で自由を賭けてボクシングしなければならない事態に陥ってすっかり混乱しちゃったけど、この試合を始めたら気付いた。相手の娘は今までにこの世の地獄を体験したことのないお嬢ちゃん。
 負けるはずがない。あたしはこれまで何度も死にたいと思うほど辛い日々を過ごしてきた。
 いつか復讐してやる。そんなことを亜莉栖は考えて毎日を過ごしてきた。それは簡単なことだ。力を身に付ければいいことなのだ。今が正にその打ってつけの機会だった。闘うことでどんどん強くなれる。この船を出たらボクシングでもなんでも格闘技を習おうか、そんなことも亜莉栖は考えていた。自分に力を与えるボクシングを亜利須は気に入り始めていた。それで、いつか彼女らを血祭りにする。
 和葉が立ち上がってきた。生ぬるい人生しか歩んでいないあなたには負ける気がしない。
 亜莉栖は向かっていく。左のジャブで和葉の様子を見た。顔面に一発パンチが当たっただけで、和葉はふらふらと下がっていく。
 ・・・もう虫の息。
 両拳にぐっと力を入れ、亜莉栖は和葉に向かっていった。
 ロープを背負った和葉にひたすらパンチをぶちこんだ。
 「ぐはぁぁっ!!」
 和葉の口から大量に唾液が漏れ、尋常じゃない苦しみを表情に出している。御腹にめり込んでいる拳を亜莉栖は引き抜いた。今までにも何度も御腹を殴ったけど、こんな苦しみかたは初めてだ。
 もう一度同じ場所にパンチを打ち込んだ。
 「ぶはぁぁっ!!」
 同じように唾液を吐き出し、苦痛で表情が歪んでいる。流石に唾液の量は減っていたが、両腕でパンチを受けた部分を和葉はさすっている。顔面はがら空きになっていて隙だらけだ。そのことに意識が回らないほどに彼女は苦しんでいる。
 そういえば、そこは鳩尾といわれる部分なのかもしれない。鳩尾は人間の急所の一つだって漫画に書いてあった記憶がある。
 亜利須は笑みをこぼした。
 がら空きとなった優希の顔面にパンチをぶちこんだ。ふっくらとした頬の圧し潰れていく感覚が右拳に伝わり、和葉の頭が吹き飛んだ。
 無防備な格好となったところに、すかさず、鳩尾へパンチをめり込ませる。
 ドボォォッ!!
 「ぶはぁぁっ!!」
 和葉は口を開けて苦しみを吐き出していく。
 亜莉栖は何度となく鳩尾へパンチをめり込ませた。そのたびに苦痛に歪んだ顔をし、唾液が汚らしく口から流れ落ちる。
 ゴングが鳴り、亜莉栖は拳を止めた。
 亜莉栖は拳を打ち鳴らしながらコーナーへと戻っていく。
 その音が和葉には恐ろしく聞こえていた。


第9話

 珠希・・明日香・・。
 私・・どうなるんだろう・・。
 帰りたいよ・・早くいつもの日常に戻りたい。でも、相手の娘が強すぎるんだ・・私どうしたら・・。
 和葉は尻を付かせコーナーポストに背中を倒れかかるようにもたらせ、両腕をロープにかけている。
 瞼が重く、目が閉じられた。このまま眠りについたら気持ち良さそうだと和葉は思った。
 いや、ダメ。眠ったらダメだ。どんな惨めな姿を晒そうと負けるわけにはいかないんだ。

 亜莉栖はうふふっと笑みを作り、青コーナーで立ったまま、赤コーナーでへなへなに座りこんでいる和葉の姿を見下ろしていた。
 苛められていた日々が嘘のよう。拳を打ち鳴らし、まだかと次のRを待った。
 ゴングが鳴り、第4Rが始まる。Rが変わったからといって試合の展開が変わるということはなかった。何度となくパンチを和葉の体にぶち込んだ。
 和葉はマウスピースを口からはみ出しながらも必死にくわえ落ちることを拒んでいた。落としたからといって相手の者になるわけではないが、自分の命運を握る大事な物だ。だから必死になってマウスピースを落とさないようにしているのだろう。
 亜莉栖は和葉の汚らしく変り果てた顔面にパンチをぶち込んだ。
 落ちなよ!!
