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 更衣室に入ろうとドアを開けると、秋子と鉢合わせした。
「待ってたぜ新人王」
 眼前で秋子はにやけながら言った。
「からかわないでくださいよ」
 裕子は目を逸らして答えた。
「まあそう言うなよ、あの試合でお前への期待はがぜん増したんだ」
「それより今日からまたよろしくお願いしますね」
「それなんだけどさ、今日から裕子のトレーナーには会長がつくことになったから」
「えっ・・・」
 裕子は目を見開いた。
「でも・・・」
「わたしへの気づかいだったらいらないよ。わたしから会長に提案したんだ。会長がついてからの裕子のボクシングを見たら誰だってそう思うさ」
 そう言うと秋子は「へへっ」と笑いながら続けた。
「親子の絆に勝るものはないってやつだ」
「秋子さん・・・」
「そんじゃがんばれよ」
 秋子はそう言うと裕子の横を通り過ぎていく。
「秋子さん、ありがとうございます」
 裕子は秋子の背中を見ながら頭を下げた。
 着替え済ませ、練習室に移動すると、昭夫がミットを手にしていた。
「お父さん、よろしくね」
 裕子が近付いて挨拶をすると、昭夫も気付いてこちらを向いた。
「ああ」
「お父さんそれは?」
 裕子がミットを指差すと、
「まずはミット打ちから始めようと思ってな」
 と昭夫は言ってミットを手にはめようとする。
「裕子がどれだけ成長したのか早く確認したいからな」
 裕子は笑みを浮かべて「うん」と頷いた。

 ジムに顔を出すのは三週間ぶりになる。一呼吸置いてからジムの扉を開けると中にいたのは時宗一人だった。ボクシンググローブをはめているところだ。
「会長きてる?」
「今日はまだだよ」
 時宗の返事を聞いて未希はそそくさと帰ろうとしたが、呼び止められた。
「あれっ練習していかないの」
「うん」
 とだけ返した。
「しょんぼりした顔してるね」
「それは試合に負けたわけだから」
 言いたくない言葉を声に出して、さらに気持ちが滅入ってくる。
「まだ落ち込んでるの?」
「まぁね・・・」
 時宗はそのまま何も言わずに練習を始めるでもなくこちらを見続けている。なんとなくこのまま帰るのも気が引けて、かといって世間話をする気にはなれず思いきって伝えることにした。
「実はさ・・・もうボクシングを辞めようかと思って」
 時宗が細い目を見開いた。
「まだ一度負けただけじゃない」
 未希は首を横に降る。
「小泉の才能を目の当たりにしちゃうとさ・・・やっていける自信がなくなっちゃって」
「真面目だね」
「真摯にって言ってくれる。その言葉はあまり好きじゃないから」
「ボクシングに一途なのは未希ちゃんの良いところでもあるけれど」
 時宗が真剣な目でこちらを見る。
「でもさ、恋愛を避けたり大学に行くの止めたり・・・そういうの息苦しくならないの?」
「仕方ないだろ、あたしはそういうやつなんだから」
「もっとボクシングを楽しんだらいいのに」
「それが出来たら苦労しないよ」
 未希は両腕を組んで目を瞑った。
「ねぇ」
 と時宗が言ってきて、未希は「何っ」と面倒臭そうに目を開けた。
「ボクシング辞める前に一週間だけ僕のトレーニングやってみない?」
「えっ・・・」
「それからでもいいんじゃない、ボクシングを辞めるか決めるのは」
 やりたいとは思わなかったけれど、自分のことを心配してくれているのだと思うと断る気にはなれなかった。
「別にいいけど・・・何するの?」
 時宗はにこりと笑う。
「僕が考えたシャドーボクシングをね」

 一週間が経ち、未希はジムで時宗と再び顔を合わせた。
「楽しかった?」
「楽しいわけないだろ。。こんなへんてこりんなトレーニング」
 時宗の考えたシャドーボクシングとは、前に貴子が指したおかしなシャドーボクシングのことだった。パンチを打つ時はスローモーションと言ってよいほどゆっくり出して、引く時だけ素早くする。
 実際にやってみると、このシャドーの特徴であるゆっくりとパンチを打つのがもどかしくて仕方なかった。
 時宗は「そう」とだけ返事して背中を向いて歩き始めた。サンドバッグの前で止まってこちらを改めて向いた。
「じゃあサンドバッグ叩いてみて。右ストレートね」
「サンドバッグって来たばかりなのに」
 嫌々ながらも未希はボクシンググローブをはめてサンドバッグの前に立った。時宗の指示通りに右ストレートを打ち込む。サンドバッグが大きく縦に揺れると、右拳から腕へとこれまでに体験したことのない感触が伝わってきた。
「なにこれっ今の感じ・・・」
 未希は右拳を見つめ続ける。
「今までとは違う・・・衝撃が突き抜けた感じ・・・」
 説明をしてよと促すように時宗の顔を見た。
「パンチの威力って前に出す時と同じくらい引く力も関係してくるの知ってた?」
 未希は首を横に振った。
「だから、引く時だけ早くしてたの?」
「そう、その方が引くコツが身体に染み込むでしょ」
「そっか」
「それにバランスも大事だからね。ボクシングって前にパンチを出してばかりじゃない。引く動作もきちんとやった方が身体と心のバランスも取れると思ってね」
 未希はうっすらと口を開けた。時宗がこんなにもボクシングの練習を追求しているとは思いもしなかった。
「未希ちゃんは前へ前へ気持ちが先走りがちだから心を整えるって意味でも重要かなって思ってね」
「ふざけてたのかと思ったけど色々考えてんだね」
「ふざけてるようにみえてたの」
 時宗がふうっと息をついた。
「これからは強さを追い求めるだけじゃなくてさ」
 時宗がにこっと笑みを浮かべる。
「可能性を探すのもいいんじゃない」
 未希の心に風が吹いた。春の季節を感じさせる爽やかで柔らかな風。そして、太陽が昇ったかのように視界が明るくなっていく。未希は両拳をぐっと握った。
「あたし、ボクシングを続けるよ。一からやり直してみる」
「良かった」
「でも、一からなんて言わないでもっと肩の力抜いてさ、やってみるだけでいいんじゃない」
「そうだったね・・・」
 未希は右手で後頭部をさすった。
「それとさ・・・」
 未希は顎を引きながら時宗の顔を見た。
「告白の返事だけど・・・まだありかな」
「うん」
 時宗は笑顔のまま頷いた。
「じゃあもうしばらく待って。もう一度考えるから」
「分かった、待ってる」
 時宗につられて未希も微笑んだ。もう返事は決まってるようなものだとすぐに気付いたけど、今は伝えるのは止めておくことにした。恋心が芽生えたこの瞬間を大切にしていたくて。

おわり
小説・希望はリングにある | コメント(0)
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