 落ちなよ!!
 顔は歪むが、マウスピースはなかなか飛び出ない。
 和葉は口を尖らせてマウスピースをくわえ、零れ落ちないように懸命だ。
 惨めな姿。
 弱々しくて見ているだけでイライラしてきた。
 もう一発。
 グシャァァッ!!
 右ストレートが顔面に直撃し、和葉の口からマウスピースが零れ落ちた。そして、和葉自身の体は豪快に吹き飛ばされ、キャンバスに背中から落ちた。
 マウスピースがキャンバスの上をころころと転がりやがて止まった。
 亜莉栖は笑みを浮かべてコーナーへと戻る。 
「楽しそうぉ」
 歌うような喋り口調の声が耳に入った。その声の主の姿を見た瞬間、亜莉栖の表情が強張った。
 何で彼女がここにいるの・・・。
 瞬きをしても、目の前には変わらぬ光景が待っている。
 「ねぇっやりたい放題殴れて満足?」
 赤コーナーのリングサイドに立っているのは上原林檎だ。いつものとおり、口元をにやにや緩ませている。だが、その頬には紫に腫れ上がった痣が出来上がっていた。それで、彼女もこのゲームに参加することになったことに亜莉栖は気付いた。
 亜莉栖はロープを掴み、顔をリングの外に向けて言った。
 「もう今までのあたしとは違うんだから・・・。次はあなたを血祭りにしてあげるんだから」
 「別にあたしはいつでも構わないよ。でも、まだ試合は終わってないじゃん。足元救われんじゃないの?」
 もう終わる。カウントが10まで数えられて終わりだ。
 「ほらぁっ立ち上がってきてるよ」
 林檎はリングの方を指差した。振り向くと、和葉が立ち上がってきている。
 まだやるの?しぶといな・・
 「そこで待ってて。すぐに倒すんだから」
 ダッシュして、和葉の体を殴りつける。
 彼女には感情のはけ口となってもらう。
 グシャァッ!!グシャァッ!!
 ─────あたしのサンドバッグが激しく揺れていく。
 「あ・・明日香・・ゴメン・・」
 頭が吹き飛ばされる中、和葉の口から声が漏れた。
 何言ってのこいつ。もう意識がないんじゃないの?
 亜莉栖はパンチを和葉の虚ろな顔にぶち込む。サンドバッグを殴りながら意識が試合の外へと向かう。
 ─────なんで上原がこんなところにいるの?
 少なくともここは学校よりも居心地の良い場所だった。それなのに、学校での忌々しい位出来事がここでも纏わりついてくる。
 林檎は亜莉栖を苛めているグループの一人だ。といっても彼女から危害を加えられたことはない。彼女は亜利須が苛められている姿をいつもにやにやと見つめていた。その人を見下した視線が亜莉栖には忘れられない。高みの見物でもされているかのような感覚を彼女の視線からはいつも受けた。もちろん、許し難いのは危害を加えている奴等と命令を出しているリーダーだったが、いつか仕返しをするリストに林檎の名前も載せている。
 ズドォォッ!!
 その音が頭の中で鳴り響くと視界が回り、背中に衝撃を受けると、天井を見上げていた。
 状況を理解した時にはカウントが2まで数えられた。
 嘘・・。あたしがダウンするなんてラッキーパンチが当たったに決まってる。
 口元から顎へ垂れ落ちている唾液をグローブで拭い、亜莉栖はすぐに立ち上がった。
 ────ちょっと体勢を崩しただけよ。
 亜莉栖は目を吊り上げ、林檎の目の前で恥を掻かされた恨みを晴らすべく和葉の元へ向かっていった。 


第10話

 和葉がダウンしてから立ち上がって以降、亜莉栖の攻撃は大振りすぎ、バランスが崩れていた。大きなパンチは怖いが、ガードを固めていれば当たらないことに和葉は気付いた。もしかしたらパンチをコンパクトにすれば当たるんじゃないかと和葉は思い、振りを小さくしてパンチを出してみた。結果は驚くべき効果を発揮した。亜莉栖からダウンを奪ったのだ。
 亜莉栖が倒れていることが信じられなかった。初め抱いていた地味な娘から試合が進むにつれ、恐ろしい女に印象が変わったあの亜莉栖から。
 亜莉栖は立ちあがってくる。
 コンパクトに。それだけを心掛けて和葉は向かってくる亜莉須を待ち受けた。亜莉栖の大振りのパンチをガードを固めて凌ぐ。いつか、連打が衰えてくる時がくるはずだ。そう信じて、相手の攻撃を堪えていた。その機会は思っていたよりもずっと早くに到来した。亜莉栖がへとへとになっているのが目に見えてわかり、和葉は反撃に出た。コンパクトを心掛けてパンチを放つ。
 ドボォォッ!!ドボォォッ!!ドボォォッ!!
 和葉のパンチが悉く亜莉栖の顔面を捉えた。次第に亜莉栖の体の揺れ方が激しくなっている。ダメージが蓄積している証拠だ。やがて血が飛び散っていく。血を見ただけで顔を真っ青にしていた和葉だが、常軌を逸した世界の中で浸かり、血を見たくらいではもう心は乱れなかった。
 亜莉栖が2度目のダウンをした。
 ────今度こそ決まっただろうか。
 和葉は、試合を待つ列から外れた場所に一人だけ女のこがぽつんと立って試合を見ていることに気付いた。にやついた表情で倒れている亜莉栖の姿を見つめている。やがて、亜莉栖がロープを掴み、立ち上がろうとしている。その時に目の前にいる女のこに向かって「まだまだこれからなんだから」と語気を荒げていた。
 一体、どういった関係なの?
 いや、私には関係のないことだ、それよりも大事なことは試合に勝つことだと和葉は気を引き締める。
試合が再開されると和葉は先ほどと同じように細かいパンチを浴びせ、亜莉栖を攻め込んだ。
一方、亜莉栖の攻撃はさらに散漫としていた。大振りで雑なパンチを振り回すだけだ。亜莉栖のパンチをかわし、右のフックを和葉は叩き込んだ。拳を振り抜くと、亜莉栖はまたもキャンバスへと沈んでいく。
 亜莉栖は這うようにしてロープへ近付き、右手で掴んだ。命綱となるロープを掴み、体を持ち上げる。
 亜利須はカウント9で立ち上がった。
 和葉ははとどめを意識して右ストレートを放った。亜莉栖は虚ろな表情のまま顔を下に向けたままだ。当たる、そう思った時、和葉にとって聞き覚えのない女性の声が届いた。
 「前、パンチ来てる」
 ドボォォッ!!
 肉が潰れる音。そして、そのあとに、少女の苦悶の声が響く。
 「ぶぼぉぉっ!!」
 和葉の顔は唇が苦しそうに尖り、歪んでいた。開いた口から唾液が顎を滴り、キャンバスへと落ちていく。
 和葉が伸ばしている右腕は何も捉えておらず、その下をかいくぐっている亜莉栖は低い体勢のまま、右拳を和葉の鳩尾にめり込ませていた。
 棒立ちになっている和葉の顔面に亜莉栖の拳が左右を往復した。和葉の口から唾液がねっとりとねばついた糸を引き吹き出され右に左に飛び散らされる。ほんの数秒前まで和葉が亜莉栖を滅多打ちにしていたというのに、今ではその正反対となって亜莉栖が和葉を滅多打ちにしている。
ドボォォッ!!
 またも、鳩尾にパンチがめり込み、和葉の体は背中が折れ、くの字になった。和葉の唇が開けられ白いマウスピースがもこっと顔を出した。銀色で艶やかな光を帯びているマウスピースがぬるりと落ちていく。その白い物体は絡まった唾液が口から糸を引きながらキャンバスに落ちた。その直後に和葉がファイティングポーズを取ったまま、前へと崩れ落ちた。
 亜莉栖はコーナーポストに戻り、林檎に顔を向けた。
 「なんであたしにパンチがくるのを教えたのよ」
 「さぁっ」
 林檎は両腕を後頭部にもっていきとぼけている。
 和葉は辛うじて立ち上がる。もはや、目の焦点は定まっておらず、口がだらしなく開けられ、唾液が端から垂れ流れたままだ。ガードの位置も胸までしか上がっていない。
 「明日香・・」
 和葉は独り言のように呟いた。ぼんやりとした瞳は宙をさまよったままだ。
 虚ろな和葉の顔面を亜莉栖の右ストレートが打ち抜いた。
 和葉は泥酔者のようにリングをふらつく。
 それでも、踏み止まりダウンだけは拒んだ。
 和葉の目に映る周囲がうねりをあげ、世界がぐにゃりとしていた。その中で急に明日香と珠希の顔が浮かんできた。 
 ─────待っている・・。明日香達が待っているんだ。負けられない!
 ふらふらと体が揺らぎながらも和葉はファイティングポーズを取った。
 「くらえ!」
 亜莉栖がもう一度鳩尾めがけて右ストレートを放った。
 ボキィィッ!!
 鈍く耳障りな音が響き渡った。それは骨が折れたかのごとく・・・


第11話

 ぷるぷると右の拳が震えており、亜莉栖は顔を歪めていた。突き出した右拳が和葉の肘に当たっている。ちょうど、鳩尾を守るために反射的に動かした右腕の肘の部分に亜莉栖のパンチが直撃したのだ。それは狙って出したものではなく、偶然だった。和葉も驚いた顔をして苦痛に顔を歪めている亜莉栖の顔を見ている。
 はっとした和葉は鳩尾を守った右腕をそのまま上へ振り上げた。
 グシャァァッ!!
 顎を吹き飛ばし、苦痛に歪んでいた亜莉栖の顔が表情を失う。ぽかっと開けられた口からはマウスピースが吹き出され、亜莉栖はリング上をふらついた。両腕が垂れ下がった無防備な体勢のまま顔からキャンバスに落ちると尻だけが高く突き上がってしまっていた。尺取虫のような状態のまま彼女は全く動かない。
 和葉はコーナーに戻るとコーナーポストに体を向けたまま両腕をロープに絡めることでやっと立っていられた。それでも、膝が折れ内股で辛うじてという状態である。倒れないでいるので必死だ。
 早くテンカウントが数えられてと和葉は願った。両足の力を抜くと尻餅を付いてしまいそうだ。
 膝ががくがくと揺れる。
 和葉は下半身の状態を見て焦りが募った。ますますカウントが気になって亜莉栖とレフェリーに視線をやった。
レフェリーがファイブを数えたが、亜莉栖はダウンした時変わらず尻を上げてキャンバスに寝たままだ。
 和葉はホッとする。
 次の瞬間、和葉は息を呑んだ。
 両腕を立てて亜莉栖が上体を起こしたのだ。
 そんな・・・。
立たないで、御願いだからと和葉は懇願した。心の中で両手を組み、目を瞑って御願いだから神様と祈らずにはいられなかった。
カウントが止まる。
亜莉栖が立ちあがったのだ。
「ファイト!」
 亜莉栖がのろのろと近付いてきた。その動きは痛々しく感じるほどに遅い。
 ─────もうちょっとじゃない。彼女、立ってるだけでやっとだもん。
 和葉もコーナーを出た。スピードは和葉の方が上だ。
 グキャァッ!!
 パンチを決めたのは亜莉栖だった。焦りと満身創痍の亜莉栖の姿が和葉の攻めを単調にさせた。
 和葉は踊っているかのようにふらふらと後ろへ下がった。体勢を戻して顔をしかめながら前を見ると亜莉栖も同様に顔をしかめていた。
 思い出した。彼女はダウンする直前、右のパンチが肘に当たり顔をしかめていたのだ。彼女は右拳を痛めていることに間違いない。
 可哀相だけど、これはチャンスだ。
 今度は焦らないようにと自分に言い聞かせ、慎重に亜莉栖を攻めた。
二人は足を止めてパンチを打ち合う。推測通り亜莉栖から右のパンチは放たれず、左腕一本で闘う相手に流石の和葉も打ち負けるわけがなかった。
 打ち合いはすぐに一方的なものになり、和葉は手の止まった亜莉栖をめった打ちにした。
 何度となくパンチが亜莉栖の顔面にめり込み、彼女の表情がみるみるうちに醜く変貌していった。ものもらいにでもなったかのようにもこっと腫れ上がる瞼。水脹れのごとく、膨らむ頬。なによりも不気味だったのは表情が壊れていたことだ。口は僅かに開けられ、目は宙を泳ぎ目の前にいる和葉を捉えていない。開けられた口からは唾液が、鼻孔からは血が噴き出ている。このまま殴っていたら死んでしまうのではないかと思うと和葉は恐ろしくなってきた。
 早く倒れてとパンチを打ち込んでいく。
 ミシャッと鈍い音が響く。
 唾液が飛ぶ。
 血飛沫が舞う。
 ・・・・。
 ─────もうこれ以上は殴れないよ・・・。
 和葉は手を止めてしまった。
 今にも泣き崩れそうな表情で和葉は変り果てた亜莉栖の顔面を見つめる。ファイティングポーズを取りながらもパンチを打つことができない。
 どうしても彼女の顔を殴ることができなかった。
 下から空気が切り裂かれる。
 まさかの一撃が和葉の顎を抉った
 グワシャァッ!! 
 「ぶへぇっ!!」
 和葉の口から血飛沫が上がった。その先では朱色に染められたマウスピースが高々と舞い上がっている。
 血飛沫を上げたまま和葉は両腕が上げられて後ろへと倒れた。主が倒れてなお、マウスピースは飛んでいる。
 ようやく落ちたマウスピースが二度跳ねて和葉の顔の横に止まった。
 それまで元気だったのが嘘のように和葉もマウスピースも動かない。和葉の周りだけ時間が止まっているかのようだった。
 白目を向いて天を仰ぐ和葉の姿を見た亜莉栖は壊れ果てた表情にうっすらと笑みを浮かべ、コーナーへ戻った。
 あたしの勝ちねと彼女は呟いて。



第12話

 人の顔がぐにゃりと歪んでいる。それだけじゃない。世界がぐにゃぐにゃと揺れている。
 意識が朦朧としている中、ボクシングをしているのだと把握することが出来ていたのはレフェリーが数えているカウントのおかげだった。皮肉にも何度もダウンしていたせいで和葉にとってレフェリーのカウントが耳に馴染みのあるものになってしまっていたのだ。
 わ・・私だって負けられないよ・・・。
 和葉は体をごろりと一回転させてうつ伏せになれた。運良くもう少し近寄ればロープが手に届きそうだった。
 体を芋虫のように這わせて少し距離を縮め、右手を伸ばしロープを掴んだ。両腕をロープに絡めて、必死になって立ち上がった。
 「はぁはぁっ」
 ロープに体を預けたまま相手に向けてファイティングポーズを取る。
 そんなまともに立っていられない状態でも試合は再開された。
 もう殴りたくなんてない・・・。
 でも、殴らないと殴り倒される。
 立ち上がらなければ良かったのに・・・。
 でも、こうして立ち上がっている。
 どうしても、マウスピースを譲るわけにはいかない・・・。
 躊躇したままぼうっと立っている和葉の顔面に亜莉栖が右のパンチを叩いた。パチンと軽い音が弾けた。頬をはたかれた程度の衝撃しか伝わってこなかった。
 亜莉栖は顔を歪めてぐっと痛みを堪えている。
 もう一度右の拳でパンチを打ってくる。パチンとした音がするだけだ。もう彼女の拳は使いものにならない。ダウンを奪ったアッパーカットで完全に壊れてしまったようだった。それなのに意地になって右のパンチを繰り返し放つ。
 片翼がもがれた亜莉栖に対し和葉はパンチを全力でその体に打ち込んだ。両腕で何度も何度も殴り続けた。
 彼女の顔面からさまざまな液体が飛び散っていく。顔の形がさらに歪んでいく。
 けれど、亜莉栖の体を傷付けることは出来ても倒すことは出来ない。
 ────もう倒れてよ・・だってあなたはもうボクシングなんてできる体じゃないんだよ。
 和葉はしゃくり上げた。その表情は今にも流れ落ちそうな瞳に浮かぶ涙を堪えようと唇を噛んでいる。
 ─────試合中に泣いちゃダメだ。
 和葉は右ストレートを打った。
 グシャッ!!
 目の前からは血飛沫が上がる。
 後ろへ飛ばされた亜莉栖の頭がまたも和葉の顔に向けられた。
 まだなの・・・。
 和葉の顔からまたも弱気の虫が現われた。
 だが、亜莉栖の様子が今度ばかりはどうも違っている。
 亜莉栖の口から呻き声が漏れた。その声と供に口からはマウスピースが徐々に顔を出そうとしている。
 「ぶぼぉぉぉっ!!」
 まるで蝦蟇ガエルのような醜い声だ。
 煌びやかな液体に包まれたマウスピースが口から零れ落ちた。ぼとりと音を発て一度キャンバスの上を跳ねた。
その直後、亜莉栖の膝が折れ曲りキャンバスに付き、顔面がキャンバスに沈んだ。
 突き上がった彼女の尻が何度も小刻みに震えていた。キャンバスに埋もれ僅かに見える亜莉栖の顔は白目を向き泡を噴いてしまっている。
 思わず、和葉は目をそらした。目を瞑っているとカウントが入ってきた。和葉は踵を返してコーナーへ辿り着くとリングに背中を向けたままにした。両手を広げロープを掴み、キャンバスに向かって荒い呼吸を吐き出す。もうなにも見たくなんてない。
 ゴングの音が何度も鳴り響いた。
 もしかして試合が終わったの?
 でも、もうリングを向きたくなんてなかった。
 そうやって思い悩んでいると肩を掴まれた。
 振り向くとレフェリーが和葉の右腕を高々と持ち上げた。
 「勝者立花和葉」
 その瞬間、もう殴り合いをしなくていい安堵感に包まれた。すぐにでもリングから下りようと思った。けれど、僅かな心の誘惑に負け、つい亜莉栖の方に目を向けてしまった。
 尻を突き出した尺取虫のような格好で彼女は倒れたままリングの上に放置されている。
 誰も看病してくれる人はいない。リングの上という目立つ場所で惨めな格好に晒されたままなのだ。
 ──────私がやったんだ・・。
 和葉は下に視線をそらした。
 亜莉栖の元へ行ったレフェリーがすぐに戻り和葉の前に立った。和葉の顔の元へ差し出してきた手にはマウスピースがあった。それは唾液で全体を包まれ真っ赤な血が部分的に滑りついており、臭い臭いが漂っていた。
 「勝者の報酬だ」
 和葉は手に取るとそのままリングを下り、荷物の袋にマウスピースを入れ、駆け足でトイレを向かった。
 足がもつれ今にも転びそうだった。
 男性用と女性用の二つに分かれていたが、わざと男性用に入った。一人になりたかったからだ。
 鏡の前に立つと、瞼も頬も両側が紫に変色し、腫れ上がっている醜い顔があった。
 それを見た途端、我慢していた哀しみが涙になって噴き出た。
 もう帰りたいよ・・・
 和葉は壁にもたれかかりその場にしゃがんだ。両の掌で顔を覆い、何度もしゃくり声を上げた。
 暫くして涙も治まり顔を伏せたままにしていると段々と頭の中がぼうっとしてきた。
 快楽の渦に巻き込まれ体が重くなっていく感覚。
 気持ち良いけど、和葉はダメだと快楽を必死に拒絶しようとする。
 これって・・・

to be continued・・・
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